幻にすがらない・・・

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

要注意な仏教系の仏教破壊工作員と判定法

一番大事なので一番最初。特に初学者が工作員の本を掴まされると最悪だからだ。

要注意人物が四天王になった。
鈴木大拙と高楠順次郎と朝比奈宗源と有馬頼底。
世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員に注意。
著者の経歴はどの本でも調べようね。
「支配層側ではあるが、学問的な個所は正しいのでは?」と言われそうなので
「それあなたに判定できる? 自分が属する勢力に都合が良い解釈が書かれている可能性が高い」と言っておく。
渋沢栄一や安岡正篤(両者とも人脈がアンチ論語)の論語解釈なんて信用できるか?
無量寿経の中の和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え、和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)では「和顔軟語」となっているが、欄外注に「軟=愛」とある。
仏教で愛は渇愛であり執着だから悪。
現在比較的入手しやすい『無量寿経』では「和顔愛語」。高楠版の影響だろう。人脈見たら黒でしょ。
仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメ。
仏教は神秘主義という完全に間違ったデマを広めた神智学系の鈴木大拙と、
エスペラントの高楠順次郎がからむ本で仏教を学んではいけない!
仏教経典改竄を平気でやるヤソ勢力。

臨済録の注釈や解説書で大丈夫そうなのを探していたら、要注意禅僧2人、朝比奈宗源と有馬頼底を見つけたので注意喚起しておく。

・・・・・・中略・・・・・・・

ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
”村手 さとし‏ @mkmogura 2014年2月24日
飯を作らず、ほーけています。
神道を作った時、仏教界が神道に準じるため、仏教のなかをキリスト教化するための聖典として扱ったのが法華経です。
そして法華経原理主義は仲裁役、ヤクザになりました。日蓮主義者、国柱会とかです。創価学会も元はそこです。
愛語など仏教もキリ教化してます。

村手 さとし‏ @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

あと、ダライラマも気をつけようね。

さらに抜粋
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https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1464985907703033864
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
偽物東洋っぽい思想は「極端」の一言
A or notAというには考えずに必ず名が置かれている上で一つの名が多義や状況下では意味合いがひっくり返ることもあるので「名が置かれる」
わしも使用したけど「政治」と「お政治」は言葉は変わらなくても意味合いが反転しているでしょ?
同じ効用で効果だすね
午前0:53 ・ 2021年11月29日?Twitter for Android”

先述しましたが、
岩波版の臨済録の註釈(p.84)より、
(「境智依(きょうちえ)」〔後に「境智」に対してだと判明〕について)
注二
照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係。禅ではその相対性を消し去るか(例えば「境と智と倶に忘ず」)、またはそれを一体化する(例えば「境と智と二なし」)ことを理想とする。「心と境」という立て方も同じ。

つまり、二元論の解消により、両極端に走らないようにしていますね。
禅は二元論の解消または否定なのですが、
スピが混ざっているZenは二元論(露骨なものから弱いものまでさまざま)が残っている印象ですね。
で、このZen信者が魔インドフルネスって言っている。スピ系による禅潰しが成功しているから恐ろしい。

jkかわからん人の思想も偽物東洋臭さがある。物質憎悪、軽視があるならたいていはスピが憑依した東洋思想。

・・・・・・・・中略・・・・・

一 梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。
二 黄檗禅師を指す。

 諸君、出家者はともかく修行が肝要である。わしなども当初は戒律の研究をし、また経綸を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。
 諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。”

(一は毘尼(びに)、
二は大善知識についての注釈。
黄檗希運は臨済の師

(直後に「何かに依存せずにわしの前に出て来る者はない。」と続くので
外的権威にも内的魔境にも依存するな、惑わされるな、執着するなと読める。
中国での儒教の地位の高さを考えれば、父母の地位も禅的には権威であるから臨済は例に挙げている。

・・・・・・・・中略・・・・・

https://twitter.com/unajiperopero/status/1223222754763210752
”うなじ
@unajiperopero
馬祖の立場では、日常生活で見聞覚知するありのままの心がそのまま仏なので、ことさらに坐禅で功徳を積もうとする行為そのものが、それをわかっていない証拠になるわけです
午後9:33 · 2020年1月31日”

https://twitter.com/unajiperopero/status/1223224784890159104
”うなじ
@unajiperopero
馬祖以来、何か適当な物を指し示して、「何だ?」とか「見えるか?」とか質問するのが定番のやり口になるんだが、示しているものが払子であれ柏樹子であれ野鴨子であれ、本当に聞いているのはいつも「それを見ているお前は何だ? それが仏だろう?」だったりする
午後9:41 · 2020年1月31日”

https://twitter.com/unajiperopero/status/1046775193165651970 と続き
”うなじ
@unajiperopero
有名な「仏にあえば仏を殺せ云々」なんてのはまさに、社会的、仏教的に偉いもの、大切にすべきものを思い付くだけ列挙していって、「殺せ」でばっさり否定してるわけだ
午後11:53 · 2018年10月1日

・・・・・・・・・中略・・・・・・

締め。
臨済に脇腹突き三連撃を食らわされそうだな、永井先生。
禅僧が言葉を使わず肉体を使うのは、言葉で言ったら分別知だから。言葉は分けるものだからだ。
本と名づければ、本以外と分けられる。区別できる。これが言葉の作用。
「私」はこの世にただ1人なのに、「私」という単語は他人も使える。
つまり「私」ではそれが指し示す「X」を何段階にもレベルを落とした形式でしか表現しようがない。
禅なら、「じゃあ拳で語るしかないな」(「私」を使うこと自体が誤り)ってなるだろうね。
肉体は「私」ではない。「私の肉体」だから。と、言葉では表現できるが、肉体がなければ「私」なる意識もないのだから、
「私の肉体」とか「肉体は『私』ではない」と考えさせてしまう言葉の束縛、魔力が問題。
じゃあ、肉体言語で「肉体も私(の一部なのか「=」なのかは保留)」と悟ってもらうしかない。
食らえ臨済拳!

・・・・・・・中略・・・・・・

p222から
彼は決して「無位の真人」を内在の主体者として措定したのでもなく、上述の玄沙が批判するような「主宰」者に仕立てたわけでもなかった。「自信不及」の修行僧たちに活を入れるための便法として、これを仮設したに過ぎない。
彼自らも言う「わしが外には法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする」、「外にも法はない、内にも得られはせぬ」と。
「仏もなく、法もなく、修することもなく、証することもなし」とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主催者を己の内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち「仏魔」と化して、こちらを金縛りにするであろう。「仏を求め法を求むるは、即ち是れ地獄を造る業(ごう)なり」。〈無位の真人〉を臨済禅の代名詞とすることは、たれ(原文ママ)よりも臨済その人の最も忌むところであろう。

外にも内にも求めるな。「平常(びょうじょう)無事」であればよい。「ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依(むえ)独立の君たち道人こそが諸仏の母なのである。だから、仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが〔平常の〕正しい見地というものである」(六〇頁)。

臨済は示唆する、「心と仏と衆生とは一つであると華厳は教える。仏と衆生とは心に収斂される。この一心こそは一切の存在を位置づけ、それら一切の価値を定める。これが〈心地の法〉というものだ。その一心をわれわれはみな具有している。
その絶大なパワーをなぜ激発させぬのか。仏も法も、まさにそこから創出されるのだ」と。かくて臨済は、その激発をいざなうための手段として頻りに「喝」を利用する。
それは「カーッ」と発声することではない。大声で怒鳴ることなのであるが、その大喝が威力と効果を発揮するのは、相手の機を見て取って刹那に噴出できるパワーを具えた人に限る。

臨済の喝は早くもその存命中から常套の図式(シェーマ)と化してしまった。

唐代の禅では八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。臨済の師であった黄檗は、「三千世界(全宇宙)はすべて汝という自己にほかならぬ」と教えた

「仏を殺し祖を殺す」という発言にはギラリとした「自己」(Self)の措定は全くない。

臨済も、このような短絡した「自己」信仰が自らを陥れる穽に転化しかねないことを心得ていたに違いない。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

あと

さらに抜粋
・・・・・・・・・・・・

”「意識」によって自覚的に生きなければならない”って臨済に殴られるぞ。大拙の禅の解説を読むと「乾屎橛(かんしけつ)」って感想が浮かんでくるな。
”人はその自然状態にとどまらず、それを自覚する「意識」をもち、その「意識」によって自覚的に生きなければならない。それが「禅によって生きる(living by Zen)」ということなのだ”って禅と真逆じゃねーか! 西洋の自我とか意識大好き思想に毒されてるじゃん。
意識も自覚もはからい、拵え事、造作だからな。神智学やスウェーデンボルグに毒されたか?
大本教の霊界物語はスウェーデンボルグの鈴木大拙による和訳に露骨に影響を受けているから、万教帰一系も大拙をほめるのだろう。万教帰一系は禅は嫌いだがZenは大好きだからな。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/843478143881027585 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
鈴木大拙は禅を神秘主義とした。鈴木は臨済系だが「臨済録」には「念々馳求の心を歇得せば便ち祖仏と別ならず」とあり。執着してあくせく外に求め回る事を止めた平常無事の心を「仏」とした。原始仏教の趣旨と殆ど同じである。一方神秘主義では外に立てた実在を渇望しそこに合一する事を目指す。真逆。
午前0:03 · 2017年3月20日·Twitter Web Client

鈴木大拙は妻が神智学徒のベアトリス・レインという米国人で自身も神智学協会員だった。日本でのスウェーデンボルグの先駆的紹介者でもあった。その辺の思想的影響が「禅は神秘主義」という改釈に表れていると思う。大拙に故意があったかは不明だが神智学協会の影響は否定できない。憑依型戦術の一例。

「念々馳求の心」とは概念を立てて何かを渇望する落ち着かない心だと解釈できる。概念を立てると、その概念に対して執着が生じる事がある。だから臨済は仏や祖という概念を「殺せ」と言う。神秘主義では「一者」等の対象を立ててそこに合一しようとするが、これはまさに「念々馳求の心」で趣旨が真逆。

神秘主義でも神智学でも思想信条の自由であるからそれぞれ勝手にすればよいと思う。しかし、伝統文化との混同は止めるべきである。どっちがいいとか悪いとかの価値判断ではなく、趣旨が逆のものを「同じ」だとする客観的な間違いについて指摘している訳である。この淡々とした作業こそ憑依型戦術破り。”

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

意識も自覚も、執着すると、それも魔になる。

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

p.219から
現実の問題を処理するためには、むろん「理論・思想・指導方針」といった当事者それぞれの具体的「分別」が必要である。それゆえ大拙は戦時中の著述のなかでさえ、西洋近代の知識や技術を十分に学べと再三にわたって訴えている。

しかし、大拙にとって禅そのものは、そうした個別の知識や技術を提供するものでなく、別次元にあって、それら「分別の思想を働かす【原理】」なのである。伝統的な看話禅が、言語の否定→知性の否定→体験の獲得、という否定と集中の論理から成っていたのを、大拙は逆に、体験→知性→言語・行為、という肯定と発展の論理に反転し、その要となる知的「意識」の重要性を説いてやまなかった。それはひとえに、近代の機構や技術と連動し、それを自由かつ適切に機能させるための原理として禅を再編する試みだったのである。
 だが、近代社会の複雑な機構への分析・検証の手立てももたぬ――むしろ、そうした分析的思考を白紙にもどすことをこそ本領とする――大拙の「禅思想」は、近代社会が歪めば、その歪んだ近代社会をそのまま働かせる原理ともなり得るものであった。大拙は時に「禅はアナキズムだ」と言い、また時には「禅は資本主義とも共産主義とも、何とでも一つになれる」と語ったという(『鈴木大拙――人と思想』)。
 
 大拙がそのように語った時、「何とでも」のなかに軍国主義や戦争肯定等は想定されていなかったはずである。

アーナパーナサティ、禅の数息観は支配に使えないからマインドフルネスでは勧めないのだろう。
仏教は軍隊や資本主義と合わないからな。だから戒律つまり道徳を抜く。
戒律守れないやつが瞑想やっちゃダメって仏教の教えは無視。魔境にわざとなりやすく改悪しているから
魔境インドフルネスだな。「インド」はインドでもバラモン教の方ね。魔境バラモンフルネス

https://twitter.com/unajiperopero/status/1390888058392698891
”うなじ
@unajiperopero
5月8日
自己解決できなかった人だが、某有名イケメン僧侶の「もうすぐ悟れるので、仕上げに修行の旅に出ます」→「解脱には失敗したし、もうすぐ悟れそうだと思ったのは勘違いだったので謝罪します」の動画は普通に面白かった 「私はこんな感じで魔境に入りました」みたいな体験談を詳細に語る人は珍しいので”


「瞑想中のビジョンで授記を受けて真に受けちゃう人、やっぱり現代でも普通にいるんだ」みたいなの、普通の仏教の本とか読んでてもまず出てこないからな

・・・・・・・・・中略・・・・・・・

https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1386717198174101508
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
道徳が決まってなかったら何しても駄目
その上で宗教毎に観点が異なる、インド系の宗教は消していく作業をするし、セム系の宗教は啓示とこの世界の安定・中庸の為の行動をしていく、精霊信仰とかはそこら辺がまぜこぜ
それ以外は権力者道徳と奴隷道徳しか説かんから、関わるだけ無駄
午前1:21 · 2021年4月27日·Twitter for Android”


以下へのエアリプだろう。

私がマインドフルネスは危険であり、仏教破壊工作だと言っている理由の1つが、
仏教の戒律つまり道徳を抜いているから。戒定慧といって、
まずは戒(道徳)を守る生活ができて初めて、
定(瞑想、マインドフルネス)をして良いという順番がある。
理由は以下でわかるだろう。
戒律つまり道徳を守れない生活をしてる者が瞑想しても悪影響が大きいからだ。

青井硝子さんがリツイート
s.nada
@sandman9791
·
4月13日
論文が早期公開されました。「マインドフルネスは有害な行動にむすびつくか?」
倫理観低い人がマインドフルネススキルが高い場合,「きついことを言えば相手はひきさがる」、「他者を傷つけてでも自己の欲求を充足したい」といった能動的な攻撃傾向が高いことが示されました
マインドフルネスは有害な行動にむすびつくか?――マインドフルネスと能動的攻撃の関連に対する危害/ケアの調整効果
近年,マインドフルネスが効果をもたらすためには,他者に害を及ぼさず,思いやることを良しとする倫理(危害/ケア)を必要とする知見が提出されている。また,危害/ケアを欠いた場合,マインドフルネスが有害な結果をもたらす可能性が指摘されている。本研究では,想定される有害な行動として能動的攻撃を取り上げ,マイ …
jstage.jst.go.jp

青井硝子
@garassan
·
4月16日
rt これも経験としてわかる。
いのししを殺す時の感情操作にマインドフルネスを応用しているわけだけれども、それに長ければ長けるほど悪事へのハードルが下がるだろうことは想像にかたくない。


戒律には非殺生戒があるからな。これを抜くと最悪

・・・・・・・・中略・・・・・・・

4月14日
補足しますと、マインドフルネス自体は倫理的に中立な概念で、倫理がセットで有益な結果をもたらす。もし当人の倫理観が低い場合には毒になりうるという趣旨です。

リツイート済み
ニー仏
@neetbuddhist
·
2019年12月6日
そして両書でともに述べたのが仏教の瞑想実践に当然伴うべき戒律の意義であって、そのあたりの意識が薄い日本の一部の仏教関係者が今更マインドフルネスの危険性ガーとか言ってるのに対しては、「まずはどの入門書にも書いてある戒定慧の三学から勉強し直してくださいね」としか言いようがないタピね
コアラ
〔中略〕
やけに仏教に詳しいフリーザ
@waraikatahohoho
(お久しぶりです…お元気にされておられましたか…ぼぶさんのお言葉の通り仏道では「気づく」ことが全てです…とにかく「気づく」ことです…まず戒律を守ることで粗いノイズの発生源を取り除きます…その後、瞑想をすることで微細なノイズにも気づけるようになります…すると次第に智慧がでてきます…)
〔中略〕

・・・・・・中略・・・・・・

プラユキ
「有機的体系としての仏教全体を学ぶことの重要性を強調したい。
まず不殺生などの戒律を守り、
そのうえで
定によって心を整え
そうしたら智慧が出てくるという順序がある。
段階的に修行しているなら
マインドフルネスによって銃を撃つようなことは起こり得ない。

(悪事も平然とできるように仏教要素を抜いた瞑想だからグーグルや軍に都合が良い。
瞑想に失敗しても大丈夫なように最初に戒律を誓い、戒律を

守る生活をするのだが
そのような安全弁を意図的に抜いている。
宗教要素を抜いたのは不殺生戒が特に都合が悪いから。
上座部の坊さんはお金に触ることを禁止するほどに拝金主義を警戒しているのも都合が悪い。
新ヤソお得意の「仏教に偽装した悪化版バラモン教」の布教のためのマインドフルネス推進。

リツイート済み
UeKeN
@UxKxNx
·
2017年8月16日
ヨーガに打ち込む限りは、アーサナよりも呼吸法よりも瞑想よりもなによりもまず戒律守らないと、ぜったいに体験は深まらない。戒律は単に道徳的な規範というよりも、実践的な観点から合理性有りと帰納された経験則だ。

・・・・・・・・中略・・・・・

https://twitter.com/prapanca_snares/status/1387356859258966020 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares

RTs
「ここで佐藤(幸治、引用者注)は、太平洋戦争中の一九四四年に刺殺目的で訪れた、熊本のある工場の例を挙げる。その工場では、毎日の朝夕に坐禅を実施することで、生産性を上げているのだという。佐藤が現地に行って確かめたところ、そこでは朝夕の静坐や般若心経の読誦のほかに、→
午後7:43・2021年4月28日・Twitter Web App

→戦時下ということもあり、天皇への帰依心を高めるために日本の神を拝む「行」がなされていた。
 佐藤は、こうした「皇道禅」は戦後社会にふさわしくなく、改めるべきだと述べる。(中略)しかし、佐藤はそれが仕事の能率や創造性に寄与しているかという基準から、これを寺院僧堂での禅よりもむしろ→

→真に迫った「禅」だと評価したのである。戦後社会に台頭した、「禅」をめぐるまったく新しい見方が、ここにある」
「戦後の日本社会では、企業の社員研修に、坐禅がしばしば取り入れられたのである。サラリーマン向けに各種の「性格教化法」を紹介する本を書いた保険セールスマンの竹内芳夫は、→

→坐禅も「産業訓練」の一種だとしながら、次のように述べている。

 企業内訓練でも、ただ単に「知識」をつめ込む――というだけの教育にあきたらず、「人間をつくる」という立場から、時間をさいて被訓練者を禅寺へやり、坐禅を学ばせている会社もたくさん出てきたようで、→

→一部の禅寺はそのために満員の盛況を呈しています(竹内一九六三)。」
「近代を通して、特に戦後には、坐禅が一般大衆のなかへと拡散していく。そして、そうした坐禅の実践の拡散を後押ししたのが、坐禅は個人の能力開発に役立つという、禅の効能ないしは実益に対する信用であったのだ。→

→禅は、僧侶ではなく一般人に「現世利益」を着実にもたらしてくれる手段の一つとして、その宗教的あるいは社会的な位置を変化させたと言えるだろう」(碧海寿広『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』より)

「マインドフルネス」を巡る近年の諸現象は、特段目新しいものでもなかったりするんですね。


マインドフルネス以前から日本企業は禅を戒律を誓わせるのを抜いて取り入れている。
糞じゃん。労働教=和風カルヴァン派〔安息日なし。法人がゴッド〕は全てを腐らせる。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

大拙は時に「禅はアナキズムだ」と言い、また時には「禅は資本主義とも共産主義とも、何とでも一つになれる」と語ったという(『鈴木大拙――人と思想』)。
大拙がそのように語った時、「何とでも」のなかに軍国主義や戦争肯定等は想定されていなかったはずである。

そもそも「禅・仏教」から、戒律を抜いたら、「社畜育成」や「体罰教育」になる。

そもそも「瞑想」のために、戒律は必須になる。

そもそも密教でも天部を祀る出家は、ほぼ戒律を堅守する。しないと、それこそ危険なのだから。

「戒律を守らんやつは、おれの弟子ではない」って空海も指摘。

日本は、最澄以来、戒律にそこそこ緩い。

まあ、これは「天皇」を超える権威なり道理を、日本はほぼ持ちえなかったってこともあるよね・・・

ようするに「強者にしがみつき、弱者を食い物にする」のが、国家元首~天皇・皇族「から徹底した「処世術」

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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