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8章 イチョウの決断⑴

イチョウは、ザワザワ病院で左膝の手術を受け、術後10日間は悪夢の中にいた。11日目に、1階のリハビリステーションまで移動して、そこで数種の基本プログラムによるリハビリを受けられるまでになった。
すると食欲が出て来た。
昼食のお膳の3分の1食べることが出来た。
すぐ、点滴が終了した。
同時に、排尿の管も取れ、ベッドサイドに、ポータブルトイレが運び込まれた。
ナースの病室訪問の回数が減った。
ここまでは順調な回復である。

こうしてイチョウは、ベッド脇のポータブルトイレから病室のトイレを使う段階にまで回復した。しかしそのトイレ使用にはずいぶんと難儀することになる。 
便座に座る時もつらいが、立ち上がる時はもっとつらい。
右手にある縦バーを握って、体をねじるようにして立ち上がることになるのだがその度に
「ウウウウー」
顔はゆがみ、うめき声まで出た。

イチョウは、ヨシキタPT(PT:理学療法士)に文句を言った。
「どうして? こんなトイレにしたの! なんのためのトイレ付き個室なのよ」
「……」ヨシキタPTは、困り切った表情になった。

翌日、彼は、病室まで歩行器を運んで来た。
イチョウは、さっそくそれを使ってソロリ、ソロリと、エレベーターの隣にある多目的トイレまで出掛けた。
このトイレは実に楽であった。
便座の両サイドに、つかまりやすいバーが付いている。
殆ど苦痛なく立ったり座ったり出来る。
遠回りだが、イチョウは、夜中でも、多目的トイレまで出掛けた。

多目的トイレを使ってみた結果、イチョウは、病室のトイレの便座がそれよりも少し低いことに気付いた。下肢を手術した患者にとって、それは、立ったり座ったりに負担を強いる便座である。
しかも、立ち上がる時につかむ縦バーは、右側だけにしか付いていない。
イチョウの手術した左脚は、まだ体を支える力がないので、手術していない右脚を踏ん張って体を支えることになる。
その右脚とて手術待ちの脚である。
術後かなり経っても、病室のトイレ使用は苦痛を伴った。
手術した左膝の関節はしだいに痛みが取れ、動きも良くなっているのに、便座からの立ち上がる力がもう一つ出ない。
縦バーを掴んでどうにかこうにかヨッコラショと立ち上がれるという状態が続いた。
イチョウは、手術部位の痛みが軽くなるのと入れ替わるように、左脚の外側がしびれることに気付いた。
特に就寝後しばらくすると、左脚のしびれが強くなる

イチョウが「病室のトイレ使用がつらい」と、訴えると、浅澤三郎医師は、不思議そうな表情をして、アレコレと質問して来た。
「夜間に、左脚の外側にしびれる感じがある」と言うと、医師は、
頷いて、「少し検査しましょう」と言った。
諸検査の結果、脊柱管狭窄症せきちゅうかんきょうさくしょうの疑い、となった。
くしくもスイデンと同じ病名である。
(笈の花かご #4 序章 ヒヤリ体験⑶より)
医師は、
「これも、手術で治せます」と、言った。
その言葉に、イチョウは、
(そうかな?)と思った。
イチョウの10年来の書道仲間に、脊柱管狭窄症せきちゅうかんきょうさくしょうと診断され、手術を受けた高齢の男性がいる。
その人は、「大変な思いをして手術を受けたけどスッキリしなかった。脊柱管狭窄症の手術は、お勧め出来ないね」と言った。
手術してから、夜間の下肢のしびれは幾らか軽くなったが、その後も痛み止めの薬が手放せないと語った。

イチョウ自身も、痛み止めの薬を朝夕2回、各1錠服用している。
さらに、夜間の左脚のしびれに対して、夕食後の痛み止めの薬を2錠に増やすことになった。すると、少し楽になって良く眠れるようになった。
昼間は、元気でザワザワ病院の廊下を、歩行器を使ってスイスイと移動出来るまでに回復した。

それを見て、ヨシキタPTは、
「歩行器使用を終了します。杖歩行に移ります」と宣言した。
そして、当初の予定通り、続けて右膝の手術を、1月、年明け早々に行うことが決定した。

ここに至って、イチョウは、
「さて、どうしたものか」という思いに駆られた。
(このまま、次の右膝を手術していいのか?)
イチョウは手術を躊躇とまどっていた。
左膝の術後10日間の苦しみは、ハッキリと脳裏に刻まれている。
脊柱管狭窄症せきちゅうかんきょうさくしょう疑いまで出現して、夜間の左脚のしびれが続いている。
(この状態で右膝を手術するとどうなるか)
イチョウは考えた。
(確実に廃人になる。最悪の場合は死ぬ。)
これがイチョウの結論である。
右膝の手術はしないと決断した。

術後1ヶ月あまり経つと、浅澤三郎医師は、夕飯の済んだ時刻に、イチョウの病室を訪れることが多くなっていた。もう、手術した左膝の様子を見る必要はない。
病室を訪れても、ちょっとした会話だけで終わるようになっていた。
イチョウは、右膝の手術をしないと決断してから数日後、病室を訪れた浅澤三郎医師に決心を伝えた。
「右膝の手術は諦めます」
「2回目の手術は簡単です。回復も早い」
医師はヤンワリと返して来た。
「もう決めました。近く退院します」
イチョウはキッパリと言ってのけた。
「ゆっくり考えましょう」
浅澤三郎医師は穏やかであった。

イチョウは12月24日の午後、ザワザワ病院から退院し、
モクレン館へ帰って行った。
イチョウは、手術を回避した右膝の痛みと、夜間の左脚外側のしびれの2つを抱えて暮らすことになった。

次の章は、手術で痛みがなくなった左膝を頼りに、モクレン館で暮らして行くイチョウの姿を語ります。
そこへ、新規採用の男性介護職員が登場します。
4階食堂に集う面々は、真面目いちずの彼をどのように迎えたでしょうか。


→(小説)笈の花かご #26
9章 新入り職員、蒲野穂綿(1)
 へ続く




(小説)笈の花かご #25 8章 イチョウの決断⑴
をお読みいただきましてありがとうございました
2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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