見出し画像

ゲーム制作のための文学(7) 平家物語、文学の条件とは何かを考える。

現在、5月29日に開催される文学フリマ東京に向けて、同人誌『ゲーム制作のための文学』を制作中です。この同人誌はゲーム制作に役立つかもしれない文学を紹介する予定です。

竹取物語、源氏物語、そして今日は平家物語です。

文学にはさまざまな考え方がありますが、私はテリー・イーグルトンの『文学と何か?』や『文学という出来事』を参考にしてきました。

文学には本質はなく、だからといって何でも文学というわけでもなく、「文学とは戦略」であるという考えです。

ポイントは読者が文学だと信じる本が文学であるわけでもなく(現象論)、作者が文学目的で書いた小説が文学であるとも(権威主義)、そして社会的に文学として扱われていても(ポスト構造主義やポストモダニズム)文学ではないこともあるという論点です。

今日はイーグルトン先生のアイデアを参考に、平家物語を紹介します。

『ゲーム制作のための文学』『

第六章 平家物語

 私たちは文学を文学として議論するときに、多くの場合は表現に芸術性があったり内容が非実用的であったり、そして文学を読むことによって何か精神的に高いところへと行くことができることを期待しがちです。文学と聞けば、まずは道徳的に優れており、言語的に凡庸でなく独創的であり、もちろん経済学や料理本のように実用性を目的としておらず、すべての日本人が目指すべき規範的な文章が書かれている、文章の勉強をしたければ文学を読めという発言が真実であると信じられています。
 そして、同時に、私たちは文学に虚構性を求めます。
 エッセイを例外として、新聞記事や経済予測は文学ではありませんし、ニュースも文学ではありません。もちろん、歴史の事実をまとめた本、伝記なども文学作品と思われることは普通はありません。
 小説が小説であるためには、その登場人物、キャラクターは架空の存在であることが求められているように思われます。
 もっとも、私たちはすぐに例外を見つけることができます。
 さて、西洋にホメロスの『イリアス』があるように、日本には『平家物語』があります。今日は『平家物語』について書きます。日本の物語文学の系列の最後を例に、文学とは何かを考えていきましょう。

 平安時代末期が描かれた『平家物語』は、成立時期がはっきりとしていない作品です。鎌倉時代には存在していたという説がありますが、現在有名な覚一本といわれるものは南北朝時代にまとめられたものです。
 物語は保元平治の乱により、天皇家の分家ともいえる平氏が影響力を増したところからはじまります。平氏と源氏というのは、もともとは皇子が皇室を離れて、それぞれ独立した氏族となったものです。
 平氏も源氏も、それぞれ武士を率いる氏族として有名でした。
 さて、保元平治の乱から武士である平氏は影響力を増し、そして最終的には藤原氏を排除して平氏が大臣を独占するようになります。
 しかし、武士は平家だけではありません。保元平治の乱で負けた源氏が、東日本の武士を団結させて京都に攻めてきます。彼らは天皇と平氏を京都から追い出して、今の山口県と福岡県の境にある壇ノ浦に沈めます。
 平家物語の主題は明確です。諸行無常。傲慢な保守は革新に破れ、古い勢力は新しい勢力に滅ぼされるのです。

 さて、『源氏物語』の登場人物がすべて架空の存在であるのに対して、『平家物語』の登場人物は歴史上の人物です。平氏の平清盛も、源氏の源頼朝も源義経も、そして後白河法皇も歴史上の人物して記録されています。
 とはいえ、『平家物語』は歴史そのものではありません。
 いくつか事実が異なっているところもありますし、またこの物語は明らかに主題と構成が文学的に構築されています。系統としては、中国の『三国志演義』や『封神演義』と同じ系統だと思われます。
 前回例にした『源氏物語』が源氏が勝利する物語であるのと同じように、『平家物語』も源氏が勝利する物語です。ある意味では、天皇の分家である新しい氏族、源氏が古い天皇の家系を倒して新しい時代を切り開くのが『源氏物語』、そして『平家物語』の共通した構成になっています。
 また、前回、『源氏物語』は日本書紀の山幸彦と海幸彦に関係していると書きましたが、同じように『平家物語』に関しても、出雲を滅ぼす天孫降臨の物語に近いですが、私は日本書紀の最後である天智天皇と蘇我氏の物語を思い浮かべます。オリンポス神族がタイタン神族を倒すように、源氏が平家を倒して天皇の時代が終わりを迎えるのです。鎌倉時代からは天皇ではなく将軍の時代が始まります。
 私たちは『平家物語』を読むことにより、逆に、同じような事実に基づいているとされている日本書紀について理解を深めることができます。
 日本書紀では、天皇をないがしろにする蘇我氏に日本が支配されて、日本を蘇我氏の支配から救済するために天智天皇が決起します。
 蘇我氏が平氏ならば、天智天皇(と藤原氏)は源氏です。
 大化の改新から古墳の天皇は滅び、天智天皇から天武天皇、持統天皇という新しい神社の天皇が生まれます。『平家物語』を読んだ後に日本書紀を読むと、それは神道という古い勢力が仏教という新しい勢力に滅ぼされて、そして仏教という古い勢力が儒教という新しい勢力に滅ぼされる物語を読み取ることができます。保守は必ず革新に滅ぼされる、という主題が日本文学全体に浮かび上がるのです。

 文学とは何かを問題にするとき、それはもちろん西洋の文学、特に小説と現代史と評論が重要になります。私たちが文学と呼んでいるのは、イギリスの批評家、テリー・イーグルトンの言葉を借りるのであれば二十世紀に生まれたものなのです。文学とは西洋で生まれた学問であることは間違いありません。
 それにもかかわらず、私たちが『源氏物語』や『平家物語』を文学として小説などと同列に扱うことができるのは、それらが一つの価値観、革新が保守を滅ぼし人々を豊かにするという価値観を共有しているからです。イーグルトンが議論しているように、文学とは特定の条件を満たした高貴な書物ではなくて、革新という戦略に基づいて行われている一種の芸術的であり政治的な運動なのです。
 これまで、私たちは『竹取物語』、『源氏物語』、『平家物語』という日本における重要な三つの物語文学を見てきました。
 第一の物語である『竹取物語』は幻想であり現実世界には存在しない、架空の種族である月の民が登場します。第二の物語である『源氏物語』は虚構であり、歴史上は存在しなかった人物が登場します。『平家物語』は歴史上の人物が登場します。源頼朝も、平清盛も後白河上皇も歴史上の人物です。
 三つの物語は、その虚構性に大きな違いがあります。
 しかし、すべての物語が、革新勢力により保守勢力が滅ぼされて、新しい時代が私たちに訪れたことが書かれています。そして、『竹取物語』から『平家物語』に進むにつれて革新という戦略は露骨になります。『平家物語』の冒頭を読むと、過去の歴史を例にしながら歴史とは何かが書かれています。

 ここで私たちは冷静になって、文学とは何かと言うよりは、文字の媒体の性質について考えなくてはなりません。
 私たちは何のために本を必要とするのでしょう?
 直感的に理由は二つあり、一つ目は馴染みのない、しかしこれから私たちの人生に関係してくる世界について知ること。たとえば、私たちは日本に住んでいますので、アメリカも中国も外国です。しかし、私たちは大人になるとアメリカ人や中国人と仕事をしたり遊んだりすることもあるでしょう。今は道ですが、いずれ私たちに必要となる世界観を学ぶために私たちは英米文学や中国文学を必要とします。
 それは日本文学においても同様で、私たちが日本人の小説を読むのは、日本という国が日本人にとって道の世界だからです。福岡県民にとっては、北海道は未知の世界で、東京都ですら本当は外国です。これは職業においても同様で、事務職にとっては技術職は完全に未知の世界に見えるはずです。
 本を必要とする二つ目の理由は、なぜ私たちが私であるのかを確認することです。日本文学を学ぶことにより、私たちは日本の常識がどこから来て、実際にはどのようなものであるのかを言語化することができます。
 私たちは自分自身を知るために、歴史を学びます。
 この二つ目の理由が文学の性質の多くを決定します。

 革新と保守という枠組みは、文学というよりは文字、あるいはコンテンツという存在そのものの性質です。読書とは常に保守から革新に向かいます。なぜなら、革新とは、私たちを生みだした過去の事実だからです。
 私たちが過去を学ぶときに、その学ぶべき過去というのは私たちの常識が始まった瞬間の出来事です。そして、それは当時の物語としては、必ず革新が保守を滅ぼしたという出来事として描かれます。
 もし、保守と革新の対立において、保守が勝利していたのであれば、それは歴史として私たちが学ぶ必要がないからです。
 それは『竹取物足り』では物語の流れでしたが、『平家物語』において理論となり虚構を必要とする土台となりました。
 私たちが本で学ぶべきことは、私たちの歴史や文化が始まった瞬間、革新が保守を倒して次の保守になる瞬間なのです。この点において、地方性と革新は、表現が持つ本質的な性質だと考えることもできます。
 そして、文学が虚構を必要とするのは、事実に埋もれがちな地方性と革新という文学の主題を露わにすることができるからです。

』『ゲーム制作のための文学』


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?