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人が昔から大切にしているもの

人は消耗していたり、疲れたときに、自分が「疲れている」とわからないことが多い。

そうしていると、身体に影響が現れ、最後には身体からストップのサインが出てしまう。

「自分は疲れているな」と気付けることは、対策や原因の発見、究明以上に、大きな一歩だと言える。

では、何でそういったことに、気付けるか?
また、何を基準にしているか?

僕は、縄文時代や弥生時代から変わらない感情や、人が大切にしているものを、必要ない、くだらないと思っている時、あるいは何も感じない時は疲れている、と判断することにしている。

例えば食事はなんでもいい、食べたくないや、人と語らのも気が進まないし、そもそも関わりたくない。
暑さや寒さ、夕日や朝日、星空、雲の流れや天気や季節の変化、移ろいにも興味がないし、新しい土地や場所に赴くこと、新しいことが新しく何かできること、子どもの生誕を喜んだり、他者の死を慈しんだり、暗闇を恐れたり、一人が寂しいと感じたり、様々なものがある。

脈々と人類は不便や不満を解消してきた。
その中で得たものは、しなくても良い苦労は、本当に数えきれないし、感謝しかないが、同時に失ったものももちろんある。
どちらが良いという話しではなく、「その中でも変わらずにあるもの」が何かを意識すると、身体と心のバランスを取る軸になるのでは?

と思ったのだ。

その中でも僕は特に弔いの気持ちと食事(宴)を強く意識している。

弔いは、歴史の授業で彼らに弔いの形跡があると聞いて、亡くなった人に対する敬意や、忘れたくないという気持ちがあることに感動して、根源的な感情なのだなぁと思ったのを覚えている。

食事に関しても、漫画 ワンピースの宴のように、狩りに成功して、洞窟の中で、食料を分け合い、ある者が汲んできた水を飲み、ある者が今日1日のおもしろい話をし、ある者は歌い、ある者は踊り、ある者は壁画に今の宴を残したかもしれない。
語らいに疲れはて、眠り、明日は明日の風が吹く。
そんな想像をしたときに、僕はどこか微笑ましく彼らを想像してしまう。

現代では、意味がない、無駄な時間と呼ばれるものがほとんどではあるが、本当はそこで感じる感情や景色や匂いや味わいや出会いが、生きることの醍醐味で、おもしろさであり、走馬灯に出てくるシーンというのは、こういうシーンなのでは?
と思うのだ。

だからこそたまに、昔の人々がどういうふうに生きていたかを、環境が変わっても、どこが変わっていなそうかを想像することは、今を生きる僕らの変化を気付かせてくれる大切な要素だし、方法だと感じていて、時々だけど、想像するようにしている。

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