見出し画像

総合知の重要性。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

ツイートまとめ テーマ:「総合知」が重要な陰謀追及(陰謀研究、国際秘密力研究)と「道」を探求する古来の伝統的学問の共通性

〇久しぶりに自己紹介文を更新しました。よろしくお願いします。
「日本及び日本人の立場からの国際秘密力研究(特定の外国や宗教の立場の言説が多過ぎるので日本人としての主体的な陰謀追及を目指すという意)。日本及び東洋の先哲に学ぶ。戦前陰謀研究の継承と発展。純正愛国者=独立的思考者と定義し、そうあらんと努力したい。陰謀追及とは真実探求の道。「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ。」

〇付加した文の解説。「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」。「古来の学問」とは江戸時代までの学問を指す。儒学・国学・仏学・老荘学その他諸々。荻生徂徠は「道」を「統名」とした。統名とは学問探求の対象の総体を呼ぶ名称という程の意味と解釈。つまり「真実」の総称とも解釈出来る。

〇「陰謀追及とは真実探求の道」。様々な重要事実を調べ分析し世の中のあるべき方向性をも考察する陰謀追及は真実探求の道だという意味。真実=道とすると古来の学問にも通ずると考えた。古来の伝統的学問では「道」は探求すべき真理の名称であると同時に、探求の過程自体をも指す名称として使われた。

〇「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」と書いた事に対し、「真実を探求するのは近代的学術も同じではないか?」と思う人もいるかもしれない。確かに近代的学術も事実や法則を探求するという点では真実探求の営みだが、いかんせん細分化しているので、トータルな認識に乏しい傾向がある。

〇陰謀追及では個々の事物事象の解明も大切だが、世界の権力構造など物事の全体像を把握する総合知が非常に重要になる。そういう意味で陰謀追及は、蛸壺的に細分化した近代的学術よりも、「道」という「統名」で物事の全体や根本を認識・体得しようとした古来の伝統的学問に性質が近いと考えるのである。

〇個々の分野では一流の専門家が大勢いるのに日本がこの状態なのは、物事の全体像や構造を把握する総合知が普及していないからだと思う。例えば、特定の分野に精通する専門家が惑沈を頻回接種してボロボロになったり、逆に惑沈問題に精通している研究者が特定の勢力(参政党など)に取り込まれたりする。

〇よくない言い方だが「専門馬〇」という言葉がある。これは特定分野には精通していても総合的な思考・判断力に欠ける所がある状態を指すと考える。その点、総合的な思考・判断力を磨く事を重視するのが、昔の「道の学問」だと考える。その点が全体の構図理解が重要な陰謀追及に通じると思うのである。

〇荻生徂徠の定義によれば「道」とは「統名」。統名とは様々な要素を包括する全体を表す名称。したがって「道」の認識は物事をトータルに把握する「総合知」という事になる。陰謀追及では世界の全体像や構造を把握する総合知が重要なので、昔の日本で学ばれていた道の学問をそれに比定した次第である。

〇江戸時代の学問は「事又は気(事実・現象)」と「理(道理・法則)」という枠組みで物事を考察した。これが当時の知の枠組み、今風な表現で「パラダイム」である。その中で「事」を重視する学派(古学・国学など)と「理」を重視する学派(朱子学)があった。そのいずれもが「道」という統名を用いた。

〇江戸時代の学問は総じて「事実(事・気)」と「道理(理)」という2つの基準に沿って物事を考える思考方法を持っていたと見る。この思考方法は物事をシンプルに整理して明晰化するのに役立つと思う。それら事理の総体(事実と道理の全て)に付けられたのが「道」という統名だったのだろうと考察する。

〇「道は統名」と言っても「道」の具体的な内容は一定しておらず、学派や思想家によって様々だった。何を以て自分の「道」とするかは、それぞれの思索や探求に委ねられるという事だろう。また「道はない」説も「道」と呼び得る点で、哲学で「真理はない」という命題も「真理」として主張されるのと似る。

〇江戸期各学派の道の内容
古義学;人道(人倫日用の道)
古文辞学;古聖人が作った制度(礼楽)
宋学;理
国学;真心(まごころ)と日本古来の慣習(古道)
昌益;自然の働きと農耕(直耕)
梅園;条理
仲基;日常倫理(誠の道)
仏学;無分別の智慧とそこに至る道(仏道)
老荘学;自然の道(どう、タオ)
..等

〇江戸時代各学派の「道」の内容は一致しない。そこが良いと思う。中には全くの正反対の場合すらあった。荻生徂徠は聖人が作った制度(礼楽)を「道」としたのに対し、安藤昌益は聖人が作った制度は私のこしらえ事(私法)に過ぎず、天地自然の循環の働きとそれに則った農耕生活(直耕)を「道」とした。

〇各学派の「道」の内容が一定しないという事は、そこに思想や学問・言論の自由、活発な議論・対話・論争がある事を意味する。松平定信による寛政異学の禁というのがあったが、その禁圧の範囲は幕府の官学にしか及ばず、在野の学問は自由だったようだ。同時代の西洋では教会や革命党が思想統制していた。

〇統名としての「道」は決して古語ではなく今でも用いられている。歌道・茶道・華道・香道・剣道など芸術や技芸の体系に「道」と名付けられる。特定の分野を「道」と言い、「その道のプロ」などと表現する。人生の総体を「生きる道」「道を歩む」などと表現し、人生の選択を「道を選ぶ」と言ったりする。

〇西洋では「神」という絶対的概念を立て「神はいる」「いや、神はいない」という風に論点を立てる。共通項が無いため相互の殲滅を狙う二元論的争いになりがちだ。昔の日本では「これが道である」「いや、真の道はこれだ」という風に論点を立てた。「道」という共通の統名の中身を巡る議論は穏和である。

〇西洋では常に「神の有無」が争点になる。江戸の学問では「道の有無」は問題にならず「道の中身」が主な論点となる。江戸の学問から少し離れるが、印度中観派の道は「実体のない道」なので、有無が問題にならない。統名としての「道」も中身が空だからこそ内容を充実させられると言えるかもしれない。

〇西洋の実体論的「神」は常に有無が問題になる。その意味で無神論も西洋の基督教文化の産物である。東洋の「道」は人が「生きる」という事の上に立てられているので、生きるという現実がある以上どんな形であれ「生きる道」はあるのであり、そこで「道の有無」を論じてもしょうがないという事であろう。

〇自己紹介文の自己解説の続き。「真実探求の道」について。陰謀追及では事実の追求が重要だが、単に事実の情報を収集するだけでなく、それを如何に解釈・分析するかも重要である。だから「事実の探求」では片手落ちになる一方、「真理の探究」では抽象的過ぎる。「真実」が丁度良い表現だと思った次第。

〇事実に関する知識・情報を只集めるだけでなく、それらの知識・情報を如何に解釈・分析・解析・分類するかが肝心である。ある事実事象を見聞きしても、分析する為の枠組みが無ければ、その情報は素通りしてしまう。情報をすくい上げる為の分析枠組みを構築しているからこそ重要情報がアンテナにかかる。

〇また、知識・情報を構造化しておくと、知識が定着し易いし、知識の整理や物事の分析・理解に大いに役立つと思う。例えば、裏権力の思想派閥を➀一神教系②神秘主義系➂理性主義系に分類しておくと、新手が出て来てもすぐにその性質を分析する事が出来る。ただし、構造を絶対視しない事も重要である。

〇知識を構造的に把握する事は陰謀分析に有効だが、そうした構造や枠組みを絶対視する事もまた禁物である。枠組みを絶対視すると、そこから外れた事象があった場合に分析出来なくなるからである。追及者が陥り易い陥穽の一つ。批判的思考を維持する為にも事実に即して枠を修正する柔軟性も大事である。

〇このように陰謀追及には単なる事実の追求だけでなく事実を如何に捉えるかという分析や思考の工夫も含まれるので、「事実探求」よりも「真実探求」の方が適切な表現と考えた次第である。昔の学問が探求した「道」も単なる事実(事)や抽象的真理(理)ではなくそれらを包括する統名だったと思われる。

〇「探求」という言葉を使ったのは「真実」を絶対視せずに何が本当かを常に追求し続ける姿勢が大事だと考えるからである。「覚醒」などと称し「真実に目覚めた」などと自分の考えを絶対視するのは危険。あくまでも事実の探求を着実に行ない、批判的思考を維持して探求し続ける事が重要であると考える。

〇古来の伝統的学問で使われていた「道」という概念も対象的な「真理」というより常に人が歩む所の過程・プロセスを表す所にも比重があると思う。これは停滞せずに常に批判的に思考し続ける探求の姿勢に通じている。「道」という語を使ったのは、その語感に思考の硬直化を防ぐ動的な柔軟性を感じたから。

〇「何が本当かを探求する」事と「自分は本当の事を知っている」と思う事は異なる。追及者に必要なのは前者の姿勢であると思う。「覚醒した」「真実を知った」と思い込むとドグマを盲信する狂信者のようになりかねない。自己懐疑を忘れず、批判的思考を保ち、着実に事実や道理を探求する事が重要と思う。

〇「ある事実事象を見聞きしても、分析する為の枠組みが無ければ、その情報は素通りしてしまう」云々と書いたが、例を挙げる。例えば「因果」という枠組みを予め持っていなければ、ある事象を認識してもその原因を探ろうとは思わないであろう。「因果」のカテゴリが無ければ一時の事象として過行くのみ。

〇「枠組みを絶対視すると、そこから外れた事象があった場合に分析出来なくなる」とは、「因果」という枠組みを絶対視するあまり、「原因は一つしかない」と思い込んで複数あり得る原因を見逃す事が考えられる。その場合は「原因は複数あり得る」という枠を足すか、「因縁」などの枠を採用するとよい。

〇「因果」は一つの原因から一つの結果が生じるという単線的因果観になりがちだが、「因縁」は因(原因)と縁(条件)を含むので複数の原因をすくい取る事が出来る。南方熊楠のように「因縁」を学問上の方法論とした学者も存在する。枠は認識の条件であると同時に限界でもあるという両義的な性質を持つ。

〇故に「両建」という枠を知らなければ、両建現象は認識されない。言語化されていない事柄は人間の認識や思考の対象にならない。認識されたとしても漠然とした認識で終わってしまう。ある事象にその実態に沿う名称を付ける事(正名)は、問題の所在や性質を把握し解決策を講じるのに不可欠の前提となる。

〇枠は認識の可能性の条件であると同時に認識の限界でもある。枠を絶対視すると認識を誤る可能性があると同時に、枠が全くなければ何事も認識されないのである。何でもかんでも「両建」と決め付ける訳ではないが、「両建」という枠組みを知らないと「これは両建では?」と疑う事すら出来ないのである。

〇「世の事象を見る際に両建という観点を持つだけで簡単に騙される事がなくなる」と書いたのもそういう事である。「両建」という枠組みを知っているだけで、現実の社会的現象を認識した際に「両建の可能性」を考えるセンサーが働き、声の大きい人物や団体の主張や宣伝を鵜呑みにはしなくなるのである。

〇「思想」を知る事が重要なのも同じ理由からである。陰謀者の思考を読むには彼らの「思想」を分析するのが近道。「思考」にも「枠」がある。言語が最たるものだが、言語で構築される「思想」も思考を規定する主な枠組みである。国際秘密力は何故「世界統一支配」を企むのか。その秘密も「思想」にある。

〇逆の方向も指摘しておきたい。確かに「枠」は個々の「思考」を規定するが、逆に個々の「思考」が「枠」を規定する事もある。両者は相互依存的に相互作用する。例えば、既存の言語体系を前提にある者が造語を生み出すと、既存の言語体系の中にその語が組み込まれ僅かながら言語体系の再布置化が生じる。

〇個々人は枠組みの中で生きているが、逆に個々人の個別の営為が枠組みに影響を与えて変化させる事もあり得る。人間は単なる枠組みの奴隷ではない。個別の行為で枠組みの再布置化を促す事も原理的には可能。一人一人は微力かもしれないが、それが合わさると大きな力になり得る。裏権力支配の打破も然り。

〇物事は言語化される事で人の認識に上る。逆に言語化されないと認識されなくなる。「裏権力は自らに団体名を付けない」という指摘は理に適っている。名称を付けない事で人々から認識されにくくなり、存在を隠す事が出来るのである。逆に彼らの性質に合う名を付ける事でその存在をあぶり出す事が出来る。

〇「国際秘密力」という呼称は戦前風味の表現を伊達や酔狂で使っている訳ではない。「国際(国際的な)+秘密(隠された、秘密の)+力(事実上の力、権力網)」という裏権力の性質を過不足なく盛り込んだ名称だと思うので使っている。只「正名」と言っても追及者ごとに呼称は様々あって然るべきと思う。

〇「正名」は「実体に対応する唯一絶対の正しい名称を付ける」などという実体論的考えではなく「物事の認識を誤りに導かないように実態に合う適切な名称を付ける」という風に考えている。認識の誤りに導かない限りは様々な名付け方があって然るべきである。特定の名称の絶対視はむしろ認識の盲点を生む。

〇「特定の名称の絶対視はむしろ認識の盲点を生む」というのは、先述のように「因果」の枠を絶対視すると原因が複数あった場合に他の原因を見落としてしまうのと同じである。歴史的に実在した組織の名称を国際秘密力の全体又は中枢部の名称として使うと、イメージはし易いが視点を限定する恐れがある。

〇「枠」は「構造」と言い換える事が出来る。人類発祥の時点でない限り人は必ず先行世代が作った「構造」の中に生まれるので、構造と言うと如何にも牢固な印象だが、実際には如何なる構造も歴史的に形成されたものである。構造を構成する契機である各要素が変化する事で構造自体が変化する事もあり得る。

〇ある時点に於ける「構造」は構造を構成する要素の変化で次の時代には変化したり崩壊したりしているかもしれない。共時的に見ると「構造」だが、通時的に見ると「歴史」である。共時的視点と通時的視点とは、謂わば「構造」と「歴史」である。陰謀分析に於いても、この両方の視点が必要であると考える。

〇裏権力支配という「構造」を構成する要素の一つが「人々の無知」だとすると、人々が事実を知るなどして無知でなくなると、構造を構成する要素が変化するので、裏権力支配構造に微妙に影響を与え弱める事が出来るはずである。だらこそ彼らはメディアやインフルなどを使い人々を洗脳し思考誘導するのだ。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/1741536464134115329


(了)

・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


個々の分野では一流の専門家が大勢いるのに日本がこの状態なのは、物事の全体像や構造を把握する総合知が普及していないからだと思う。例えば、特定の分野に精通する専門家が惑沈を頻回接種してボロボロになったり、逆に惑沈問題に精通している研究者が特定の勢力(参政党など)に取り込まれたりする。

同感。

本当に「総合的な知」が見えないのが、現代日本に思えます。

「何が本当かを探求する」事と「自分は本当の事を知っている」と思う事は異なる。追及者に必要なのは前者の姿勢であると思う。「覚醒した」「真実を知った」と思い込むとドグマを盲信する狂信者のようになりかねない。自己懐疑を忘れず、批判的思考を保ち、着実に事実や道理を探求する事が重要と思う。

その通りに思う。



お読みくださりありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?