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(11) On your mark


 東アジア北部で小麦が、南部で米の収穫が始まる9月某日、「フィリピン中部ルソン島での集団農場、季節労働者募集」の案内があちこちのネットニュースで掲載された。日本の北海道・北東北州政府、日本海州政府、北韓総督府が、各州、各国の一次産業従事者を主な対象として交付されたもので、12月から3月中旬までの厳しい季節に該当する地域の居住者を対象に、ルソン島中部の各市が所有する農地を耕作、もしくは養殖場と海鮮工場で勤務するという内容だった。固定月給も支給され、往復の移動は船舶だが無償と謳われていた。

野菜農場も魚の養殖場も、既にロボットによる生産、操業を始めており、収穫益を享受出来る体制となっている。農業従事者2万5千人、漁業関係従事者6千人の宿舎の建設を、始めると書かれている。この宿舎は今後、各国から集まる月面基地、火星基地の研究関連の研究者・技術者達の宿泊施設も兼ねる。              厳冬期に仕事が減少する、日本と北朝鮮・旧満州の専業農家の出稼ぎ事業となる。同時に、もう一つ、計画を進めていた。     

北韓総督府は北朝鮮に滞在している、ピナツボ火山の噴火による被災者家族85万人に対して、希望者全員をルソン島へ一時帰国するための船団を組織すると、移住者に通達した。「被災地の火山灰も撤去され、畑には野菜の苗が植えられている。再興した祖国を一度訪問するのも良いのでは?」と映像と共に現地の様子が案内されると、そこは今までの住まいだ。行ってみたくなる。冬の北朝鮮に備えるよりは、暖かい祖国で年を越したほうがいいと判断する人も少なくなかった。

北韓総督府は太っ腹で、3月になったら再度受け入れ、10月になったらフィリピンへ帰る半年置きの滞在プランも可能と幾つかのプランを掲げていた。この半年おきの居住プランを、ルソン島の農家、漁師の半数、家族を含めて5万人は少なくとも選択するのではないかと見ていた。     季節おきに、国の居住先を変えても構わないという提案は、一次産業に携わる人達に反響を呼ぶ。雪国の人にも魅力的な話ではあるが、積雪時の雪かきはどうするのか? 年老いた両親までフィリピンには連れていけない、という問いには「雪かきと介護は、州政府と各市町村が請負い、作業ロボットや介護ロボットが担当する」と回答された。但し、税金、公共料金はその国で稼いだ分と使った分が基準となって、支払い義務が生じる。不払い者は制度を利用できなくなる、という注意書きがあった。   

旧富山県・南砺市 五箇山に住む「平良・ダグラス・ 鮎」は、当地では相応の広さの田畑を持ち、食品加工施設を営む「農家」として、日本海州政府に登録されている。夫のサイモン・ダグラスと2人の娘に加えて、生まれたばかりの息子の5人家族の括りで、南砺市市役所にフィリピン滞在申請を電子手続きを済ませた。

富山で稲刈りと脱穀が終われば、家の留守番をロボットに任せて、冬は暖かいと言うよりも熱帯のフィリピンで、事業や農業を行う。フィリピンへの移動手段は自費で移動し、スービック市内の宿舎も利用しないと、申請した。     

ーーー                     均整の取れた体躯を、暑さで隠しきれない2人が、カメラで写真を撮り、地図に何やら書き込みながら、談笑していた。ヴェロニカよりも2周り以上の年齢を重ねている、中身は金森鮎元首相である、モリ・ホタル衆議院議員は、ヴェロニカに十分拮抗していた。ヴェロニカよりも若い杏と肢体を競い合い、モリを奪い合ったチベットの夜で、自信を得たらしい。若い娘とモリを共有したのは、還暦を過ぎた頃にやはり杏とのコンビで1度だけあった。当時の杏は二十歳になったかどうかの娘だったので、気遣うようなモリの仕草に落ち込んだものだが、今回のチベットでは30代の小娘に善戦した。杏を何度も悔しがらせ、嫉妬させる事まで成功した。それ故に、ヴェロニカが相手であっても臆する事はない、と不遜な自信を胸に秘めていた。そんな気持ちが自然に態度に出ていたのかもしれない。「モリ・ホタルらしさ」をすっかり身に付けた金森鮎の変化に ヴェロニカも気付いていた。実に積極的で、前向きな態度を見せる。75歳の女性である素振りも、瞬間も全く感じない。逆に、自分の方が年上なのではないか?と錯覚しかねる状況だった。       

「フィリピン ルソン島に研究、学術都市を建設する」金森鮎はそんなコンセプトを金蔓のモリに相談して、費用提供の合意を得て都市空間デザイナーの肩書も持つ、ヴェロニカに声を掛けた。

旧満州の長春、北朝鮮の新浦、ベネズエラのバレンシア市、パナマのコロン市などの都市設計の実績を買われたヴェロニカが、現地を視察しながらイメージを膨らませてゆく。フィリピンでの開発案件は鮎がオーナーとなり、海洋生物学者としての意見・主張も盛り込んだ。

適度に休憩を取りながら、2人で街の視察を続ける。フィリピン資本のファストフード店が目に入ると、自然と足がそちらに向く。適度な水分補給も必要だ・・          

店内には、涼を求めて近所の母親達が集まっていた。親子連れを見ていたら、ふと思い立ち、ヴェロニカが鮎に訊ねた。「サチが女の子で、アユミに男の子が生まれたのは、とっても驚きました・・」          

「そうよね、2人は予想もしていない結果にメチャクチャ嬉しがっていたけど、私はね、相当落ち込んだよ。生物学者としての力量不足を久々に味わった・・男女ペアだったから、用意していた服も無駄にならなかったけどね・・」     

「何処かで、2人のデータを取り違えてしまったんじゃないですか?」  

「それはないわよ。父親は同一人物なのよ。あゆみのDNAはそれこそ、見間違えるはずもないくらいに何度も見ている。自分と蛍とも似通った構造だからね・・」 

カラマンシージュースを飲み干して、鮎はジェラートを口に運び始める。 「そうですよね・・」ヴェロニカのそんな表情を見て、折角だから仲間の一人になってやろうと、閃いた。     

「同じ親子でも、親族であっても、DNA配置が違うパターンになるのが普通なんだけど、蛍と私の形状にあゆみはすごく似ていた。私の部分が、男の子になっちゃった理由かなって思ってるんだ。さっちゃんに至っては、もうお手上げ。どうして女の子だったのか、サッパリ分からない」  

「あの・・、ものすごく不謹慎な物言いで、あり得ない話ですが・・パパが父親じゃない場合、想定されない結果になりますよね・・」   

「確かに、そうなったら、前提が全部変わっちゃう。でもね、あの子達はモリ以外の男を必要としない。あの2人に限らず全員なんだけど、みんなモリに抱かれたいと願っている・・ホントに不思議よね・・私もね、ちょっと悔しいんだけど、あんなに好きで好きで堪らなかった夫がね、モリに出会って娘のモノなのに我慢できずにつまみ食いしてみたら、亡夫が瞬時にどうでも良くなっちゃったのよ。一度、あの男を知るとね、もう戻れないみたい。 私だけじゃない。夫を亡くした、翔子さん、里子さん、幸乃さんの未亡人カルテットが口を揃えて言うの。4人共、自分の娘までモリに差し出しちゃって、とにかく最高だからって・・ヴィー、あなたも一度あなたの義理の父を試してみたら? ハマっちゃうかもよ」  

 鮎の突然のフリに、ヴェロニカは狼狽える。「そ、そんなに違うものなんでしょうか。私には、よく分からないな・・」

「ここ最近のモリは、いいわよ。とても70近い男には思えないわね。出会った頃の、まだ30代前半だった頃と変わらない・・」       

鮎の笑顔の裏の意を、ヴェロニカは悟った。鮎は察しているに違いない。遺伝子的に、男の子が生まれる確率が極端に低いとアドバイスしてくれた当の本人だった・・・   

冷房の効いた店内で、額に汗が滲んできたヴェロニカを見て、「可哀想だから、このくらいにして上げようっかなぁ〜」と鮎は思い、微笑んだ。

ーーー                     鹿児島市の南埠頭ターミナルからやってきたフェリーが到着すると、インド人の団体様御一行が降りてくる。阪本首相とプルシアンブルー社のサミア会長とモリが、インドの首相と技術省の大臣を出迎える。インド首相に取って、同胞のサミアは世界中のインド人で、最も成功した一人にあたる。初対面なのにいつまでも抱き合っていた。 

月面基地滞在予定者の訓練が、今日から始まる。フィリピンの訓練施設が完成するまでの間、ここ種子島宇宙センターが訓練拠点となる。    

インドの第一次訓練生は40名で、内18名が北朝鮮の留学経験者だ。留学生は嘗てインドで「カースト外」とカテゴライズされていた人々だった。

5年前にインド政府と始めた施策が、正に花開こうとしている。今回のインド人のスタッフが、医療、医学の分野の研究者が中心となったのもあって、自衛隊病院に在籍する留学経験者が多く選ばれた。インド政府が推し進めるカースト制度の形骸化は、徐々に効果が出ていた。北朝鮮のインド人向け学校、大学、大学院の卒業者の大半が、北朝鮮、日本企業に就職してゆく。それぞれの法人や研究室で活躍している人達は、インド本国の人達の収入を軽く上回る。その収入実態が低カーストの人々を留学へと誘い、インド内のカーストの考え方を改めつつある。     

「カースト制では下位にあたる者」が、良い生活をしている、その「不条理」にインド社会が直面すると、インド国内でも「負けるもんか!」と志を高く持つ人々が増えてきた。同時に、日本人や朝鮮人を蹴落として、職についた人々でもある。「日本企業だから、日本人でなければ」と言う文化が地方の中小企業では残っていても、大企業では既に無い。経団連、同友会系列企業が駆逐されたので、国際化が当然であるかのように浸透している。彼らは日本社会でも勝ち組に位置する。そこで更に勝ち抜いて、宇宙で活躍するポジションを勝ち取った精鋭達が目の前にいた。今回は医療、医学チームだが、インドの人達は物理学、数学といった分野が特に強い。日本企業や大学の研究開発では、インド人が席巻してしまうかもしれない。       

北朝鮮における留学制度を相談し合って、実現したインド首相とモリには、感慨深いものがあった。共同月面基地という計画まで導かれたのも、あの構想が発端となったかもしれないからだ。訓練生達、一人一人と、順に握手してゆく、北朝鮮留学組だろうか、涙ぐみながら抱きついてきて、「私の英雄、本当にありがとうございました。必ず、結果でお返しします」と感謝の言葉を口にする。暫くそれが続くと、こちらも胸が熱くなってくる。気が付くと、カメラが回っていた。日本政府はこういった映像が欲しかったのかもしれない。                    宇宙センターの職員がバスに乗り込む一人一人に、小さな花束を手渡す。月に滞在する栄えある民間人第一号に選ばれた人達だ。本来なら、もっと大きな花束でなければならないが、各人が大きな手荷物を持っているので、仕方があるまい。 

ーーー 
「先生の涙の映像 見たの、ロヒンギャ族の集落に訪問した時 以来かもしれない・・」サチが遠い目をしながら、見ている。あゆみは昴に乳を飲ませながら、映像を見ていた。彩乃と三人で、ビルマまで付いて行ったのは・・もう10年前になる・・                   「この人達にしてみたら、先生は大恩人なんだろうね。インドから北朝鮮にやってきて、大学まで出て・・・そんな国、ないよね?」     

「そうだね。確かに無いね」乳首を吸う息子が、父親に重なって見えた。「でも、昴ちゃんはほんとうにママのおっぱい大好きなんだね。大丈夫?疲れない?」 

「うん、大丈夫。蒼と翠もそうだったから」 ・・いや、この子の方が頻繁だ。男の子だからなのだろうか・・。 

父が候補生と抱き合って何か話しているのだが、その映像に意味もなく、嫉妬する。何時まで経ってもファザコンなのだと胸の内で笑う。

「元大統領の生徒さん達と言ってもいいでしょう。今回の訓練候補生は40名、北韓大学の出身者は18名ですが、候補生総勢140名中、66名が北韓大学が占めます。僅か5年で、宇宙へ66名を送り込む、これは快挙と言えます・・」 

キャスターがそんなコメントをする。確かに創立して5年で60を超える人数だ、宇宙関連大学と言ってもいいかもしれない、とあゆみも思う

「この人達の月面基地での活躍を見たら、宙に行こうって考える子も増えるだろうね」

サチが言うので、あゆみは頷いた。この子は、行きたがるかな?どうだろうと思いながら、目を閉じて乳を飲む、昴の顔を眺めていた。この舌使い、ホントに父親に似てるなと思いながら。あゆみは、片方の乳首が硬くなるのを感じていた。                       ーーーー                       
祖父の種苗会社が「F's Cotton」の新疆ウイグル自治区と青海省、イスラエル北部への栽培契約と、「F’sWheat・秋仕様」のオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル地中海側穀倉地帯での栽培契約を交わした。
先日、フラウ、茜、遙の 研究室に、イスラエル、オーストラリア、ニュージーランドの穀物会社、食品会社、そしてイスラエルと中国の農業研究所から、多額の企業献金が送られてきた。農業技術研究機構も研究者個人名義の献金で、例外ではあったが、ルールも特になく、本人の単独研究の成果なので、そのまま研究室に渡していた。1つ年上なので、遥が研究室長になっているが、献金額の総額に目が飛び出た。
穀物が大事な物とは分かっていても、それでも桁がおかしなことになっていた。
「イスラエルとか、中国とか、政治臭がプンプン匂うねぇ・・」茜が言う。 戦略作物なので仕方がないが、この2つの国だけに留まらず、様々な国が今後も絡んでくるだろう。

「大学の研究室にもユダヤ人に中国人に・・ガイジンサン、本当に大勢いるもんね・・しかし、この我らがエースの稼ぎっぷりには、たまげたなぁ」

「日本政府も新しいロボットを追加で出してくれるらしいし、どんだけ恵まれた研究室なんだろうね・・他の研究室から羨ましがられるだろうね・・お菓子でも配っとこうか・・」  
砂漠地での栽培事業が始まると、この双子にも収入が入り込んでくる事になる。 農業と穀物が近年になって急に注目されるようになったのも、中国やインドと言った人口大国が「仕入れに動く」だけで物資が高騰する時代になった。そんな未来がやってくるのを想定していたので、日本は生産拠点となる農地を政府が買い占めていった。中国は嘗ての日本の商社のように「調達ありき」の道を選んで、苦しんでいる。これも、農業技術研究機構や大学の農学部からの情報をマメに集めて、政府が戦略を立てているからだ。   地方の成り上がり者や、無教養の世襲議員に国を任せると、政治家として必要な判断能力が皆無なので、全てが官僚任せとなり、官僚も仕事の集中を回避するために、仕方なく商社に食糧供給を任せるようになると、「国民の糧、資源を一手に担っている」と、ー民間企業が増長してゆく。直に嘗ての日本や、今の中国のように無秩序となる。企業と官僚、更に政治家が絡み、利潤と利権優先で計画が進められ、利権分の価格が加算された食糧や資源が国民、消費者の元に提示される。農政も、テコ入れなどせず、ただ寄付金ばらまき型でお茶を濁す。そもそも、日本は人口減少国家なので、農業や食糧供給を育むよりも、手っ取り早い利権があった。それが、幾らでも価格操作が出来るゼネコン、土建、新幹線に空港等のインフラだ。族議員の「実入り」が段違いとなる。建築費や高速鉄道、飛行機など、本来ならば大した金額では無い。地方選出の議員は、大型案件に加わる事が出来ずに「農政族」としての道を歩むしかなかった。全てが、賄賂と癒着の米国資本主義仕様を真似て、見習ったのが平成日本の成れの果てだ。 普通にモノづくりしていれば、日本は価格では勝てた。平成まで負け続けたのは、無能な政治家が族議員として各業界に寄生したからだ。その寄生虫の無能っぷりに、国民がいつまでも気付かなかったというオチとなる。
今だから思うのだが、コロナはマヌケな者を炙り出すテスターだったのではないかと、半ば信じている。
政治と行政が、国民を支えようとしない。そんな棄民政策を取り続けた国家ほど、劣悪な環境下のままで、袋小路に陥っている実態となる。     ーーーー                                  塗装を施され、内装も旅客機のように整えられた。空気充填と酸素生成可能な機器も搭載され、ヒトが搭乗可能な「ゼロワン・シャトル」が完成した。乗員は操縦席2席を含めて10名だ。後部荷室に月面基地用の資材を積んで、5機50体のロボットが発射され、シャトルに月面で採掘されたチタンが載せられて明後日にフクシマに帰ってくる。明日も5機、明後日も5機と、300体のロボットを打ち上げて、月面基地の建設作業に従事する。   

「年内に居住空間が完成する予定です。完成後、実際に私が視察して、月面基地の紹介を致します。どうぞご期待下さい」

柳井太朗官房長官が、さり気なく言い放った一言に、母親の柳井純子幹事長は、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。息子の「官房長官スケジュール」を慌てて参照すると、今後は訓練施設で頻繁にトレーニングをして、副官房長官に業務委託しようとしているのが、分かった。

党本部の建屋を出て、首相官邸に押しかけると、総理大臣室の扉をノックもせずに開け放った。「太朗!」と一括しながら阪本首相と打合せしていた場所にズカズカと乗り込んでゆく。   「純子、落ち着いて・・」修羅の形相の幹事長に、阪本首相が窘める。 

「まさか、あんたもグルなの?」両手で机を「バーン」と叩いた。   

「母さん、誰が適任なのか、分かるだろう?」 

「だからって、「純子、ゴメン。ウチの啓太もなんだけど、治郎と3人で交代制で月面基地の責任者をやってもらうから」                   「はぁあ?何様なのよ、あんた!」柳井純子がまた、机を叩いた。   「官房長官は、鮎先生に頼んで、太郎と啓太は兼務で副官房長官に、北朝鮮の総督は、啓子を昇格させて、治郎は兼務で副総督にする・・」    「あんたね、自分の子が一緒だからって、何で私に黙って決めるのよ!いつから、そんな人でなしになった!」純子の怒りは収まりそうもない・・。「中国大使から、依頼が来てね。治郎か俺に、専任の国家顧問になって欲しいって言い出したんだ・・」                    「国家顧問・・あんた達に出来る訳がないでしょう!モリと澄江なら、まだしも・・それに2人の頃の中国と、今の中国は全然違うのよ・・」多少、トーンダウンしたなと阪本が察した。「純子、ゴメンね。咄嗟に断ったの。まだ顧問を張れる器じゃないってね。この若さを活かして、月面宇宙基地の司令官をやるから、今回はゴメンナサイって、つい、言っちゃったのよ・・」「人様の息子の人事を勝手にイジっておいて、そこは何も問われないの? 何故、私には黙っていたの? ねぇ、澄江、黙ってないでなんか言いなさいよ!」                              「母さん、よせよ・・総理に頼んだのは、俺なんだ、どうせ母さんは激高するだろうからって。それに、治郎も啓太も勿論、オレも、最初からそのつもりだったんだ」 「そう・・」「総理から断ったら、次の弾が飛んできて、困ってるんだ」「次の弾?」                    「アユムを、中国の代表チームの監督に招聘したいんだって・・」   「日本の五輪チームのコーチがあるじゃないの」           「まだ正式じゃあ ないんだよ、母さん・・」              これはこれで、また厄介だな・・柳井純子は阪本と息子と一緒になって、頭を抱えた。                         

ーーー

子供達に、静かにするように口に人差し指を当ててから、右腕をグルグル回しながら、ススキの葉に止まっているアキアカネに近づいてゆく。急いては事を仕損じる。アキアカネの目がグルグル廻る腕に注目しているのを、頭の動きで確認する。ひとさし指を立てて回す円を小さくしながらゆっくりと進んでいく。

「おー」翠が何か言って、蒼と一幸が「しーっ」とハモっている。自分の子に、これを見せていないのはベネズエラの子だけだなと思いながら。小さくなった円を高速で回しながら、アキアカネの羽を掴んだ。 

「すっごーい!」と言いながら3人が近寄ってくる。「閉じた羽を人差し指と親指で掴んで、まだ何が起きたのか理解していないアキアカネは、3人の子たちの観察対象になった。

「お父さん、この羽根の線、ゼロ戦と一緒?」一幸が訊ねる。

「うん、赤トンボの真似をしたんだ。この線が無いトンボの方が多いんだ。これを捕まえたのは珍しいね」 「おー」「うわー大っきい目だねぇ」蒼と翠がクリクリした目でトンボを眺めている。             「さぁ、そろそろ逃してあげよう。ジャンケンで勝った子が逃がすのは、どうかな?」 蒼が一幸の顔を見る。妹に譲って欲しいと願うような目だ。 あゆみも圭吾に譲ったのを、ふと思い出して、胸が少し熱くなる。一幸がニコリと笑って、「翠、トンボ、つかめる?」と言うと、「うん、つかむ!」と言って、翠が飛び跳ねた。蒼は思った通りになって嬉しそうだ。一幸と視線が重なり合い、互いに微笑む。アキアカネの閉じた羽をつまんだ手を3人の顔の前へと運び、最後にアキアカネをじっくりと見てもらう。昆虫界でも、高速に飛べる部類の生物だ。その体躯を目に焼き付ける。そっと摘めばいいからね、と翠の小さな手に、アキアカネを委ねる。羽の柔らかな触感に驚いたのか、アキアカネの軽量ボディに驚いたのか、「うわぁ〜」と笑みを浮かべながらアキアカネをまじまじと見る。そして姉と兄の顔を見る。3人の間でどんなやり取りが為されたのかは分からない。でも、年長者がコクリと頷いたので、何となく理解した。小さな手を伸ばして、翠がバイバイと言うと、トンボが逃げるように飛び去っていった。翠の満足そうな顔を見て、小さな満足を分けて貰ったような気分がした。          

「ゆうやけこやけぇのアカトンボ、おわれてみたのわぁ、いつのひかぁ〜」母2人の合唱が耳に入って、翠が走ってゆく。幸とあゆみが赤ん坊を抱っこして、村の通りへ出ていた。最初から親子の姿を遠目で見ていたのかもしれない。蒼が手を伸ばして来たので繋いで歩き始める。一幸が、躊躇っているように思えたので、空いている手を伸ばすと、直ぐに繋いできた。    時間の歩みが遅延できるといいのに・・と思いながら、ゆっくりと歩いてゆく。                                

「ほら、きれいな夕陽だよ〜」幸が言うので、後ろを振り返る。

山の背が一面の朱色になっている。その朱が収穫前の稲穂を紅く染め上げていた。    

(つづく)

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