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素晴らしきピラハ族

訳者コメント:
数や色、時間を表現することのできないピラハ語を話すピラハ族には、抽象的な概念がそもそも存在せず、文明に同化されることもなく自然と調和して暮らしている。どちらが幸せなのか分からなくなります。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.7 素晴らしきピラハ族

私がこの章の他の部分を書いてから数カ月後、10年以上にわたりピラハ族の言語と文化を研究してきた言語学者、ダニエル・エヴェレットの研究が目にとまりました[63]。ブラジルの狩猟採集民の小さな部族であるピラハ族は、先に述べたような言語的抽象化、表象芸術、数、時間に関するすべての発展に、息をのむような一貫性をもって抵抗してきました。

この部族は2世紀にわたって他のブラジル人と接触してきたにもかかわらず、なぜか言語的・文化的に極めて完全な状態を保ち、現在まで単一言語を維持しています。重要なのは、この章で説明した中の1つの分野だけでなく全ての分野において、現代の記号の文化に暗黙のうちに含まれる分断が、彼らにはほとんど現れていないということです。彼らは時間に直線性を押し付けません。数えることで特定のものを一般的なものに抽象化することはありません。代名詞によって個々の人間を一般化することは普通ありません。絵画で時間を凍結して表現することはありません。色に名前をつけて途切れのない色を個別ばらばらの有限な色に落とし込むことはありません。数を数え、把握し、コントロールするための基本である指という独立した概念をほとんど持たず、指を使って指し示すこともありません。

最も際だっているのは、ピラハ族が数を数えられないことです[64]。数を表す言葉がないだけでなく、「たくさん」「少し」「全部」といった量を表す言葉もありません。さらに驚くべきことに、彼らは数え方を学ぶことすらできないようなのです。言語聴覚士のピーター・ゴードンは、ピラハ族の熱心な協力があったにもかかわらず、8ヶ月かけても教えることができませんでした。ノックの回数を数えることができないため、一連のノックを真似ることができないのです[65]。

ピラハ語には抽象的な表現がほとんどありません。「彼女は行きたがっていると私は思います」のような、意味の埋め込みはありません(「彼女は行きたがっている」は名詞句として「〜と私は思います」に埋め込まれています)。名詞句が無いということは、言葉が現実から抽象化されず、それ自体を物として考えることはありません。文法は、単なる構文によって抽象的に意味を生成して無限に拡張できるような雛形ではありません。言葉は直接体験する対象への具体的な言及にだけ使われます。たとえば、ピラハ語には神話の類は一切出てきませんし、ピラハ族が架空の物語を語ることもありません。この抽象性の欠如は、数に関する用語が無いことの説明にもなっています。

ピラハ語には観念上の色さえ存在しません。彼らが色を識別することができ、また「血」や「土」といった言葉を修飾語として使い、色のついたものを表現することができるのは明らかですが、これらの言葉は抽象的な色を指すものではありません。ピラハ語では、たとえば「私は赤いものが好きだ」とか「ジャングルで赤いものを食べてはいけない」と言うことができません[66]。

抽象的な表現という考えでさえ、ピラハ族に説明することは不可能なようです。エヴェレットは自らの試みをこう語ります。

最初にしたように、例えば数学の授業で特定の質問に対して望ましい答えがあることを示そうとしても、それは歓迎されず、話題の変更や苛立ちを意味することになる。この例をさらに挙げれば、次のような事実を考えてみよう。ピラハ人が私の渡した紙に「物語を書く」と、それは単なる出鱈目な印である。次にその物語を私に「読み返す」のだが、それは印から読み取ったと言っている自分の一日などについて、ただ出鱈目に話すのである。彼らは紙に印をつけ、私に見えるように紙を持ちながら、出鱈目にポルトガル語の数字を言うこともある。そのような記号が正確であるべきだということを、彼らはまったく理解しておらず(記号について尋ねたり、記号を2回描くように指示したりすると、その記号が再現されることが無いのを見れば良く解る)そして、彼らの「書く」ものは私の書く印と全く同じだと考えている。[67]

抽象性は彼らの芸術にもありません。ピラハ族は、表象的な図像を描くことがありません。ときには人類学者に霊界を説明するため粗末な棒線画を描くこともありますが、それを彼らは直接体験したものだといいます。彼らは直線を引くことさえできません。エヴェレットは先の文に続けてこういいます。「しかし識字の授業では真剣に「指導」しなければピラハ人が直線を引くことさえ訓練できなかったし、さらに指導を重ねなければ後の試行でその成功を繰り返すことはできない。」直線それ自体が自然界に存在しない抽象的なものであることを考えれば、これは非常に重要なことです。さらに言えば、それは文化的、心理的に強力な意味を持つ抽象化です。最も文字通りのレベルで言えば、ピラハ族は直線的な思考をしません。

このような直線的な思考の欠如は言語にも現れ、そこに時制は無く、それも活用や時制標識といった形態統語的な意味だけではありません。出来事を過去や未来の特定の時点に言葉によって固定する方法がないのは、ピラハ語が明日や昨日、来月、去年を表す言葉を持たないからです。「3日後にここで会いましょう」、あるいは「明日ここで会いましょう」という文でさえ、ピラハ語では表現できません。ピラハ語には時を表す言葉が、昼、夜、満月、満潮、干潮、既に、今、早朝、またの日など12しかありません。いずれも時間軸を確立することはできません。したがって、ピラハ族には歴史の感覚がなく、生きた記憶の前にさかのぼる物語もなく、創造の神話もありません。「ピラハ人は、たとえば天地創造について質問すると、『すべては同じだ』と言い、つまり何も変わらない、何も生まれないという意味だ。[68]」亡くなった祖父母の名前を知らないことも多く、彼らの親族関係の用語は死者には適用されません。彼らの世界は時間を超越しています。結局のところ、過去というのは生きた記憶より前にさかのぼった時点で、単なる抽象にすぎないのです。

ピラハ族は同じように未来への予測を避け、第1章で述べたような食料貯蔵に対する無頓着や拒絶は、他の狩猟採集民とも共通しています。彼らは乾燥や塩漬けなどの食料保存法を知っていますが、物々交換のための品物を作るときにしか使いません。彼らは自分たちのために食料を蓄えず、それをエヴェレットに「私は弟の腹に肉を蓄える」と説明します。エヴェレットはこう言い換えます。「彼らは肉を必要としている人に分け与え、決して将来のために蓄えることをしない。」しかし、この記述の解釈にはもっと深いレベルも考えられます。文字通りに受け取れば、この言葉は自己の利益の違い、ひいては自己の観念の違いを示唆しています。他人を助けることは自分を助けることです。私たちは別々ではありません。

他の狩猟採集民と同じように、ピラハ族は物質的な所有物をほとんど持たず、所有するのは一時的なものばかりです。籠は1日か2日もてばよく、住居は次の嵐が来れば壊れてしまいます。彼らの物質文化は将来の安全安心の備えにならず、進歩や向上、蓄積のための備えにもなりません。

分断への最終的な拒絶は、ピラハ族が価値という抽象的な概念を形成できないことにあります。貨幣を理解できない彼らは交易を物々交換に頼っていますが、このような取引では痛々しいほど純真になる傾向があります。彼らは差し出す持ち物(ブラジルナッツ、生ゴムなど)を示し、交易商のボートの中の品物をあれこれ指さして、交易商がそれで満額だというまで続けます。しかしエヴェレットが見たのはこのような光景でした。「彼らが取引に持ち込む量と、彼らが要求する物の量との間には、ほとんど関連性がない。例えば、小袋のナッツと引き換えに硬いタバコを一巻丸ごと要求したり、大袋と引き換えに要求するのがタバコの小片だったりする。」でもピラハ族は知的な人々で、狩猟や漁労に長けており、ユーモアのセンスも高度に発達しています。

ダニエル・エヴェレットが論文で反論を繰り広げるのは、言語学で広く受け入れられている仮説で、それは「ホケットの言語の設計特徴」というものですが、人間の言語の特徴を十数個あげ、普遍的であると主張します。エヴェレットによれば、ピラハ語はこれらの特徴のうち少なくとも3つを満たしていません。ホケットの設計特徴は、現在の私たちに分断という視点があるからこそ普遍的に見えるのだと私は思います。ホケットの主張とは反対に、ピラハ語は、コミュニケーション行為から時間的・空間的に切り離された出来事を語る能力(超越性)と、文法的パターン化によって新たな意味を生み出す能力(生産性)において、著しく制約されています。これらは全て、抽象化という現実からの引き離しに対するピラハ族の抵抗から来るものです。

数から色や時間まで、ピラハ族の言語が構造的に表現できないことはたくさんあり、ピラハ族は認知が貧しく社会的に孤立した民族であるという結論が導き出されます。さらに、この言語は既知の言語の中で最も音素数が少なく、母音は3つ、子音は女性が7つ、男性が8つです。私たちはコミュニケーションを意味的なものと結びつけることに慣れているので、ピラハ族はコミュニケーションにおいて極度の貧困に陥っていると結論づけるしかありません。

そこで重要なのはエヴェレットが見たように、ピラハ族が歌、口笛、ハミングといった記号によらない音声コミュニケーションによって、話すのと同等のコミュニケーションをとっていることです。豊かな韻律も彼らの言語コミュニケーションを高めます。表象と抽象にまみれている他の世界よりも、彼らの方が〈原初の言語〉に近いということはないのでしょうか? コミュニケーションの貧困に苦しんでいるのは、彼らではなく私たちなのかもしれません。


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注:
[63] ダニエル・エヴェレット, [Everett, Daniel L.,] “Cultural Constraints on Grammar and Cognition in Pirahã: Another Look at the Design Features of Human Language” Current Anthropology, Aug-Oct 2005.Vol.46, No. 4
[64] ピーター・ゴードン [Gordon, Peter,] “Numerical Cognition without Words: Evidence from Amazonia,” Science, August 19, 2004. pp. 496-499
[65] ピーター・ゴードンの動画、コロンビア大学ウェブサイトで視聴できる。
[66] エヴェレット [Everett,] p. 628
[67] 同, p. 626
[68] 同, p. 633


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-07/


2008 Charles Eisenstein



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