見出し画像

パレスチナと関係者同罪の政治力学(チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者より:RFKジュニアの大統領選の顧問を引き受けたチャールズ・アイゼンスタインに、RFKジュニアのイスラエル国家への支持を巡って非難の矛先が向けられます。この文章は単にそのような非難への反論を超えて、分断を癒すために乗り越えなければならないのが、ここに典型的に現れている「関係者同罪」、朱に交われば赤くなるのが当然という「部族主義」だと説きます。


パレスチナと関係者同罪の政治力学

チャールズ・アイゼンスタイン
2023年8月16日

なぜロバート・F・ケネディ・ジュニア(RFKジュニア)の顧問であり続けるのかという手紙を毎日のようにもらいます。イスラエルとパレスチナについて、これほど極端で一方的な見解を持っているのに。

たぶん私がユダヤ人だから、イスラエルが自国民の歴史的トラウマの薄めたバージョンを再現していることに気がつかないのだろうと考える人もいます。また、私がパレスチナ人に対する抑圧をよく知っていることを知っていて、私の誠実さを損ねただけだと思っている人もいます。

その後半は正しいと思います。私は歴史書を読み、イスラエルとパレスチナの平和活動家と交友を持ってきたので、計り知れないほど強大でますます神権化しつつあるイスラエルという国家に何十年も抑圧されてきたパレスチナの人々の絶望的な窮状をよく知っています。追放、和平の妨害、土地の強奪、活動家の投獄・脅迫・拷問、ブルドーザーによる家屋の破壊、非武装の抗議者の傷害、人権の侵害、イスラエル人1人に対してパレスチナ人数百人が殺される一方的な「戦争」、暗殺、そしてそれらを束ねるプロパガンダと嘘は、私のよく知るところです。

確かに、イスラエルはこの地域で最も専制的な国家などではありません。イランやサウジアラビアなどでは、反体制派や宗教的少数派に対する扱いはもっとひどいものです。イスラエルには称賛すべき点がたくさんあります。少なくとも多数派を占めるユダヤ人にとって、この国は強固な民主主義国家であり、多くの中産階級を抱え、科学、技術、芸術の分野で目覚ましい成果を上げています(あるいは、これまでずっとそうでした)。同じようなことは、ジム・クロウ時代(訳註:南北戦争後の人種差別法時代)のアメリカについても言えたかもしれません。アフリカ系アメリカ人やアメリカ先住民に対する恥ずべき排除を除けば、われわれアメリカもまた強固な民主主義国家だったし、ソビエト連邦よりもはるかに自由で健全な社会でした。しかし、だからといって少数者の人権が組織的に侵害されているのを許すことはできません。

パレスチナ問題におけるRFKジュニアとの意見の相違は根深いものです。なぜ私がそのような厄介な考えを持つ人物に助言をしなければならないのでしょうか? 多くの人が彼と「距離を置く」ことを求めました。正直に言えば、そうしたい気持ちに駆られます。私は正義の宣言をして、バラの香りを漂わせながら立ち去ることができます。読者は私の原則に基づいた立場を称賛してくれるでしょう。私の購読者の流失は止まり、彼らの目から見た私の信用は回復するでしょう。

しかし心の中で、私は原則的な立場など取っておらず、私がそもそもこの選挙運動に参加した使命よりも、受け入れられ承認され読者を引き留めておくことを上位に考えていたと分かっているでしょう。私がこの選挙運動に参加したのは、国家と世界の癒しに向けた転換点になるのを期待してのことです。私の実際の「原則的な立場」は、たとえ自分の評判を落とすようなことがあっても、希望が私の中で生き続け、そこへ積極的に貢献する限り、選挙運動から離れないというものです。

「私自身が関係を断ち切る」ことは実際に何の役に立つでしょうか? 私がこの選挙運動に参加することは、ケネディのイスラエルに対する立場、ひいては彼のすべての立場を暗黙のうちに支持することだと主張する人もいるかもしれません。でも教えて下さい、あなたは自分の意見すべてに賛同しない人たちとの付き合いを拒むのですか? 付き合いは支持を意味するのですか? これが世界を変える方法なのでしょうか? 意見の派閥に分かれ、完全に同調しない者には追放の覚悟を求めることが?

この関係者同罪という政治力学の水面下では、何か醜いものが動いています。これと同じ、外集団に対する非人間化が、あらゆる有害な「〜主義」や「〜恐怖症」に力を与え残虐行為として現れるのです。人種主義、ナショナリズム、外国人嫌悪、同性愛嫌悪、反ユダヤ主義、能力主義……、これらはすべて人類を2つの小集団に分割します。完全な人間と、それ以下の人間です。政治においても同じように、嘆かわしい、許しがたい、人間としての資質に欠けるのは、常に相手側の方です。それゆえ私たちには政敵を怪物のような色調で描く傾向があります。バイデン、トランプ、ケネディは敵たちから、ナルシスト、裏切り者、児童虐待者、偏屈者、陰謀論者など、社会的に受け入れがたい人物としてさまざまに描かれています。

政治に関わることのより崇高な目的は、善玉集団の一員という自己評価をすることではありません。そういう動機が政治運動に入り込むと、そのメンバーは自己反省ができなくなってしまいます。何であれ自分たちの誤りを認めることができず、内集団への所属はその集団と同じ意見を持ち表明するかどうかで決まります。間違いは悪であり、意見の相違は裏切りなのです。

だからといって、パレスチナ問題は私を選挙運動に引き込んだ問題に比べればどうでもいいということではありません。これは私が認めない主張ですが、別の意見を強調するためにあえて書いてみます。

イスラエルとパレスチナの問題は重要ではない。イスラエルと東エルサレム、ガザ、ヨルダン川西岸を合わせた人口はわずか1500万人で、そこでの出来事が過度に注目されるのを正当化するには、あまりにも小さすぎる。ケネディー氏が圧制者に味方したことは遺憾だが、その何百倍もの人々を巻き込んで米国の破滅的な政策が世界の他の場所で行われているのに比べれば、この問題は微々たるものであり、それを覆すのが彼の狙いだ。最も憂慮すべきは、ネオコンが企てるロシアや中国との最大限の対立計画で、「アメリカ新世紀」における支配を維持するため戦争を誘発するよう意図したものだ。ロシアと中国が挑発をエスカレートさせ続けているのは正気の沙汰ではない。これを本当に警戒したいなら、核戦争に勝つための外交政策確立のプロパガンダを読めばいい。(たとえばウォール・ストリート・ジャーナル紙の『米国は核戦争に勝てることを示すべき』)。これに比べたらイスラエル・パレスチナ問題は些細なことだ。

私はこの主張を信じません。その理由はこういうことです。多くの人が〈聖地〉と呼ぶこの地域は、政治的にも精神的にも大きな存在です。非合理的だが説得力のある理屈では、聖地に平和が訪れなければどこにも真の平和は訪れないと言います。そして逆に、パレスチナでアラブ人とユダヤ人の間に平和があれば、どこの誰であっても平和が不可能だとは言えないでしょう。聖地の平和、和解、癒しは世界に波及するでしょう。アジアの最西端に位置するこの地は、地球の要なのです。

ケネディの選挙スローガンの要点は『分断を癒そう』です。聖地の分断を癒すことができれば、全ての地で癒しが可能になります。

私がこの選挙運動の顧問を続けているのは大義のためにパレスチナ問題の不一致を呑み込もうと思っているからではなく、私がRFKジュニアに見る個人的資質のためであり、それは彼が考えを変えると確信させるものだからです。第一には謙虚さであり、それは彼の依存症と回復という過去から生まれたもので、それが彼に教えたのは、自分が他の誰よりも優れているわけでも劣っているわけでもないことです。謙虚さに伴うのは、耳を傾ける姿勢と、自分が正しいということに固執しない姿勢です。第二には思いやりです。彼はとても親切な男で、特に落ちこぼれた人たちを大切にします。第三は、敗者への思いやりです。彼が身をもって知っているのは、支配的な権力がいかに真実を歪曲し、被害者に責任を転嫁し、英雄を犯罪者に仕立て上げ、抗議の声を疎外することです。イスラエルとパレスチナ人の関係に彼がその同じパターンを認識するのは、時間の問題だと私は思います。

私はその瞬間をただ受動的に待っているのではありません。私は積極的にその条件を作り出そうとしています。しかし私の目標は、彼が自分の意見を私の意見と一致するように変えることではありません。目標は、彼があらゆる立場からの最善の提案に耳を傾けることです。強硬な「親イスラエル」の側には、彼はすでに精通しています[注1]。私が思い描いているのは、イスラエル批判の学者、パレスチナの平和活動家、イスラエルの平和活動家、そしておそらく平和主義のラビと彼が同席し、彼らの見解や経験を吸収する、聴き学びのセッションを持つことです。私が求めているのは意見を変えることではなく、あらゆる側の人々に心を開いて耳を傾けることです。それが真のリーダーの証です。

私がこの選挙運動に参加したのは、私の意見が候補者とチームの中心メンバーたちに強く共鳴し歓迎されたからです。私は分断を癒すこと、真実と透明性、平和、そして全体主義への傾斜を逆転させることについて話しました。相互の繋がり、コミュニティ、そして生きている地球というパラダイムについて話しました。本物のポピュリズムをかき立てることについて話しました。私は別のアメリカ、つまり「存在したかに見えたアメリカ、実現するかもしれないアメリカ」と、再び繋がることについて話しました。 1960年代初めの威信と権力の頂点から今まで、もし世界軍事支配の代わりに平和の道を追い求めていたら、アメリカは今どうなっていたでしょうか?その道を歩むのに遅すぎるということはありません。私はこのすべてを支持し、あらゆる機会を捉えて陣営のDNAに注入し続けます。たいてい私はそういうことに不器用で非効率です。これまで大きな組織に属したことはありませんでした。でもこの理想が中心チームの中に強く共鳴しなければ、私はまったく仕事ができないでしょう。私の仕事は、既存の政治文化の圧力や従来の選挙戦の反射作用に対抗して、その理想を保持することです。

さて、私に降りてきた中東和平のビジョンを説明しましょう。真の平和とは、単に争いがないことではありません。私はこの地域に真の兄弟愛が生まれる息をのむような可能性を見ていて、そこではアラブ人とイスラエル人、シーア派とスンニ派、ユダヤ教徒とイスラム教徒、キリスト教徒、スーフィ教徒、ヤジディ教徒、ゾロアスター教徒、その他あらゆる信仰と宗派が、相互に尊重し、さらには相互愛情をもって、彼らが聖地と呼ぶ土地を共に世話しながら暮らします。この可能性を達成するにはビジョンと意志の両方が必要で、それはこの時点で全ての当事者が自分たちの正義の物語に深く酔いしれているからです。そのためには、南アフリカやルワンダで開拓された真実と和解のプロセスなど、最先端の平和のテクノロジーを全面的に導入する必要があります。そのために勇気とリーダーシップが必要なのは、平和構築は常に信頼の行動から始まるからです。この地域全体のイスラム教指導者たちは、ユダヤ人を歓迎する声明を出すでしょう。「あなたがたが自身の祖先の地に住むことを歓迎します。私たちの国パレスチナにおいても歓迎します。私たちは謝罪します。あなた方の迫害に加担し、あなた方に対する憎悪を煽ってきたことを。」そして、ユダヤ人の指導者たちは、パレスチナ人がイスラエルの土地で自由に生活し、旅行することを歓迎し、数十年にわたる追放と抑圧を謝罪する声明を発表するでしょう。イスラエルはエルサレムの聖地へ巡礼するイスラム教徒に歓迎の門戸を開き、彼らをユダヤ人の平和活動家の一団がエスコートして手厚くもてなすでしょう。イスラエルとパレスチナ地域は世俗的な国家に統一され、そこでは平和と赦しの継続的な奇跡が四方八方へと広がり、いまだに宗派間の争いを続けている人々は恥じ入ることになるでしょう。イスラエルの安全保障はもはや問題ではなくなるでしょう。壁やフェンス、ドローンや暗殺、戦車や核兵器で強制する必要はありません。聖地は平和意識の発信源となり、その運命が成就するのです。

私が望むのは、絶望的なまでに理想主義的で、その素朴さゆえに政治的言説としてあまりに不適切なものを読んだ不快感の中にも、本物の可能性の細い糸が1本あるのを感じ取っていただけることです。ある元型アーキタイプの領域では、これはまさに聖地の未来なのです。不可能ではありません。それは現実です。ある意味でそれは既に存在しています。したがって、それは政策の指針となりうるものなのです。

私たちはこう問うこともできます。この可能性は私たちに何者であることを求めているのか? 私たちは何を手放せば、発言と行動を一致させることができるだろうか?

ひとつ提案させてもらえるなら、私たちが手放すべきは、関係者同罪という形で表れる部族主義そのものなのかもしれません。「誰の味方なのか?どちらの味方なのか?あなたは私たちの仲間なのか、それとも彼らの仲間なのか?」というレンズを通して全ての行動に目くじらを立てるのはやめましょう。そういう態度がこの国を引き裂こうとしているのです。そういう態度が世界を引き裂こうとしているのです。この物語の悪者は誰でしょう? 「何てことだ、チャールズは善玉の一人だと思っていたのに、ケネディは悪者だから悪者の一味なんだ。このブログの購読は解除した方が良い。そうでなければ、関係の穢れによって、私も悪者にされてしまう。」

世界に変化をもたらす方法は、「共に立つ」と「立ち向かう」の他にもあります。

私が好きなのは、私たちが誰かについて抱く物語が、その人をその通りに行動させるということです。物語が役割を作ります。誰かを救いようのない存在とする話には注意が必要です。グループ全体をそのように捉えることには特に注意が必要です。この世界は、我ら対彼らという古い筋書きに代わる新しいドラマの準備が整っています。


注1:私が「親イスラエル」をカギ括弧で囲んだのは、拡大主義と抑圧という右翼の政策が、最終的にはイスラエルの人々にも害を及ぼすからです。

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/palestine-and-the-politics-of-guilt


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?