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ロマン主義を考える(5) なぜ愛国心は大切なのか? 【『ゲーム制作のための文学』】

5月29日に開催される文学フリマ東京まで、残り5日になりました。文学フリマ東京では、新日本文学出版のブースで『ゲーム制作のための文学』を販売する予定です。

『ゲーム制作のための文学』では、物語からいかにして小説が誕生したのかについて解説します。

興味がある方は、ぜひお越し下さい。


さて、前回はモーツァルトからワーグナーまでの音楽の歴史を見ることで、ロマン主義は国民国家と関係があることを見ました。

モーツァルトのオペラがイタリア語で、舞台もイタリア周辺という外国であるにもかかわらず、ワーグナーのオペラはドイツ語で、彼の代表作『ニーベルングの指輪』は北欧神話を舞台にしています。

ここで私たちは社会契約という考え方に軽く触れました。

社会契約というのは、社会は個人が社会と契約することにより成立するという考え方です。私たちが日本人であるのは、日本という社会と契約を結んだからだと考えます。

今日は、ロマン主義を理解するために、もう一度フランス革命について考えてみましょう。

ポイントは人権です。


現在の日本人は学校で高度な教育を受けているだけではなくて、日頃から外国の独裁者による悲惨な戦争を見せられているので、王侯貴族という特権階級を殺すことを無条件に正義だと思っているでしょう。

王侯貴族は民主主義の敵であり、独裁者は民主主義の敵であり、彼等を倒すことは自由と民主主義を守るための正義である。

王侯貴族と独裁者、悪い政治家には人権はない。

だから、彼等には何をしてもかまわない。殺してもいい。

しかし、冷静に考えてみましょう。

なぜ王侯貴族は殺してもよいのでしょう? というよりも、いかにしてフランス革命の革命家達は民衆に、王侯貴族は殺しても良い、革命に反対する者は殺しても許されると説得したのでしょう。


ここで、私たちは何が人権を保障するのかを考えるべきです。

人権というのは所有権や命を他人から奪われない権利です。また、好きなことを考えたり行動したりする自由です。

私たちは自分のものは自分のものだと主張することができますし、殺されそうなときには抵抗する権利があります。他人に迷惑をかけない限りはやりたいことを我慢する必要はありません。

しかし、何がこれらを保証するのでしょうか?

基本的には、権利は、同じ社会の仲間達が互いに保障しています。私たちが友人が大切にしているものを盗まないのは、友人が大切にしているものの所有権を権利として認めているからです。

また、理由もないのに人を殺したりしないのは、互いに互いの命を尊重しているからです。

国民国家であるならば、これらの人権は法律で保証されます。法律で権利が保障されるのが国民国家です。


それでは、フランス革命において、フランス王族の財産を没収しただけではなくて彼等を処刑できたのはなぜでしょう?

他人の財産を一方的に没収して、相手が邪魔なので殺害する。

普通に盗みと殺人では?

王侯貴族の人権はどうなっているのでしょう。

ここで私たちは再び人権という概念を振り返ってみます。人権というのは同じ社会の仲間が同じ社会の仲間に対して保証するものです。

そして、人権は法律によって保障されています。

ここで次のように考えてみましょう。社会とは、特定のルールに参加している人々の集まりである、と考えてみるのです。

これは妥当な考え方のように思えます。

たとえば、サッカー選手というのは、サッカーというスポーツのルールに従っている運動選手のことです。

彼等は一度試合が始まりプレイを始めると、ルールにより様々な権利が保障されています。ボールを手で触れることはできませんが、足で蹴ることは許されます。

そして、ルールに従っている限り、楽しくプレイできます。


TRPGというゲームも同様です。このゲームではゲームマスターとプレイヤーに別れて、プレイヤーはルールに従いゲームを進めます。道具を集めたり敵モンスターを倒したりします。

そして、ゲームマスターはルールに従い、プレイヤーに多くの権利を保障しています。

スポーツにしろアナログゲームにしろ、あらゆるゲームはルールと権利の保障から成り立っています。

ルールに従う限り、プレイヤーは権利が保障されます。そして、ゲームに参加するというのはルールに参加することであり、ルールに従うと社会に参加していると判断されて権利が保障されます。


フランス革命に大きな影響を与えたルソーは、社会とは契約により成り立っていると考えていました。

彼は国家とはゲームであると考えました。

サッカーやTRPGがゲームであるのが比喩ではないように、国民国家とはゲームであるというのは比喩ではありません。

そのため、国民である条件は、そして国民である権利を保障されているかどうかは社会契約を結んでいるのかに依存します。

野球をしている人には、サッカーのルールは適応されません。

TRPGで遊んでいる人には、ポーカーのルールは適応されません。

ルールBに参加している人は、別のルールAのルールは適応されませんし権利が保障されることはありません。

同じように、ルールに従わない人は、ルールにより権利が保障されることはないとルソーは考えたのです。


端的に表現するなら、異なるルールが適応されている点で、フランスの王侯貴族はフランス人ではありません。

そのため、王侯貴族は外国人です。そして、王侯貴族はフランス人から税金を徴収しているという点で侵略行為を行っています。フランスはフランス王とその仲間から侵略を受けていたのです。

同じルールに従わない人間は同じ国の国民ではない。彼等は国民ではなく外国勢力であり、国民は外国勢力と戦う義務がある。

これは戦争なのだ。

これが革命の論法です。


ルソーが現れるまでは、民衆は王侯貴族も同じフランス人だと思っていたかもしれません。ただ、身分が違うだけだと。

しかし、ロマン主義者達はそのように考えませんでした。

ルソーは、私たちが同じ社会に参加しているということは、私たちは憲法と契約を結んでいるのであり、逆に言えば、社会が存在しているということは隠れたルールが存在していると考えました。このメンバーに共有されている隠れたルールこそが憲法です。

サッカーがサッカーであるのは、サッカーのルールに従うからです。

フランスがフランスであるのは、フランスのルールに従うからです。

しかし、フランス人の間で共有されていた憲法を、王国貴族達は認めていないとロマン主義者は考えました。少なくとも、同じルールに参加する仲間ではないと考えました。

にもかかわらず、フランス人は王侯貴族もフランス人だという勘違いをしていました。

そして、ロマン主義者は声を上げたのです。


啓蒙とは、社会契約を結ぼうとしない人たち、同じ憲法に属していない人たちは国民ではなくて敵国勢力であると認識することです。

王侯貴族から財産を没収してすることが可能で、王侯貴族を殺すことが許されるのは戦争だからです。

この点において、自由主義イデオロギーと愛国心は同じものです。愛国心というのは憲法に対する愛です。

憲法に否定的になった瞬間に、国民としての権利を放棄した。王侯貴族は外国人であり、愛国心があるならば、私たちは憲法に否定的な勢力と命をかけて戦わなくてはならない。

こうして、フランス革命は起きたのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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