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ロマン主義を考える(2) 理性と権威をリベラル思想でぶち壊す。 【『ゲーム制作のための文学』】

前回、あらゆる美術が印象派から始まったと思われているように、あらゆる文学はロマン主義から始まったと言われることが多い、というような文章を書きました。

印象派に関しては、私たちは想像しやすいと思います。

印象派より以前、すなわちダヴィンチやクールベの時代は、天使や風景や人物を描くことが中心で、芸術というよりは宗教活動や建築、記録係などの延長で美術が捉えられていたからです。

しかし、印象派により多くが変わりました。

セザンヌ以降、画家達は自分達が見えている世界、自分達には世界がどのように見えているのかを問題にして作品にするようになったのです。今の芸術家らしい芸術家は、すべて印象派の子ども達です。


では、ロマン主義は文学にどのような影響を与えたのでしょうか?

今日はロマン主義がロマン主義以前の文学とは大きく異なっている点について書きたいと思います。


さて、広く知られている観点としては、ロマン主義というのは理性と権威の否定で感性と自然の肯定です。

ロマン主義以前は古典主義が文学と芸術を支配しており、古典主義の理性至上主義と権威至上主義への反発としてロマン主義が生まれた。豊かな感性の表現としてロマン主義が生まれた、という議論です。


なるほど、つまり理性と権威を否定して、感性とか自然とかを重視するのがロマン主義なのですね!

と納得するのは私は危険だと感じています。なぜなら、そもそも理性と権威という言葉が何を意味しているのかが不明であり、そして感性や自然が何を意味しているのか謎だからです。

残念なことに、言葉には意味があります。

そして、意味はたいていは私たちの具体的な経験とそれほどかけ離れてはいないものです。

ロマン主義を考えるために、私たちは具体的に、できるだけ具体的に物事を考えて行きましょう。

ロマン主義が攻撃していたとされる、理性と権威とは何なのでしょう?



5月29日に文学フリマ東京で発行する『ゲーム制作のための文学』においては、文学はホメロスや竹取物語から始まり、それから『ロビンソン・クルーソー』などの小説や源氏物語や平家物語を題材にした、能楽や狂言、歌舞伎に進んでいきます。

このときに、西洋においては、物語とはそもそもホメロスを意味していたことを思いだしておきましょう。

ホメロスの代表作は、『イリアス』と『オデュッセイア』。すなわち、戦争と冒険です。

この観点から、物語には二つの種類しかありません。

第一の物語は、『イリアス』のように、二つの対立する国家なり陣営なりが存在していて、その陣営に属している人々が自分の国のために戦ったり裏切ったりする物語です。

日本では同じ系統として、平家物語が存在します。平家と源氏がいて、二つの武士社会が覇権を競うのです。

第二の物語は、『オデュッセイア』のように、英雄が冒険して様々な経験を経て成長していく物語です。

英雄は数多くの苦難を経験して、成長して、そして自分の居場所を見つけなくてはなりません。冒険物語とは、自分に帰る物語でもあり、子どもが大人になる物語です。

さて、物語が二種類しかないのであれば、当然公式化したいと思うのが哲学者というものです。

というわけで、アリストテレスは『詩学』で定式化しました。物語は三つの段階に分かれて展開される。

ゲーム制作やハリウッド映画に詳しい方ならば、このようなアリストテレスの戦略が今でも現役であることを知っているでしょう。

物語にはテンプレートがあり、そのテンプレートに関しては今でも研究されているようです。

調べてみれば驚くほど多くの本が出版されていますが、これらはすべてアリストテレスの三幕構成に起源を持つように思えますし、売れる物語には共通点があるというのは、まさに「理性」の発想です。


ここで第一の物語である、戦争物語にも目を向けてみましょう。戦争物語においては登場人物達は異なる陣営に属しています。

『イリアス』においては、登場人物達はトロイアとアカイアに属しており神々が彼等を応援しています。

戦争を行う人たちは、自分達は神に愛されていて、そして相手は神に愛されていないと侵略を行います。侵略は良いことです。なぜなら、悪い人たちへの教育だからです。

戦争物語とは正義と正義のぶつかり合いであり、そして強い正義が弱い正義を倒す物語です。ポイントは、愛国心。戦士達は自分達の国や陣営のために命をかけて戦います。

平家物語でも源氏と平家は自分達のために戦いました。大切なのは仲間達のために戦うことなのです。


古典主義とは、まさに古典の考え方を重視することです。そして、ホメロスにおいては物語には正解があります。

人々を楽しませる方法には正解があり、その正解を守ることこそが正しい創作のあり方なのだというのが古典主義の基本的な考えです。

そこには、冒険心と成長、愛国心と自己犠牲がなくてはなりません。物語のプロットも、設定、展開、結末と流れなくてはなりません。人間には普遍的な感情があり、その感情を揺さぶることこそが文学の目的で、そのためには古典を学ぶ必要があります。

技術のない凡人の妄想が傑作になることはなく、つたない書き手が突然すばらしい作品を書くことはない。創作において大切なのは、まさに先人から学ぶことなのだ。

古典、すなわち権威を尊ぶ。なぜならば、古典とは過去に多くの人を楽しませて売れた物語だからです。

理性を尊ぶ。なぜなら、古典は研究されており、人々が楽しむことができる物語には正解があるからです。

私たちはテーマも相応しい主人公の特性も選ぶことはできません。面白い物語は普遍的なテーマを扱い、主人公や他の登場人物がどのような正確であるべきなのか、物語はどのように展開するべきなのか、それは学習して習得すべき技術なのです。

これが古典主義の立場です。



さて、フランス革命に戻りましょう。

まず、フランス革命の革命家達は何のために戦ったのでしょうか?

もちろん、愛国心のためではありません。フランス革命はフランスを守るためではなくてフランスをぶち壊すために行われたのです。

『イリアス』では二つの国が戦いましたが、フランス革命では二つの国が戦ったのではなくて二つの階級が戦いました。

王侯貴族とブルジョア階級が戦ったのです。

ブルジョア階級は愛国心のためではなくて、自由主義イデオロギーのために戦いました。愛国心のためではなくて、自由と平等のために、国内の保守的な勢力を皆殺しにしたのです。

ロペスピエールが処刑されても、今度はナポレオンが登場して彼は新貴族を任命することで全ヨーロッパと戦いました。もちろん、愛国心のためではなくてイデオロギーのためです。

彼等は自由のために戦いました。

ブルジョア階級は国家のために戦うのではなくて、国家と戦い自由を守るために戦いました。

こうして、戦争と冒険という二つの分野は崩壊します。英雄や貴族、高貴な人たちが成長して国民を守る世界観は失われます。リベラルと保守が戦う革命という分野が生まれたのです。


現在、ウクライナ侵攻においては、ロシアはなぜ家族だったウクライナが裏切ったのか理解できないかもしれません。彼等が政治思想的には保守に属しているからです。

一緒にキリスト教正教会を頑張ってきたのになぜ? ソビエト時代の献身と結束を忘れてしまったの?

ウクライナだけは裏切らないと思っていたのに。

しかし、ウクライナは今やリベラルに属しています。古い友情よりも自由と正義のほうが大切です。そもそも、フランス革命においてブルジョア階級が王侯貴族に感じていたように、ウクライナはもはやロシアを仲間だとは思ってはいないでしょう。

革命が起きたのです。


前回、ロマン主義とは妄想を他者に押しつける思想だと書きましたが、もちろん極論であり端的に間違えです。なぜなら、何が正しい政治思想であるのかは客観的には決まらないからです。

ロマン主義者にとっては、まさに理性と権威、友情や結束、愛国心などが支配者階級の妄想です。王侯貴族こそが、保守こそが、まさに自分の妄想を他人に押しつける駄目な子なのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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