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ジョン・ケージ『4分33秒』に関するメモ

『4分33秒』

ジョン・ケージの『4分33秒』には、もともとタイトルがついていない。ケージは、ラジオのヒット番組にチャート・インして流される音楽が、約4分半、まったくの無音状態になるようなシチュエーションというものをイメージして、ピアニストがピアノを演奏しない音楽というアイデアを思いついたという。それをやったのが、「まじめな」シリアス・ミュージックの側の人だったためにスキャンダルを巻き起こすことになる。『4分33秒』は200年以上の歴史がある西洋音楽の伝統を揺るがすくらいの衝撃を与えたということになっているのだから、かなりすごい。

I
TACET
II
TACET
III
TACET

偶然性と一回限りの出来事

このことは、出来事というものは、その内容だけではなく、それが流通する仕方によって、出来事そのものの意味合いが大きく変わってしまうことを示していると思う。マルセル・デュシャンは展覧会に『泉』と名付けた便器を出品したが、これがアカデミックな芸術家の世界で行われたから、芸術というものの概念を変えてしまうほどの事件になったのだと思う。そして、シリアス音楽の作曲家であるケージは、ピアニストがピアノを演奏しない曲というのを作曲した。この曲の初演は1952年8月にウッドストックで行われている。そして、その所要時間が4分33秒だったことからこの曲は『4分33秒』と呼ばれている。これが、「3分56秒」でも「4分17秒」でも「5分21秒」でもなく、「4分33秒」だったのは、偶然である。いわば、『4分33秒』とは偶然性のタイトルだといえる。この偶然性は、1952年8月にウッドストックで行われた演奏、すなわち「一回限りの固有の出来事」からきている。つまり、この曲のタイトルというのは、演奏してみたらたまたま「4分33秒」だったということからつけられているのだから、本質というものが現象に先立ってあるというような考え方=合理論ではなく、固有の事物には常に差異が含まれているという考え方=経験論に極めて近い。

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音楽を合理論的に考えれば、演奏行為というものは譜面を現象として表現した仮象にすぎないことになってしまう。つまり本質(=イデア)は譜面のほうにあるというのが合理論的な考えで、一回一回の演奏はそのつど消えてなくなってしまうけれども、譜面は永遠に残るために、重要なのは演奏よりも譜面だということになる。ところがケージの発想はその逆である。たとえば、有名なプリペアド・ピアノというものがあって、これはピアノの弦に消しゴムとかフォークとかを挟んで演奏するものだから、調律する度に出てくる音は予測不能なものとなる。たとえ同じ譜面を演奏しても、調律の具合で出てくる音は違って、そしてその一回きりの違いが重要だというのが プリペアド・ピアノの発想なのだから、永遠不変なイデア性を体現している譜面よりも、固有の事物としての演奏が重視されるわけである。

前衛音楽と実験音楽

マイケル・ナイマンがいう、前衛音楽と実験音楽の違いというのは、合理論的発想と経験論的発想の違いとして考えてみると分かりやすいのではないか。

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たとえば野原にたくさんの花々が咲いているとする。一見、無秩序に花が咲いているように見えても、その花々のいくつかがどれも黄色い色をしているとしたら、その花のグループは「黄色」という共通の特徴を持っているという意味で類似したものだと見なせる。さらに共通の特徴を割り出していって、特定の種類というものを導き出していけば、それは、野原に咲いている固有の花々がもともと有している本質ということになり、その点を重視するのが合理論的発想だとすれば、これに対して経験論的発想は、目の前に咲いている花は他の花より色が濃く、その向こう側の花には虫に食われたあとがあるなど、一つとして「まったく同じ花」というのは存在しないという認識になる。つまり固有の事物には差異というものがあって、それを見極めていくことが大事なんだというふうになっていく。ちなみに、小説というものを合理論的に読めば、重要なのは「あらすじ(物語)」ということになり、経験論的に読んだ場合に重要なのは「描写」ということになるだろう。

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「描写」の問題は別の機会に考えるとして、いま「実験音楽」という呼び方を考えてみれば、そもそも「実験」というのは、何らかの問題を推論したものを、実際に行ったらどうなるだろうということを試してみることなのだから、はじめから結果が分かっているなら「実験」の意味もなくなる。実験してみたらこうなりましたというその結果が問われるわけだ。対して「前衛」という言葉には、結果がどうあろうと「前衛」なのだからそれは時代の先端なのだというニュアンスが感じ取られるため、トータル・セリエルなどを「前衛」として捉えると、なんていうか、どこか敬遠したくなるような気がしてしまう。というのも、トータル・セリエルについて書かれたものを読んでみると(『ピエール・ブーレーズ 現代音楽を考える』など)、セリーという新しい手法を用いて実際に曲をつくるその指南というような話で、その意味ではほとんど「実験」みたいなことをしているのに、それを「前衛」と呼ぶことによって、出てきた結果がどんなものであれこれは時代の先端なのだという意味合いが出来てしまい(つまりセリー音楽は結果の如何に関わらず必然的に大文字の歴史の上にあることになって)、結果に対する第三者の判断がしずらくなるような気がする。これは、本質が現象よりも先にあるという合理論的な考え方に似ているんだけど、個人的には、トータル・セリエルを「前衛」ではなく「実験」として捉え直したほうが、かえって理が呑めて分かりやすくなるんじゃないかと思っている。いやホントに、ブーレーズの本など相当難解で一読しただけじゃよくわからないんだけど、実験音楽の理論書として読むとけっこうハマりそうな気がする。

[補記] 2009年08月17日に書いた文章です。訂正は最小限に留めました。「4分33秒」は絶対零度という説もある。ある意味、ケージこそ「前衛」だった気もする。(2020年05月21日)

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