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(小説)#16 「Re, Life 〜青大将の空の旅」

終章 青大将、裏山に帰る①

これからどう生きるか

(椿の里で何をするか)
志津子は、廃屋となっている、とみ爺の家に何度も来ては佇んだ。
(この地でどのように暮らしていくか)
西の浜から吹き上がってく潮風が心地よい。
とみ爺と過ごした4歳の時の記憶が湧き上がってくる。
(思い出に浸っているばかりではいけない)
この家屋敷はそのままではどうにもならない。
どうにかしないといけない。
取り壊すとすると、その後、自分は何ができるだろうか。
あれこれと、考えるばかりの日々が続いた。


(新しい家を作りましょう)
何度も、とみ爺の廃屋に通ううちに、次第に気持ちがハッキリしてきた。
何のために北村の家から決別したのか。これから寿命が尽きるまでの生を自由に楽しく生き通すためではなかったか。
航が、その両親が後押しをしてくれている。
とみ爺の家も  “ようこそ”  と歓迎している。
(私はここ、椿の里に来ている)


先ず一番に思い浮かんだのは “キッチン北村” の構想である。
自分も楽しみながら、おいでくださる方に、ささやかな料理を振る舞う。
志津子が、すぐできるのは、長年作り続けた弁当である。
にぎりめし2個の朝食セットも北村の家で習い覚えた。
糠漬けのノウハウを教わり、航の名古屋転勤の折には、貴重な糠床を分けてもらって転居した。
夫と2人の暮らしでも途切れることなく糠味噌をかき回した。
茄子、胡瓜など、季節ごとの野菜の吟味方法も覚えていった。
わたると自分の弁当作りの歴史も長い。
手書きのイラストから始まった弁当の記録は、優に20冊を超えている。
弁当作りには、季節を生かすことを心掛け、メインのおかずは、最低2ヶ月は空ける北村家の献立ルールを守った。
「今日は、なんだろう」と、ワクワクするような弁当を工夫したものである。
北村の家では、鶏肉、豚肉がよく使われたが、調理方法は、毎回、工夫されて飽くことはなかった。
主に経済的な理由から、牛肉は滅多に登場しなかった。
魚類は近海物を中心で、マグロなどは先ず使うことはなかった。
鰺か鯛の刺身が時々、夕食時に用意されることがあった。それは、一家の主人の食卓にだけのるものであった。

女衆のナツ子は、  “鰯の酢ぬた”  作りが得意であった。
それは修造のビールのあてに用意されたものであったが、鰯の旬になると3日に1度ぐらいの頻度で食卓に上る。
格安で新鮮な鰯が手に入るとわかると大量に買い入れた。
キラリと光る  “鰯の酢ぬた”  が、お手塩(手塩皿)にコンモリとのって、5皿ばかり、冷蔵庫に出番を待っていることがしばしばあった。
いつの間にか成長期の明と博も  “鰯の酢ぬた”  の愛好者となった。
志津子もナツ子と同じ  “鰯のぬた”  は、得意料理である。
長崎の地では戦後しばらく、鰯はモミ母さんの大事な食材であった。
原爆の焼け跡の地に店開きした魚屋には、当初、鰯しか入荷しなかった。
それを人々は待ち構えていて、トロ箱1パイ購入することが多かった。
安価であった。毎日毎日、鰯だけが入荷した。
冷蔵庫のない時代で、煮付け、塩して干すしかない鰯を、モミ母さんは鮮度を見て、止夫とめお父さんの酒のあてとして  “鰯の酢ぬた”  をこしらえた。
手伝っているうちに志津子は、何時の間にか  “鰯の酢ぬた”  作りが上手くなっていた。新鮮な鰯の皮をバリバリと引く感触は、得も言われない  “鰯の酢ぬた”  の味わいに繋がって志津子の味覚に残っている。

北村家の食事メニューは、基本的に2ヶ月で1周という考え方であった。
家族全員が好むカレーライスでも、2ヶ月は間隔を空けた。ビーフシチュー、クリームシチューもしかり。
メニューは、姑フク女衆おなごしナツ子の知恵を絞った年間プランであった。
春夏秋冬に対応したメニューである。
それに基づいて計画的な食品購入をした。食品ロスは、まず出ない。
志津子は、北村家の台所全体を四季ごとに把握し、日々の食事作りのノウハウを体得していった。
“一家の安穏は食が基になっている”  とは、志津子の思いである。

 2番目の構想は、北村洋装店である。
志津子の洋装店勤務のキャリアは長い。
大阪の洋装店では、志津子のふんわりした接客態度を好む来店者がじわりと増えた。志津子は、客の要望をトコトン聞いた。アッと言う間に売り上げナンバー1となった。
名古屋では、自宅マンションの1階にある洋装店で  “カンタン洋裁教室”  を開かせてもらい、次第にお得意さんを増やしていった。
その店主から譲り受けた店は、長く繁盛した。
わたるの闘病が長引くと判断して、店はお針子のひとりに譲渡して完全に手を引いた。考えて見れば、志津子の洋装裁店勤務歴は長く、たくさんの顧客に支えられて腕前も磨き上げられていた。



 さて、どうするか。
とみ爺の家屋敷は、完全に更地にする。
そこに新しい住まいを作る。
そこから先が難しい。志津子は、はじめて家造りに挑むことになった。
先ず、自分の住む家としての建物を造る。
そこに、小規模ながら商いとして  “キッチン北村”  を組み込んでいく。
名古屋での経験から、ゆとりができたら、週1回ぐらい、カンタン洋裁教室を開くのも悪くないか、と考えた。

 “キッチン北村”  の構想ができた。
中川弁護士に連絡を取った。
とみ爺の家屋敷の購入の話を進めて貰うことにした。
同時に、名古屋のマンションを引き払い、八重本村の借家に移り住むことも伝えた。
中川弁護士は、とみ爺の家の相続人と連絡を取り、長崎市の不動産屋に仲介を依頼した。
志津子は、話し合いが煮詰まったとき、長崎市の銀行に出向き、そこの会議室で初めて、山田五郎と出会った。五郎は思いなしか、志津子の記憶の片隅にあるとみ爺と、どことなく似ていた。
「ありがとうございます」
五郎は頭を下げた。空き家には火災保険がかけられない。家は古びて何時倒れるか分からない、雑草は毎年生い茂る。いささか持て余していたらしい。
弁護士は、思ったより格安で譲り受けたと志津子に告げた。
志津子は、久し振りに北村の実印を使った。

 「北村さん、これから先は、地元の弁護士事務所でお願いします」
中川弁護士から突然の業務終了を告げられた。
もっともなことである。出張を繰り返してくれていたらしい。北村修造フクへの報告でもって志津子との業務は完了ということである。
椿の里から一番近い弁護士事務所が川平にあるが、長崎市内には知り合いの弁護士事務所があるので、紹介しましょう、となった。

「お世話になりました。ありがとうございました」
(これで、すべて北村の家から離れてしまう……)
志津子は、しっかり中川弁護士に感謝の意を伝えた。
が、どうやら泣きべそかぶっていたらしい。
「北村さん、あなたは強い。それに、すぐ援助者が現われます」
中川弁護士は、にっこりして去って行った。





(    #17 終章② (最終話)へ続く。お楽しみに。)

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