「顔回」に近いところがある「劉邦」
劉邦は、「アホ」に見えるけど、結構賢い。
まあ「粗暴」で「学識」は無いけど、張良や陳平や蕭何という超一流の智慧者の進言を理解し、従うことができた。
その是非の判断も適切だった。
酈食其の出した「奇策」を、張良の進言で判断して「ヤバイ辞め」って決めたのは、彼がそれだけの「智慧・賢さ」があるからである。
「学識が無い」ってことで、多くの知恵者・賢人の進言を聴いて判断し、実行できた。
ただの言いなりでなく「可否」を判断できる智慧があったのである。
意外とそれに近いのが、顔回
曽先生 ――「才能があるのに無能の人にたずね、知識があるのに無知な人にきく。才能もなく、知識もないようで、してやられても張りあわない。むかし友だちにそういうのがいたっけ。」(魚お返がえり善雄『論語新訳』)
曾子が言うよう、「才能がありながらまだ無能だと思って才能のない人にも問い、見聞が広いのになお無知だと考えて見聞の狭まい人にもたずね、道あって道なしと恥じ、内容充実しつつ空虚を感じ、横車を押れても取り合わない。これは物我の隔てのないよほど練れた有徳人でなくてはかなわぬことだが、亡友顔回はそれができた人であった。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
>才能があるのに無能の人にたずね、知識があるのに無知な人にきく。
など、顔回と劉邦は、そっくりである。
私は、この顔回の行為が「謙虚」だと思っていた。
でも王陽明が
「文王は道に到達したが、あまりの広大さに、とらえきれなかった」
てニュアンスのことを書いている。
顔回のこの「謙虚さの行為」は、むしろ「自分の知恵では計り知れない英知」について、気が付いていたからだ、、と私は考える。
劉邦も、結構うぬぼれも強いが「自分は学識が無い。ので、いくらでも賢い人がいる」てことがわかっていたので、図らずも顔回ような行為をしているのだ。
英知の巨大さを知る者は、いくら知っていても、「謙虚」にならざろうえない。
人間の「智慧・英知」など、地球・天地の英知に比べたら、屁のようなものだから・・謙虚になるしかないのですは。
その子孫で学識もあった光武帝劉秀。
劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。
まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。
皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。
太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
劉邦や劉秀・顔回の「賢さ」は、今の日本の「学力」という「賢さ」とは、ずいぶん違う。
無論「学力」も大事だが、その「学力」を使う「智慧」「人柄」「考え方」も、大きな部分を「知力」を持つ。
ふと思うに、今の「エリート」「高学歴のセレブ」って、顔回・劉法的な「賢さ」が皆無に思うけど。
そうそう、右翼・左翼の知識人にも、これは無いよね。
まあ、天皇って詐欺師の国ですし・・・
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?