普遍宗教の復活・・・なら普遍的論理や倫理が無い神社神道は終わる。

より

上記文抜粋

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私たちの住む世界は、悪魔崇拝者たちが支配している ~及川幸久氏『今度のアメリカの大統領選挙は「信仰vs悪魔崇拝」の戦い』

竹下雅敏氏からの情報です。

 7月3日の記事で及川幸久氏の語る「悪魔崇拝」の真相と彼らの「世界支配計画」に関する動画を紹介しました。
 今回はその関連動画で、及川幸久氏は今度のアメリカの大統領選挙を「信仰vs悪魔崇拝」の戦い(2分28秒)だと言っています。
 “多くのアメリカ人も、もう目覚めているわけなんですが、あまりにも悪魔的なことをバイデン陣営というか民主党側というか、アメリカ政府の中に潜むディープステイト、グローバリストがやりすぎた。もう誰が見てもおかしいってことが多すぎた。だけど、それを今1つ1つ具体的に言うと、多分YouTubeでBANされるんですよ。これもおかしいじゃないですか。こういうの全部ひっくるめて、おかしいとかってレベルじゃなくて…もう何でもあり、何やってもいい。もうこれは完全に神なき世界ですよね。今のアメリカは神なき民主主義。つまり、はっきり言って神の代わりに悪魔が支配している世界になっている(3分7秒)”と話しています。
 イランは現在のアメリカをサタンが支配している国だと考えています。アメリカが無条件に支持するイスラエルのガザでの所業は、まさに「悪魔崇拝」そのものです。
 こちらのツイートには、「アル・シュジャイヤ侵攻を逃れた少女による恐怖の証言:イスラエル占領軍が私たちの家を襲った。彼らは私の兄弟たちを誘拐しようとした。母がそれを止めようとした。占領軍は母を外へ引きずり出し、戦車の前に座らせ、私たちの目の前で轢き殺した。その後、兄弟たちは連れ去られどうなったかわからない。」とあります。
 このように私たちの住む世界は、悪魔崇拝者たちが支配しています。主要メディアが真実の情報を完全に遮断していることからも、このことは明白だと言えるでしょう。
 地球は長い目で見れば、光り輝く世界へとゆっくりと変化してゆきます。恐らく一世代はかからないでしょう。悪魔崇拝者を含め、地球人の1000人に1人しかジーヴァ(個我)が残っている者はいません。ジーヴァ(個我)が消えたものに再生(輪廻転生)はありません。彼らは肉体(狭義)の死と共に、宇宙の質量因へと帰ってゆきます。キンバリー・ゴーグエンさんの言い方なら、「ソースに帰る」ことになるのです。
 どらえもん氏がツイートで言及している「ヤマトの神々」が誰のことなのかは分かりませんが、少なくとも日本神話の中に名前の出てくる神々は全て滅びたと言っても過言ではありません。私が知るほんのわずかな女神のみが生き残っていますが、皆さんは彼女たちの名前を知らないでしょう。
 日本の神々も「ソース」へと帰って行ったのです。私は、単に滅ぼされたと言っています。

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抜粋終わり


どらえもん氏がツイートで言及している「ヤマトの神々」が誰のことなのかは分かりませんが、少なくとも日本神話の中に名前の出てくる神々は全て滅びたと言っても過言ではありません。

多分だけど・・・

明治以降のいやそれ以前の水戸学&似非国学&偽造国史の日本書紀・古事記の神は死んだのでしょう・・。

それ以前の原型的な「カミ」は、明治帝政とその売国を許さんでしょう。。下手すら「天皇」すら殺処分かもね・・・。

神道って、あまりに「原型」を大事にする&「天皇崇拝」なので、普遍的論理や倫理を建築できなかった、、、普遍宗教になれそうにもない。


より

上記文抜粋
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普遍宗教の回復(ラカンと柄谷行人)

西側諸国でいかなる選挙結果が出ても、「主人はマネー」の時代においてはどうしようもないね、何度も繰り返してきたが、「最悪」としか言いようがないよ。

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕
私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…) nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)

結局、「宗教」に頼るしかないんじゃないかね。

父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。〔・・・〕
父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しみ、それぞれの仕方で性的妄想を抱くのである。〔・・・〕

私は言わなければならない。おそらくここにいるマジョリティの見解ではないだろうにも拘らず。私は考えている、カトリック教会のやり方を賞賛すべきだと。現在でさえカトリック教会は現実界の自然な秩序を守るために闘っている。生殖、セクシャリティ、家族等。もちろんそれらは時代錯誤的要素である。しかし彼らは古代の言説の現前、持続、堅固さである。あなたがたは言いうる、失われた大義として讃嘆すべき言説だと。[Je dois dire, même si ça n'est peut-être pas l'avis de tous ici, que je trouve remarquable la façon dont l'église catholique, encore aujourd'hui, lutte pour protéger le réel, son ordre naturel, pour les questions de la reproduction, de la sexualité ou de la famille. Ce sont des éléments anachroniques qui témoignent de la durée et de la solidité de ce discours ancien.Voilà un discours admirable comme cause perdue]…

失われた大義? だがラカンは言った、教会の大義はおそらく凱旋を告げると[Cause perdue ? Lacan disait cependant que la cause de l'église annonçait peut-être un triomphe]. (ラカン「カトリックの言説によって先導される宗教の凱旋 Le triomphe de la religion précédé de Discours aux catholiques」octobre 1974)。

なぜか? 自然から解放された現実界は、あまりにも悪く、ますます耐え難くなっているから。取り戻し得ないとしても失われた秩序へのノスタルジーは、幻想の力をもつ。[Pourquoi ? Parce que le réel, dégagé de la nature, est pire et devient de plus en plus insupportable. Nostalgie pour un ordre perdu impossible à retrouver qui a la vigueur d'une illusion. ](J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

ラカンはカトリック文化のなかで教会の大義の復活を言ったのだが、これはなにもカトリック教会の大義でなくてもよい。柄谷行人の言い方なら普遍宗教の回復だ。


共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。〔・・・〕

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)


マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。
Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.
ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher. (1880/81)

ーー西側諸国以外のほうがまだ可能性があるよ、この普遍宗教の回復の可能性が。

ところで柄谷行人は直近のインタビューで磯崎新の名を出しつつこう言っている。

彼は、僕の思想にも、興味を持ち続けてくれた。そういえば、『世界共和国へ』(2006年)という本を出したばかりのとき、磯崎さんは、そこで僕が論じた、交換様式A、B、C、Dについて、4象限で表記するのはおかしいんじゃないか、と言ったんですよ。Dは、A、B、Cとは異なる次元にあるものだから、3象限プラス1にしないと、と。それは鋭い指摘で、実は、Dは厳密には交換様式ではないんです。Dは、すべての交換の否定、脱交換だからね。(文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係:私の謎 柄谷行人回想録⑮、2024.06.18

この観点を取り入れるなら、交換様式図は最晩年ラカンのボロメオの環を使って次のように置くべきじゃないかね。


これこそ柄谷曰くの《Dは、すべての交換の否定、脱交換》、あるいは資本=ネーション=国家というボロメオの環の揚棄だ。

ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。

しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)

マルクスは主としてプルードン派によってなされたパリ・コンミューンについて、つぎのようにいっている。《もし連合した協同組合組織諸団体 (united co-operative societies) が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、〝可能なる"共産主義以外の何であろう(『フランスの内乱』)。こうしたアソシエーションは、共同体と異なるだけでなく、国家集権的なものとも根本的に違っている。それはマルクスが「社会的」と呼んだものに対応するだろう。つまり、それはいったん共同体から出た者たちが結びつく形態なのだ。 コミュニズムとは、資本制経済において貨幣との交換によって実現される「社会的」諸関係を、「自由で平等な生産者たちのアソシエーション」、さらに諸アソシエーションのグローバルなアソシエーションに転換しようとするものである。
(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章移動と批判 p252~)

彼らは叫ぶ。コミューンは、あらゆる文明の基礎である所有を廃止しようとしている、と!いかにも、諸君、コミューンは、多数者の労働を少数者の富と化する、あの階級所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、いまはもっぱら労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本とを、自由でアソーシエイトした労働のたんなる用具に変えることによって、個人的所有を真実にしようと望んだ。
Die Kommune, rufen sie aus, will das Eigentum, die Grundlage aller Zivilisation, abschaffen! Jawohl, meine Herren, die Kommune wollte jenes Klasseneigentum abschaffen, das die Arbeit der vielen in den Reichtum der wenigen verwandelt. Sie beabsichtigte die Enteignung der Enteigner. Sie wollte das individuelle Eigentum zu einer Wahrheit machen, indem sie die Produktionsmittel, den Erdboden und das Kapital, jetzt vor allem die Mittel zur Knechtung und Ausbeutung der Arbeit, in bloße Werkzeuge der freien und assoziierten Arbeit verwandelt. 〔・・・〕
もし協同組合的生産が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキーと周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム」以外の何であろう。
Wenn aber die genossenschaftliche Produktion nicht eitel Schein und Schwindel bleiben, wenn sie das kapitalistische System verdrängen, wenn die Gesamtheit der Genossenschaften die nationale Produktion nach einem gemeinsamen Plan regeln, sie damit unter ihre eigene Leitung nehmen und der beständigen Anarchie und den periodisch wiederkehrenden Konvulsionen, welche das unvermeidliche Schicksal der kapitalistischen Produktion sind, ein Ende machen soll – was wäre das andres, meine Herren, als der Kommunismus, der 'mögliche Kommunismus'?
(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1871年)

このアソシエーションとしてのコミュニズム(コミューン=コモン)が、下図3の交換と力の諸関係におけるDの神の力だね。これこそ普遍宗教の力にほかならない。


柄谷のDはネグリの云うコモンティスモだ。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)
なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

▶︎「俗に知られているマルクス主義と真のマルクスの思考の相違」

特にマルクスは私的所有[Privateigentum]を否定しつつも個人的所有[Inndividuelle Eigentum]を肯定していることに注意。

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抜粋終わり

特にマルクスは私的所有[Privateigentum]を否定しつつも個人的所有[Inndividuelle Eigentum]を肯定していることに注意。

これって、わからんけど重要に思う。。。

普遍宗教って「語り継ぐこと・・・良いことも悪いことも」を厭わない・・てのがあると思う。。。


@xxxrukaxx
7 年前
この人の歌声大好きです
そして歌詞も・・・
しかし・・・なんでやろね
此の曲は先の大戦の方々が頭に浮かんでしまう
これは、私だけなんだろけど・・・


7 年前
xxxrukaxx それだけではないだろう。この歌は、今まで生きてきた者が亡くなった後も記憶に生き続ける意味をあらわすからな。

@user-hn4ei8oi6e
3 年前
Bloodというアニメは沖縄、米軍や軍産複合体などを取り扱った作品でもあります。

語る・・・なら議論も意見も、受容しなくてはいけない・・「天皇」にはそれが無い
「言上げしない」では、語り継げないのだ・・・。

言上げするから、交雑するモノも生まれるが、それなくば、語り継げれない。

ただね・・・リベラル思想の「宗教を抜く」の元は、バチカン・新教なんだよね。
「無宗教」のアジア版では、「様々な宗教の共存で、共存を拒否する宗教はつぶす」って奴。
その辺は、儒仏をメインにする東アジアと、バチカンと新教の西欧アメリカの差で、後者が、終わろうとしているのでしょうな。

西側に「なり切った」天皇も、終焉するのですよね・・・

なんせ「天皇の俺が国を滅ぼしても、俺関係ない」~天皇は戦争責任が無い~ってどう考えても「非日本的」だよね。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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