戯曲の書き方を学ぶときに印象的だった"2つの言葉"と、最近の悩みごと

今回は演劇の脚本(戯曲)のことを下地に、記事を書こうと思います。

私が2018年に、戯曲セミナー(日本劇作家協会 主催)に通っていた時期に聞いた、印象深い2つの言葉を紹介します。
いずれも、最近新しい作品や企画を考えるにあたり、思い出したものです。

「コップから溢れ出た雫」

劇作家の故・井上ひさしさんの言葉として、講義中に紹介されたものがありました。
(ご本人ではない方から又聞きの形で紹介されており、私も記憶が曖昧ですので、一言一句正確ではないことをご容赦ください。)

戯曲はすぐには書き出さない。
コップに水を溜めていくように堪えて、堪えて、表面張力で目一杯になっても、まだ書かない。
コップから溢れ出た雫を、すくうようにして書く。

安易に直感的には書き出さず、想いや情熱を溜めて堪えて、それでも外に出てきてしまったもの、切実な言葉を拾いながら、ていねいに書く。
そういう意味合いでおっしゃったのだと思いますが、やたらいまになって胸に響いているのです。理由は後述します。

「プラカードを持ったほうが早い」

続いてもうひとつ、印象的だった言葉を紹介します。
これは劇作家・演出家の川村毅さんが、同じく戯曲セミナーの講義の中でお話しされていたものです。
(こちらはご本人の言葉をメモに取ったものですが、やはり一言一句正確ではない可能性があります。ご容赦ください。)

政治的なメッセージ・問題をそのまま書いても仕方がない。
それなら、プラカードを持ったほうが早い。
白黒はっきりした主張をしたいなら、演劇でやる意味はあまりない。
複雑なことやこぼれた事情を書くのが、演劇や映画、小説である。

強い言葉で激しい主張をするのであれば、その手段として演劇(戯曲)は向いてないよということをお話しされていたのだと思いますが、これもやはり似たような理由で心に残っています。

いま思い出した理由、言葉の乱射について

ここからはとても私的な内容です。
長い長い私の思考を、そのまま書いたような文章です。
戯曲を書く勉強の一環でこの記事を開いた方は、ここで戻ることをおすすめします。

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さて、私がお二人の言葉をいま思い出したのには理由があります。

最近、私が「言葉を乱射している」と自覚しているからです。
また、多くの人も「強い言葉をSNSで消費している」と思ったからです。

念のためおことわりしておくと、後者の「私以外」については、私が論じることではありません。
ただ、もし読んでくださっているあなたに思い当たる節があれば、続きを読んで、ぜひ感想やご意見を聞かせてください。

さて、問題は前者。
私自身の「言葉の乱射」についてです。
知ったことか、と言われそうですが……

どういうことかというと――
作品(戯曲)の種になりそうなものを、自ら潰している感覚が強いのです。
(私の言葉を読んだり聞いたりしてくださる方々や友人諸氏に対して、とても失礼な物言いであることは承知しています。ごめんなさい。)

井上さんの言葉でいう"雫"になる前、まだコップに水を溜めている段階なのに、それをゴクゴクと勢いよく飲んでしまい、一時的な潤い=満足感を得ているような気分なのです。

さらに、最近はSNSも積極的に使うようになってきて、思ったことを反射的に、ダイレクトに書く機会も増えました。このnoteも同様です。
自分の言葉で、自身の主張をさらけ出せることは、いいことだと思います。
そして、そこに「スキ」や「いいね」、リプライも返ってくる。素敵なやりとりをさせていただいています。

しかし、やはりそこで満足している自分に気づきます。
私の感じている「言葉の乱射」の、大きな副作用です。
言いたいことを言い、賛同してくれる方がいて、それに満足している自分。
政治的な主張こそしないものの、これはプラカードを掲げている行為と同義なんじゃないか?

さらには、そうした日々の小さな満足感や充足感が、自分の創作活動や作品一つひとつに向き合う姿勢を、悪化させているようにも思うのです。
(このあたりは、別の記事でも言及しました)

でも、私はまがりなりにも「劇作家」を名乗っています。
当分筆を折る気はありません。演劇以外の作品をつくったとしても、です。

だとすると、いまわざわざ届けたいものってなんだろう?
どんな作品を作りたいのだろう?
あるいは、なにを書くべきなのだろう?

残念ながら、作品や企画のアイデアになるようなものは、まだありません。

しかし、アイデアを考える過程で得た、個人的な仮説。
なんにせよ、そこには、
「明確に」届けたい相手がいるべきなんじゃないか。

自分の言いたいことをあれこれ言って、たまたま分かってくれる人がいればいいや、みたいに作品や発信を乱射する。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」とか「とにかく場数を踏め」とは言いますが、いまの私はそういう発想がどうしてもできません。
やろうとしても、自分自身に気味悪さが残ってしまうのです。
「腰が重い」「考えすぎ」って言われるかもしれませんが。

私にとっては、やはり「照準」が必要なのです。
いえ、「照準」という言い方も乱暴ですね。
「届け先」や「目標」と表現するのが適切かもしれません。

やるからにはしっかりと溜めて堪えて考えて、その上で、すくった雫を届ける方法をどうにか試行錯誤したい。
そこには、切実な思いや目的や、届けたい相手がいるはずです。
たとえ実験作だとしても、目的はあり、仮説検証はしなければなりません。

つまり「こういうお客さんに、こういう思いで劇場から帰ってもらいたい」みたいなものが、明確に設定されているべきなんじゃないか、ってことです。
それは有料の演劇公演でも、無料のオンラインイベントであっても、極論、ツイートでも同じです。
主張のラッピングもせずにとりあえずやってみて、発信側が「面白かったね」「評判よかったね」ではいけないと、個人的には思っています。
そして、そのあたりの意識が薄れてないか、最近の自分よ。と思っています。

なんて。
いけませんね。結局、強い言葉を乱射してしまいました。
鋭い言葉を扱うことなく、もっと形を整えて発信すべきでした。
それにこんなことを言っていると、後々、自分の首を締めることになりますね……


ともあれ。
SNSが盛んになり、辛いことも多く、吐き出したくもなる昨今。
あなたは、"言葉の乱射"について、どう思いますか?

私は悩んでいる真っ只中です。うーん。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました! これからも応援いただけたらうれしいです。 (いただいたサポートは、作品制作のために活用いたします!)