白磁のアイアンメイデン 第2話〈3〉 #白アメ
主人の変化にいち早く気づいたのは、忠実なる執事アルフレッドであった。
『これはいけません』
表情のない顔で――オートマタである彼の顔にはそもそも目鼻らしき凹凸が刻まれているだけなのだが――抑揚に欠ける声を発した。
『お嬢様が気を練っておられる』
並々ならぬ相手なのだろう。主人のもとに今すぐ駆けつけるべきか。だが、今の自分はこの馬車を駆る御者、その役目を放棄する訳にはいかない――そこまで演算を巡らすと、アルフレッドは伝声管に話しかけた。
『魔術師殿、聞こえますでしょうか?』
「聞こえて、いるぞ! なん、だ!?」
伝声管を通じ馬車内に届いた声に、ヘリヤは口元を手で抑えつつ返した。激しい車体の振動に声が震える。その顔は僅かに青い。襲われている中での緊張感もさることながら、先程から高速で走る馬車、その中での急加速、急減速、左右への激しい揺れに翻弄され、神経の乱れ、平衡感覚の失調、異常な発汗、体温の上昇、急激な嘔吐感を抱いていた。
有り体に言えば、馬車酔いだ。
『大変恐縮なのですが、お願いがございまして』「どうし、たあっ!?」
馬車が大きく跳ねる。
『――を握っていただきたいのです』「なに!? よく聞こえ、なかったが」『手綱を、握って、いただきたいのです』「―――は?」
馬車が大きく跳ねる。
『私めは執事として、主を護る鎧として、お嬢様のそばに参らねばなりません』
「ちょ、ちょっと、おい待て」
『頼れるのはもはや貴方様しかいないのです。どうか、お願いできませんでしょうか』
必死の形相で、ヘリヤは返事をした。「メ、メイドでは、どうだ」馬車内に戻ってきたフローレンスを指さしながら叫ぶ。「任せられないのか!?」
『戦術的に不適格です。彼女が手綱を握ってしまいますと、万が一の事態に対応できるものがいなくなります』
「万が一、とは」
『無論、この馬車内に敵の侵入を許した場合です』
ヘリヤはしばし熟考する。馬車が大きく揺らいだ。車体の軋む音が響く。
執事の言うとおりだ。奴の言う「万が一」、もし起きたら自分にはどうすることもできないだろう。主義を通すためとはいえ、攻撃魔法、ないしは防御魔法の一つでも習得しておかなかったこと、頑なにそれらを拒んでいたことを、ヘリヤは魔術に手を染めてから初めて悔やんだ。だが、いまさら遅い、この緊急事態、四の五の言っている暇など無さそうだ――致し方あるまい!
「手綱を握った、ことなど、無いぞ! 期待するなよ」『構いません』
前方の扉を開き、御者台へ赴く。前方より轟と吹き付ける風が、馬車の凄まじい速度を物語る。荒ぶる二頭のオートマタ馬が、決して小さくない車体、加えて鎖とドラゴニュートを引きずりながら力強く”忌み野”の大地を駆ける。その姿は頼もしさと同時に、己に御し得るのかという不安を掻き立てる。馬車酔いとは違う理由で、ヘリヤの胃から何かがこみ上げそうになる。
『さあ、どうぞ』「あ、ああ」アルフレッドから手綱を渡されると、ヘリヤはぎこちなく御者席に腰を据えた。
『基本的には、手綱をしっかり握っていていただければ問題ありません。馬は忠実にどこまでも真っすぐ進みます。もし進路を変えたければ、手綱を左右どちらかにお引きください』
「わかった、やってみよう」
『ああ、そうでした。一つご忠告が』
「な、なんだ。早く言ってくれ」
『御者席の横に付いているツマミですが、できましたら無闇矢鱈に触られぬほうがよろしいかと。とくに一番右端のものは決してお触りにならないように』
「なぜだ、触るとどうなるんだ」
『それは自爆装置、でございます。触ると馬車が自爆します』
「――じばく?」「自爆します」
馬車が大きく跳ねる。
「なんでそんなものがあるんだ」『はあ、私めには良くわかりませんが、なんでも』「なんでも?」『浪漫、だそうです』
馬車が大きく跳ねる。
「…意味がわからん。先程の丸鋸といい、こいつの設計者は酔狂にすぎるんじゃないか。正直理解しがたい」
『同感にございます。ではよろしくお願いいたします』
「ああ、彼女の力になってやってくれ」
その言葉に、アルフレッドは力強く首肯する。
『無論です、主の力になる、それこそが執事の執事たる証ですので』
馬車の屋根に登ったアルフレッドの視界に飛び込んできたものは、敵に近づけぬまま全身を切り刻まれ続けていた主の姿であった。
真紅の戦装束は、見るも無残な姿と成り果てていた。主の戦装束は、確かに元は瀟洒なドレスの姿をしている。だが無論、それは帝都のご令嬢が夜な夜な着飾る類いのそれと同じでは無い。下手な金属よりも強靭で、それでいてしなやかさを備えた、「元」主人特製の品である。それをこうも傷つけるとは。
しかし紙一重でかわし続けていたのであろう、ぼろ切れの隙間から覗く白い肌には傷一つ無いことを、アルフレッドは冷静に見て取る。
そうは言っても打つ手を失ったのか、後方へ飛び退き距離を取るベアトリス。女ドラゴニュートはすぐに追わず、伸ばした右手を大袈裟に振り回す。己の勝ちを確信したか、侮るような仕草をよこす。
ベアトリスは深く静かに息を吸い、息を吐く。その体を、微かな金色の光が優しく包み始めていた。その後ろに、静かにアルフレッドが立った。
「ああ、アルフレッド、来てくれましたのね」
『遅くなりまして申し訳ございません。お嬢様。ずいぶんと苦戦なさっている御様子で』
「そうですのよ。見てくださいなアルフレッド、お気に入りのドレスでしたのに」
人差し指を頬に当て、小首をかしげるベアトリス。
「同じものを仕立てるのに、いったい幾らかかるのやら」
言いながら両手を顔の前で叩く。ぽん、と間の抜けた音が響く。
「まあ、仕方ありません。負債は奴らに払わせましょう。しかるべき形で――アルフレッド、舞闘会(おでかけ)の支度はよろしくて?」
「無論です、お嬢様」「ならば」
ベアトリスは、どこまでも突き抜ける青い空の下、金色の瞳を輝かせながら高らかに告げた。
「光差す舞台まで、つつがなくエスコートを!」
『With Pleasure, My Lady』
爆発と見紛うような閃光と共に、アルフレッドの執事服が、そしてアルフレッド自身が、その腕が、足が、胴体が、頭部が八方に弾け飛ぶ。緩やかな螺旋を虚空に描きながら、ベアトリスに装われていく元執事の全身鎧(フル・プレート・アーマー)。彼女を護る絶対の意志の現れか、主の体をタイトに締め付ける。ベアトリスから吐息がこぼれる。
ベアトリスはアルフレッドの頭部を両手で受け止めると、恭しく捧げ持つように高く掲げた。アルフレッドの顔が左右に展開、鈍色に光る兜と成った。頭にまとう。金の光が全身を疾走る。
『内功増幅回路、展開します。各部接続、問題ございません。お嬢様、着心地はいかがでしょうか』
「パーフェクトですわ、アルフレッド。さて――」
ベアトリスは両の拳を胸の前で打ち付ける。恐るべき”忌み野”の空気を伝い、戦の始まりを告げる鐘の如き音が鳴り響く。顔の下半分を、スライドしてきた装甲が覆う。
「お二人をお待たせするわけには参りませんわ。急ぎ、叩きのめして差し上げなくては」
言うが早いか、疾駆。羽のように軽く、矢のように迷い無く、影のように音もなく。金色の軌跡を描きながら間合いを潰し、瞬時にして女竜人の懐に潜り込んだ。女竜人の目が、驚愕に見開かれる。
薫風(クン・フー)の深奥たる内功を極めし者は、その身を大地のくびきから解き放ち、自在に空(くう)を駆ける。宙に舞う渡り鳥の羽と川面に漂う花びらを足がかりに、千里の大河を渡った者すらあるという。これすなわち「軽功」なり。
その軽功を、曲芸めいて宙を舞うのではなく、ただ己の身を前に進めることにのみ用いればどうなるか――
などと、知る由もない女ドラゴニュートがなし得たのは、突如眼前に迫った驚異に向けて右手の刃を突き出すことだけだった。驚愕の中、瞬時に反応してみせたのは彼女の業の冴えを示すものであろう。されど焦燥で鈍らされたその刃は、ベアトリスに軽々と見切られた。
体を右にひねり、半身で踏み込みながら躱すベアトリス。そのまま突き出された右腕を抱え込む。自らの右手を、上から下に振り下ろす。同時に左手を、下から上に跳ね上げる。テコの原理。
ぞぶり。食いちぎられたかのような音が響く。緑色の血を振りまきながら、女ドラゴニュートの腕が宙を舞う。
後の先、鰐鮫(わにざめ)。
一瞬の後、遅れてやってきた痛みに女ドラゴニュートが顔を歪めたときには、追撃の右正拳が胴に叩き込まれていた。体がくの字に曲がる。地を向く顔面に右膝。炸裂音。上半身が跳ね上がる。一呼吸での連撃の後、ベアトリスは鎖に残した左足で軽く踏み切った。そのまま数回の横回転。重さを感じさせぬ跳躍は、彼女の練気が十全である証である。ではその、十全に練られた「気」を相手に叩き込めば、どうなるか。
ベアトリスの飛び後ろ回し蹴りが、ちょうど落ちてきた右腕ごと女ドラゴニュートの顔面に突き刺さった。叩き込まれるベアトリスの「気」。頭蓋の中を荒れ狂う。
女ドラゴニュートの頭が、熟れた果実のように弾け飛んだ。
右手と頭を失った体が、後方へ吹き飛ばされる。まっすぐ後方へ。鋼の鎖を持つ、もう一体のドラゴニュートの方へ。
ドラゴニュートは握りしめていた鎖をすぐさま手放し、女竜人の死体を不器用に――だが丁寧に――受け止めた。手放された鎖は地面に落ち、耳障りな音を立てながら馬車に引きずられていく。その上に危なげなく立ったままのベアトリス。彼女の目にうつるのは、愛おしげに遺骸を抱く竜人のうつむく姿だった。
大切な存在、だったのか――そう考えた瞬間、ベアトリスの脳裏に映し出される光景。一瞬の閃光。
一面の花畑―――きらめく陽光―――白いドレス―――そしてこちらに手を差し出す、優しげな微笑みの―――
だがその光景はすぐに、血と、肉と、激しい雷鳴と、怨嗟の叫びと、そして何よりも憤怒の炎に包まれて消えた。
「ふふ」装甲の下、乾いた笑いが漏れる。
ドラゴニュートが顔を上げた。その瞳に荒れ狂う激情を渦巻かせ、轟々と吼える。女竜人の遺骸を騎乗していた巨大魔獣の背に乗せ、自らはそのまま飛び降り、大地を駆ける。
咆哮。ドラゴニュートの巨大な体躯に力が満ち、更に膨れ上がる。いつしかドラゴニュートは両手を地につき、獣の如き姿勢で駆けていた。体躯に力が、怒気が満ちていく。
咆哮が止む。そこに出現したのは、四足で駆ける緑鱗の竜。怨敵を逃すまじ、と不退転の意志を四肢に込め、”忌み野”の乾いた大地を駆け追いすがる。
ベアトリスは後方より迫る脅威を横目に見ながら、鎖を伝い馬車の屋根に戻った。鎖を右手に持ち、左手でそっとなでる。鎖が淡い金色に染まっていく。
「――なんだ、あれは」
同じ頃、おっかなびっくり手綱を握っていたヘリヤの目に、新たな脅威が映っていた。
【続く】
そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ