イジメは、「魔」。その「魔」が、天皇の根幹である。

上記文抜粋
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高野山のお不動さまのお言葉

"魔は突然変異ではないし

得体のしれない妖怪などでもない

生きてる時にコースが決まる

生きてる時に改心しないといけない

生きてる時にどんな立派な仕事につこうが

根本にそういうものがあると死んでから魔になる

人の足をひっぱるのが好きなのが魔

人の幸せを喜べない人は

死んでから100%魔になる

死んでから魔になるのではなく

生きている時に

人の幸せを喜べない人が魔になる

人の幸せを喜ぶ人が美しいのです"

神さまがおっしゃるには

"魔"

というのは、妖怪変化でも悪魔でも
なんでもなくて

人の体に入り込んで
悪い方向へ引きずり込もうとする
たちの悪い霊の事です。

しかも、無念の死を遂げたから
不幸な亡くなり方をしたから
恨みつらみで魔と化するのではなく

生前から人の足を引っ張ったり
人の不幸を喜んだり
そういう心を持っている人が
死んでから魔になるのだそうです。

しのぶ:『魔の話は以前から
神さまから教えて頂いていたけど
今回高野山のお不動さまが改めて
こんなお話をして下さったなんて・・・
もしかしたら、亡くなってから魔になる人が
増えていっているって事なのかなあ。。。』

和尚さん:『はっきりとはおっしゃられなかったけど
人の心がどんどん悪くなってきてるっていうのは
以前から聞かされてるし、その悪い心のまま
亡くなったとしたら、今回高野山のお不動さんが
おっしゃられてたように魔になってしまうって
ことになるわな~』

しのぶ:『魔がいっぱい増えてきてるって事は
人々の心に入り込んで
その人の心を堕落させて
またその人が亡くなったら魔になって
めちゃくちゃ怖いサイクルになって
しまうのでは・・・(;゚Д゚)』

和尚さん:『ほんまに今は世界中で
戦争が起こってるし
国同士だけじゃなくて、学校や会社や
色々な場所で強い者が弱い者を虐げて
弱い者はどんどん追いやられていって
強い者しか生き残れへんような世の中に
なっていってるのは事実やしな。』

しのぶ:『・・・・・』

最近ニュースで
取り沙汰されている問題で
自殺された方が
いじめやパワハラを受けていたのが
事実なのかどうかを調査中という事を
よく目にするのですが
そのニュースを見ているとお不動さまが

『一人の将来ある人が亡くなってる。
もっと真剣に取り組みなさい。
いじめがあるとかないとかじゃない。
何もないのに人は死なない。
今の日本は北朝鮮と同じ。
この国は狂っている』

と、悲しそうに
おっしゃっておられました。

人を苦しめて喜ぶ人は
死んでから魔になって
死んでからも人を苦しめるのかなあ。。。
きっと、恐ろしい報いが
その人の魂の未来には
待っているのだろうけど・・・。

そんな魔だらけの世の中に
なって欲しくないなあと思いながらも
自分にも良くない心がたくさんあるので
人ごとではないと思いました

でも、今までにこういうお話を
高野山のお不動さまが
して下さった事がなかったので
今回こんな風に教えて下さったのには
きっと何か深い意味があるのだと思いました。。

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抜粋終わり

自己責任論・通俗道徳は、魔道です。


上記文抜粋
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通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。

・・・・・・・・中略・・・・

「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


上記文抜粋
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「自助努力」の意外な「社会的コスト」

生活保護を受けずに自分で自助努力をする。確かに、自助努力の国では、こうした行為は素晴らしいものとして賞賛されるだろう。

だが、他方で、こうした社会的スティグマの結果、生活保護を受けないと、最悪の場合は餓死、餓死には至らないまでも、精神疾患に罹り、さらには自殺にまで至る場合もあることが分かっている。

「自殺」の社会的コスト

澤田康幸らの経済学者と政治学者の合同研究チームによると、自殺の主な要因は精神疾患だが、その精神疾患は社会経済的要因と密接に関係しており、所得格差や貧困が自殺の一因として考えられるという。

貧困が精神疾患と密接に関係していることは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のマシュー・リドリーらの研究グループが『サイエンス』誌でまとめた論文でも議論されていた。

日本は自殺率が高いことで知られているが、澤田らの研究グループも指摘するとおり、自殺にはさまざまな社会的コストがともなう。

自殺が引き起こす遺族や友人(有名人の自殺の場合は、その他大勢)への心理的・精神的影響や経済的な負担はもちろんのこと、自殺が発生した場合に必要となる医療行為や警察の実況見分、鉄道自殺の場合には列車の遅延などのコスト、そして自殺した人が経済活動にこれ以上参加できないコストなど、自殺の社会的なコストは多岐にわたる。

だとすれば、自己責任の国に住んでいながら、日本人の一人一人が知らず知らずのうちにその間接的なコストをみずから負担している、と考えることもできるだろう。

「自己責任の国」の公助のあり方

このように、自己責任の国では、公助の質と量の低下だけでなく、さまざまな社会的なコストが生まれる可能性がある。

ただ、実は社会保障支出を国際的に比較すると、意外にも日本はOECD平均より高いが、これは日本の超高齢社会と関係があり、労働年齢人口への所得補助などを見ると、アメリカ、韓国などと同じで非常に低い。

このことは、日本社会が分断されて個人と個人が社会でつながっておらず、日本人同士で何が「共通の利益」であり、何が「共通のニーズ」なのかが合意できていないことと無関係ではないかもしれない。

合意形成が難しければ、政府サービス、公的な制度を使って他者を(だけでなく自分も含めて)助ける、という公助は整いにくいだろう。


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抜粋終わり

【能登半島地震】被災地で起きているヤバい事案


自助が尊いのなら、そりゃ、人助けは、バカですよね。

自助がダメなら共助 てその「ダメ」の判断の妥当性が他人ができるか否かは、実はわからんのです。

「甘やかし」とみていても、その人の「見えない障害」例えば、精神障害・発達障害とかあれば、妥当なことも多々ある。
また内臓疾患の障害とかでも、「甘やかすな」ってっても、それを途絶させると、死んでしまうこともある。
が、バカにはそれが理解できない。

で大阪で
「精神障碍者に、自治会不参加のための文章を書いて貰おうとして、あまりに追いつめすぎて、その障害者が自死してしまった」
て事件があった。
無知と制度の不整備で起きた悲劇。

でも「自助が至上」の現代日本社会なら、いつでも起きえる事件です。

より

上記文抜粋
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(なかだち⛰️ネット難民📡さんがリポストのおかげで発見できた)
https://twitter.com/freakscafe/status/1352423794208432135 と続き
”+M laboratory
@freakscafe
佐々木閑『仏教の誕生』(河出新書)
YouTube仏教講義第一seasonの書籍化。
人の思惑とは無関係に動いていくこの世の中で、自分の欲にかられた希望の世界を望むこと自体、虚しい行為である。世の中の動きを正しく理解し、その中で自分の安楽を求めようとするならその道は一つしかない、求めないことだ。
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午前10:12 · 2021年1月22日

まず、仏教誕生の背景となる古代インドにおいて、一般社会の世界観、価値観のベースとなっていたバラモン教とは何かということが説かれる。
仏教は、バラモン教的世界観、価値観のカウンターとして立ちあがり、バラモン教的世界のオルタナティブとして自らの教団を位置付けていく。
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午前10:16 · 2021年1月22日

バラモン教は、「梵」と呼ばれる神格化された絶対的な宇宙パワーを崇め、それを拠り所として生きるという古代宗教で、「ヴェーダ」を聖典としてもち、その宇宙パワーの恩恵をより豊かに預かる血筋を特権階級とする「カースト」制度によって成り立っている。
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午前10:21 · 2021年1月22日

紀元前500年頃、社会現象として、反バラモン教のうねりが出てきた。彼等は共通して、こう考えたー「バラモン教のように外から与えられた枠組みに自分を当てはめて生きるのは偽りの生き方だ、自分が自分のために努力をすることだけが、自己の究極の安楽へ至る唯一の道である」。
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午前10:25 · 2021年1月22日

彼等は「シュラマナ=努力をする人」と呼ばれた。それが中国で音訳され「沙門」になる。仏陀もまた、その「努力をする人=沙門」のひとりだった。様々な反バラモン教の沙門宗教が生まれるが、現在まで残っているのは仏教とジャイナ教だけである。
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午前10:29 · 2021年1月22日

仏教がカウンターとして生まれ、その後も、社会全体に布教しようというのではなく、当時の「一般社会」のオルタナティブとして自己を位置付けたということは、仏教というアクティビティを理解するためにとても重要なポイントとなる。
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午前10:32 · 2021年1月22日

「仏教という宗教は、けっしてその教えを人類全体に広めるために存在しているのではありません。そうではなくて、この世の中の、たとえば『明るく楽しく生きましょう!』という、そういう生き方にどうしても馴染めず絶望し、孤立している人たちを受け入れ、肩を寄せ合って生きていく」道を提供する。
午前10:35 · 2021年1月22日

・・・・・・・中略・・・・・

こうした努力というのは、本来ならば叶わないようなことを、自我を押し通すことでなんとか実現しようと頑張るということで、つまり我々の欲求、欲望を阻害する外部要因を自我の力で突破するということである。自我の強さが前提され、頑張るうちに自我はどんどん強められていく。
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午前10:58 · 2021年1月22日

仏教の努力というのは、この真逆の努力だ。それは、自我を解体するという方向に向けられる。だから、それはアクティブな行為においてではなく、瞑想を通して世界を正しく見るという形をとる。
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午前10:59 · 2021年1月22日

仏教でいう瞑想とは、外部の余計な情報をシャットアウトして、精神内部に潜り込み、そこでひたすら思考を巡らせながらじりじり正解に近づいていくという営みのことだ。その際言語を超えていかねばならないので、一般的な観点からはあたかも何も考えていないようだが、じつは強い解像度で考えている。
午前11:02 · 2021年1月22日

数学の問題を解くときの精神状態に準えるとわかりやすい。テレビを見たり、人とお喋りしながら、問題を解こうとしても解けない。強い集中力がいる。
数学者のグロタンディークは一日十時間、じっと瞑想しながら数学を考えていた。その瞑想から出た残りの時間で、その結果を論文に書く。
午前11:05 · 2021年1月22日

仏教は、瞑想的な状態でのみ解くことのできる景色、「この世のありのままの姿」を正しく見ることで、「生き物が生きるということそのもの」から必然的に陥らざるを得ない「自己拡張の欲望」「死への恐れ」といった「煩悩」から解放される智慧の実践であるということができる。
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午前11:10 · 2021年1月22日

仏教の「戒・定・慧」、これは良い習慣(戒)を守ることで、瞑想(定)の状態に入りやすくして、智慧(慧)を体得するということだ。ここで戒とは、社会道徳とは何の関係もない。言わば「こういう習慣をつけると、瞑想がうまくできますよ」という、どちらかというと養生法に近い性質のものだ。
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午前11:15 · 2021年1月22日

戒律というが、戒と律は、そもそも全く違うもので、律は先に書いたように教団の運営から要請される法のこと、戒とは修行者のための心得のようなことを意味する。
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午前11:16 · 2021年1月22日

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抜粋終わり

自己責任論・通俗道徳の「自助」は、そもそも仏道とは違うのですけどね・・・


この「自助の強制」「常に競争」が「いじめ」という魔を生みます。

さらにこの魔なくしては、「天皇」は存在できない。

「いじめ」という魔こそが、「天皇」の存在できる大きな理由。

上記文抜粋
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その過程では、一人ずつ調査し、相手にも弁護の機会を与えなければならず、相当に長い時間と大きな労力が必要となる。それだけに、「連帯責任」として全員を処罰してしまえば、その時間と労力を省略できるということだろう。
しかし、この場合、真の責任の所在は明らかにされず、「連帯責任」で「みんな悪かった」となるため、実際の責任者に対する追及はうやむやにされ、最終的には「誰も責任を取らない」のと同じこととなる。

これとよく似た構図は第二次世界大戦後の「一億総懺悔」にも見て取れる。あれも「国民全員の責任だ」とすることで、天皇、明治政府、軍部などに対する責任追及の矛先を変えられ、結果的には占領軍による軍事裁判によってただ処断されるのを待つのみとなった。その結果、右派から「占領軍によって勝手に一方的にやられた裁判」という指摘がなされている。

戦後日本の曖昧さと、それに起因する現代日本のデモクラシーとリベラリズムの脆弱性は、日本人が自ら侵略と戦争を反省して明治帝政を処断したのでは無く、占領軍によって命令・強要されて相当部分(全部とは言わない)が「仕方なく」体制転換させられたことに起因している。

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抜粋終わり

件の自衛官補(曹候補士試験合格者)は暴力クソ親父のDV家庭だったようですね。
モチロン、日本暴力クソ親父の根源は天皇制と米軍であります。
天皇と米軍にまたもやられる陸軍憐れ。


今度は宝塚か。「浜の真砂は尽きるとも、芸能界に収奪の種は尽きまじ」といったところか。
ま、芸能界を日本社会に置き換えてもそのまま行けるが。
天皇制自体、階級と身分、いじめと暴力、収奪と貧困の上に成り立っているものだしな。

宝塚もロクなものじゃないとは聞いていたものの、いかんせん「西の魔女」の情報は少なく、よく知らなかった。
週刊誌報道とは言え、聞きしに勝る邪悪さである。
日本の学校も大概こんな感じではあるが。

「天皇」は、「いじめ」特に弱いものいじめで、不満をそらし無責任で逃げる斬る犠牲者を作る。

仮に「天皇」が、この国の根幹ですべてというのなら、「弱い者いじめと虐待が、日本」なのである。

天皇を根絶して 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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