日本は滅び、日本人は死滅する。

一部引用
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ある日ネットでニュースを見ていて、この方の抱えている心理と「ゴールデンカムイ」の鶴見達が(そして近代日本の大衆が)抱えている心理がある意味とてもよく似ているんじゃないかと思った。すると突如頭が奇妙な回転をし始めたのでここに記す。

{男性「左翼と戦うには統一教会しかないと思い40年献金してきました。人生を否定するのが怖くて、後悔しているとは言えません」
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)で40年以上、信仰にもとづいて献金を続けてきたという。
「人生を否定するのが怖くて、後悔しているとは言えません」
30代で会社を経営していた1980年ごろ、先に信者になっていた妻の影響で入会した。

今も、屋外での週3回のアルバイトで献金を続け、約40年間の総額は1億円近い。

信仰のきっかけは、教団や友好団体の政治姿勢への共鳴だった。当時、世界は旧ソ連や中国など共産主義勢力が拡大を続け、日本までも共産主義に乗っ取られるという危機感が男性にはあった。
そんなとき、共産主義と対峙(たいじ)するという「勝共運動」を訴えた教団日本教会の久保木修己・初代会長の演説に心打たれた。
「左翼と戦うには統一教会しかない」
教団の問題をきっかけに被害者救済新法が成立しました。今後は解散命令請求をめぐる政府の動きが注目されます。そんな中、教団の現役信者が朝日新聞の取材に応じました。}

◆過ちの犠牲を無駄にしない方法
【捧げて来た犠牲や努力のあまりの大きさゆえに、犠牲や努力に見合うものを得るまで諦められず、過ちを受け入れられない/路線変更出来ない/今更辞められない】とか、【強い期待や信念・信仰とそこに捧げた大きすぎる犠牲への執着が過ちも報われぬ現実も受け入れることを拒んで路線変更できず、現実よりも信念・信仰を選んで現実逃避する】という心理は古今東西よくある。カルトにハマった人だけでなく、ギャンブルにハマったりネズミ講にハマった人。恋愛にハマって貢ぎ過ぎた人、一部の占い依存症患者にも通じるものがある。 そんな気持ちは人間なら誰しも持ちうる心理で、だからこそ時に暴走したり悪用されたりするものでもある。鶴見がこの心理を扇動のために利用したのは、本人も抱える心理だったからだろう(もしや土方歳三も? 当然尾形にも・・・)。

個人的に、報われぬ覚悟を持つ前に根拠のない期待や空想だけで何かを犠牲にしない方がいいと思う。この現実逃避的な衝動に負けると、自分自身の「考える力」が抑制されて簡単に誘惑されたり騙されたり煽動・洗脳されやすくなる。

過ちの犠牲を無駄にしないためには、「犠牲に見合う対価や結果」を求めて突き進んではいけない。さらなる過ちと犠牲を繰り返すだけだ。過ちで生まれた犠牲は、それに見合う対価や結果を求めることではなく、「過ちから学ぶ」ことで初めて無駄ではなくなるのだ。過ちを生かすことは、その犠牲を生かす事。

【】で書いた例の心理、実は先の大戦でボロ負けした大日本帝国の末期症状とも通じている(『この世界の片隅に』の主人公も、鶴見達と同じ心理に陥っていて玉音放送を聴いた時ガチギレ)。
幾多の戦争をしてきた近代日本は、明治の時点でこの心理が大衆の集合無意識下で急速に蓄積しだしたのかもしれない。 「カミカゼ作戦は間違っていなかった。あの犠牲は戦後日本の発展に必要不可欠だったのだ。カミカゼを否定することは日本に捧げられたあの尊い犠牲とそれによって成立する今の日本を否定することだ」と未だに強く信じ込んでいる人達(宗教右派の信者さんにも多い)にも多分同じことが言える。
(彼らの死の部分ばかり尊ばないで彼らの生きた人生を尊んだ方がいい。まるで死ななきゃ価値が無iい人達みたいだ)

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抜粋終わり

私は「誤った戦略からは撤退せよ」のを大事にしている。

参考

より

上記文抜粋
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撤退戦略の優先

・・・・・・・・中略

 ベトナム戦争は、キッシンジャー博士の超人的な外交努力で撤退へと持ち込まれたのであるが、この戦争はもともと徹底する計画がなかったために深入りしてしまった紛争(Conflict)であった。
 私がフロリダ州の州都タラハッシーに行ったら、そこに州軍の出征戦死者を追悼する国旗掲揚台があり、
 「Korean Conflict and Vietnam Conflict」と刻まれていた。
 不思議に思って、
 「戦争(War)じゃないのか」とたずねると、知り合いは顔を真っ赤にして
 「政治家はWarという。しかし、フロリダ人にとってはConflictなのだ。フロリダとは関係のないところで、フロリダ人の血が流されたことをわれわれは追悼しているのだ」と厳しく言ったものだ。

 しかしベトナム戦争をはじめた米軍統合参謀本部の人々は、沖縄から駐留軍を撤収することを今でもまったく考えていないように、ベトナムから完全に撤退することを想定してもいなかったのであろう。
 そこにケネディ大統領が
 「近くのキューバでもうまくいかないのに、どうして遠くのベトナムがうまくやれるのか」と撤兵計画を指示したものだから感情的に反発したことはよくわかる。

 とはいえ、ベトナム・コンフリクトは失敗に終わったのである。
 《JFK》のストーン監督が言いたかったのは、もしケネディ暗殺がなかったら、ベトナム戦争はなく、むしろアメリカ軍は南ベトナムから平和的に撤兵し、北ベトナムと友好関係も持ちえただろうということである。

 すべての戦略は撤退で終わる。
 終わって、家に帰るのである。
 忘れ物をしてはいけない。
 迷惑をかけた人々にはお詫びをしなければならない。
 そして、気がついたら、まわりを掃除していくことである。
 そのことを考えたら、最後の最後の掃除まで、最初の段階で目配りをした撤退戦術を戦略オプションの一つとして当然用意しなければならない。
 この撤退戦術を誤ったとき、アメリカのPKF(国連平和維持軍)は国連の記章をつけていたにもかかわらず、レバノンやソマリアで大打撃を受けることになった。

 善い戦略は、善き撤退をもって終わる。
 これは礼に始まり、礼に終わる日本武道の試合の心得の如しである。
 撤退に失敗すると、全てが失敗した印象を与えがちである。

 名誉ある撤退の姿をどのように設定するか。
 うまい引き際のタイミングをどのように見分けるか。
 最初から撤退を準備しておけば、引き際のタイミングは得られるであろうが、状況の変化で行き当たりばったりで撤退すると、どうやっても名誉ある撤退の形にはならない。

 『孫子兵法』は言う。
 「最大の防御は撤退である」
 これは「逃げるが勝ち」といっているのではない。
 しかし、「攻撃は最大の防御なり」という考え方は完全な錯誤であることは銀雀山竹簡で明確になったのだ。

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・・・・・・・・・・
抜粋終わり

ので、

【捧げて来た犠牲や努力のあまりの大きさゆえに、犠牲や努力に見合うものを得るまで諦められず、過ちを受け入れられない/路線変更出来ない/今更辞められない】とか、【強い期待や信念・信仰とそこに捧げた大きすぎる犠牲への執着が過ちも報われぬ現実も受け入れることを拒んで路線変更できず、現実よりも信念・信仰を選んで現実逃避する】という心理

てのはよくわからない。

なんのために努力したの?

なんのために犠牲にしたの?

目的を達しなくてもいいから、

「いまさら辞めない」ってようするにその努力や犠牲自体に陶酔していただけの妄想でしょう。


て考える。

あと、上記記事の全文を読んでみて。

あと


より

上記文抜粋
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神さまから
教えて頂いたお言葉ですm(__)m

神さまのお言葉

この世には二種類の人間がいます

自分の非を認めて次に進む人

自分の非を認めずにぐるぐる回る人

どちらにも時間は平等に過ぎるから

自分が悪かったという人は次に進む

非を認めない人はずっと子供の時のまま

大人になっても変わらない相手を傷つける人

人のせいにして謝らない人と

ごめんなさいと謝る人に分かれている

何か起こった時に
人のせいにしたり
ごまかしたりして
やり過ごしていては
魂は成長しないよと
神さまはおっしゃっておられる
のだと思いました。

自分は果たして
どちら側の人間なのか
自分自身の普段の行動を
よく見つめていきたいです

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

「自分の非を認める」のは、大事だが、極端になると「通俗道徳」で、人が人を食う社会の元になる。

「自分が悪い」 ていっても、限度がある。

そもそも


自分の何が悪かったのか。

努力不足?

考え方の過ち?

方法の失敗?

信じる人を誤った自分の判断ミス

とか色々考慮しないといけない・・・

一概に「自分が悪い」だけでは、それも過ちで、「過ちに過ちを重ねる」のだし。


上記文抜粋
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経済的な失敗者は、道徳的な敗北者になる

 歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。

 その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。

生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争

 通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。

・・・・・・中略・・・・・・

 一時は奇跡的とも言うべき高度経済成長による所得増大によって、多くの人々は自らの責任で生活の安定を確保することができました。人々は、「勤労国家レジーム」に基づき、
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。

 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。

今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。

・・・・・・・中略・・・・

『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)

 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

努力するのが失敗では無く、努力不足でなく「運」の悪さもあるよね・・・
色んな条件に対応できる魚でも、陸の上では死んでしまうし。そんなこともあるのだよね・・
障碍者をいびるのが普通な日本と、もう少しましな福祉の国の北欧やロシア・キューバとかなら、障碍者も生き様が変わるとある。

そのような「運」「環境」を無視した「努力不足」など言われても、無理。

上記文抜粋
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①社会は本当に能力主義なのか

一つ目の反論は「能力主義的価値観は蔓延しているけど、社会は本当に能力に応じて報いているのか」という反論です。

「皆が同じ条件なら、自分の結果は自分の責任と受け止めるべきだ」という能力主義の主張の「皆が同じ」という条件に疑念をぶつけているわけです。

では、「皆が同じ」という能力主義が実現している社会が一体どういったものか具体的に考えてみましょう。

それは端的には、「どんな家庭に生まれたとしても、社会的に成功するチャンスがある」ということです。

では実態はどうでしょうか。

サンデルは以下のようなデータを持ち出し、能力主義社会は実現されていないと主張します。

所得規模で下位五分の一に生まれた人びとのうち、上位五分の一に達するのは、だいたい二〇人に一人にすぎない。

ハーバード大学やスタンフォード大学の学生の三分の二は、所得規模で上位五分の一に当たる家庭の出身だ。気前のいい学資援助策にもかかわらず、アイビーリーグの学生のうち、下位五分の一に当たる家庭の出身者は四%にも満たない。

つまり、豊かに生まれたものは豊かになる確率が高く、貧しく生まれたものは貧しいまま死ぬ確率が高いということがデータから明らかなのです。

この原因として様々理由が挙げられます。

例えば、子どもに将来豊かさな生活を送らせようとしたときの一つの手段として、いい大学に入学させるという手段が考えられます。

しかし、アイビーリーグのような名門私立大学に行くには熾烈な競争を勝ち残る必要があります。

豊かな家庭では、そこに合格するだけの優れて教育を幼いころから受けさせることが出来ます。

さらには、アメリカの大学では寄付金を多く支払った家庭の子供を優遇するという制度まであります。

豊かな家庭は子どもに豊かさを引き継がせることが出来るのです。

このように能力主義の実態は、全く公平性を欠いたものなのです。

②能力は幸福に支えられている

能力主義的価値観に対する二つ目の反論は「能力主義は道徳的に肯定できる根拠がない」というものです。

能力主義的価値観を正当化する道徳的な根拠は「能力は個人の努力や勤勉と言った美徳を反映しているので、それは賞賛されるべきである」と言ったものです。

しかしその根拠は二つの理由から道徳的に疑わしいとマイケル・サンデルは主張します。

一つ目は、個人がある特定の才能を持っているのは、遺伝や家庭環境などの幸運かどうかの問題であり、その個人が美徳を持っているからというわけではないという理由です。

二つ目は、ある特定の才能を持って生まれてきたとして、それを評価してくれくる社会に生まれてきたかどうかは幸運の問題だということです。

筆者はここでアームレスリングとバスケットボールの例を持ち出します。

仮にあなたが、アームレスリングで世界で敵なしの才能を持って生まれたとしましょう。

それは世界で70億分の1という希少性のある才能です。

しかし、だからと言って社会から絶大な承認と経済的な報酬を得られるわけではありません。

では、たまたまバスケットボールで世界一になれる才能を持って生まれてきていたとしたらどうでしょうか。

例えば、NBAのNo.1プレイヤーと言われているレブロンジェームスは契約金だけで年40億円以上の報酬を得ます。

しかし、彼がバスケットボールが大人気の現代の社会に生まれてきたことは彼の手柄ではありません。

このように個人の能力は偶然性に大きく左右されるものであり、「能力は個人の努力や勤勉と言った美徳を反映しているので、それは賞賛されるべきである」という能力主義の主張は、道徳的には全く根拠がないということになります。

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・・・・・・・・・
抜粋終わり

まあ「失敗を認めて、撤退しろ」ってのが「自分の非を認める」ってのがベターと思う。

なら日本の現状は

「努力は大事だが、努力が報われるとは限らない。」

「努力信仰~通俗道徳」の非・誤りを認めて改めるのが、第一歩で有ろう。


ただ、現状の日本はそれが極めて、不可能に近いと思う。

「天皇」には過ちが無い~天皇制と、それでなりたつ天皇カルト国家が、未だに日本人を支配して、「過ちは非国民」的な通俗道徳強化版が、学校教育で洗脳され日本人を調教し続けている。

その洗脳は敗戦後にさらに強化され、150年。

カルトを150年も続けたら、発狂する。

発狂して正気を失いかけた日本人は「コオロギ」すら嬉々と食うようになっている。

もう、日本に明日は無い。

いや「明日」がある方が悲惨だろう。

日本人が永遠の奴隷・家畜になるよりも、死という解放か、亡国という解放の方が救いがある。




「死んでしまえば、もうその人は帰ってこない」

軍事学書の孫子ですら、悲痛にそう言う。

そんなことを屁とも考えない保守だの尊皇家だのが、日本人を支配しているのだから、日本に明日が無いのは、明白なのだ。

まあ「天皇廃止」か「天皇家皆殺し」をして、その巨悪の根源の天皇を絶てば、まだ日本人と日本国家には、明るい未来もありえるだろうが、、、まあ天皇家根絶などアホな日本人には不可能だろう。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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