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聖なるドブ川での祈り

インドほど旅人にとって魅力的な国はない。
太古の昔から続く宗教的な儀式がさも当たり前のように日常的に行われていながら、その儀式に一端の旅行者であってもかなり近い距離感でその雰囲気を体感することができるからだ。

特に、ヒンドゥー教の聖地であるバラナシではその傾向が顕著である。

ヒンドゥー教徒は死に際に差し掛かると皆、バラナシに行くそうだ。
なぜなら聖なる川、ガンジス川のふもとで火葬され、その灰をガンジス川に流されることにより、辛く苦しい輪廻から解脱できるから、とのことらしい。
バラナシでは、特にガンジス川では日夜を問わず、どこもかしこも死者に、神に、それ以外の何かに祈りを捧げる光景を見ることができる。

ガンジス川は祈りを捧げる人で溢れている、と言うと非常に神秘的かつ、荘厳な川のように聞こえるが、実際はどこからどう見てもドブ川にしか見えなかった。
茶色く、薄暗くジメジメとした下水管に溜まった水のような色をしており、生活排水、果てには生焼けや、生の遺体を川に流している時もあるので、常に何か腐ったような悪臭を放っている。
この世の汚いもの、不浄なものを全てこの川に流しているのでないかとさえ私は錯覚した。
言うなれば、’死の臭い’を放っているのだ。

そもそもこの街全体が、何か生々しい、’死の臭い’に包まれていた。
街を出歩けば修行僧であるサドゥーは骨と皮だけになってミイラのようになり、道端に倒れこんでいる。
物乞いたちは両足が壊死しており、周りにはハエが飛び交っている。
生きているのか死んでいるのかわからない人間がそこかしこに溢れており、
今日を生き抜くために目の前を通り過ぎる人たちに施しを求めていた。

そして皆、死の恐怖から逃れるように、’死の臭い’を紛らわすように、
両手を合わせて何かにすがるようにひたすら神に祈るのだ。

何度か気まぐれと、お金を分け与えないと彼らは死んでしまうのではないかという恐怖心に煽られ、彼ら彼女らにいくばくかのお金を渡したことがある。
そうすると生気のない顔で、両手を合わせて祈りを捧げるのだ。

彼ら彼女らが祈りを捧げる対象は神なのか、金なのか。

輪廻を信じていても、死ぬのは恐ろしい。
だから今日も、バラナシでは皆何かに祈りを捧げるのだろう。

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