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ハラジュク・kawaii・あまのじゃく3

タバコも似合わない私にTattooがある。
梵字、トライバル、和彫り、オールドスクール

ではない


話は、ハラジュク・kawaii・あまのじゃく2のあと。

ホームシックになっていた。

ホームを捨てたのにね。
家か、、帰りたくないな…そうだ!千葉の叔父に連絡してみよう。
この時まで叔父は幼い頃から可愛がってもらった記憶と、たまに連絡が来て近況を伝えあうくらいの関係だったけど、急にあの時叔父の存在が浮かんだ。今は千葉でお店を経営している。

「あのね…東京に戻る前に、叔父さんのとこへ寄ってもいいかな?」
「いいよ、おいでよ!うちのも喜ぶし、(娘の)Mも久々じゃない?歓迎するよ。おばあちゃんもさ元気なんだよ、近くに暮らしてるんだけどね。」いつまでも話が尽きない感じだったけど、話がまとまったところで電話を切った。

暖かい沖縄をあとにし、私は寒い寒い千葉駅にいた。沖縄では暑さで携帯の画面がバグってしまう程だったのに、同じ季節のこの違いに驚いた。冬の服装がなくて千葉パルコに行き急いでオゾンロックスかどこかのパーカーを買った気がする。

駅で待つと、叔父さんの元気な声が私を呼ぶ。
「おーい!元気そうじゃないか!」と満面の笑みで恥ずかしいくらいのハグをしてくれた。

「立派な大人になっちゃって、まぁ!」そう言いながらわしゃわしゃと大型犬をあつかうムツゴロウさんのように私を撫でた。
家までの車中、家庭のことや家を出て沖縄に行ったこと、そして帰りずらいことなど全て話した。叔父は黙ってやや笑顔でうなずいて聞いていた。
「じゃあ、あれだね、うちにしばらく住めばいい。」

展開の速さに「へっ?」と、ビックリしてしまったけど、すがりたい気持ちに傾いて好意に甘えることにした。

娘のMちゃんとは何度か遊んだ記憶がある。親戚の中でも私とよく顔が似ていた。小さい頃から歌手になることを夢みていて、1人っ子も羨ましくて親の熱心なサポートも羨ましかった。話す度に順調にステップアップしている様子だった。

その日の夕食になって、叔父と叔母、娘のMちゃんと私で夕食を囲み仰々しく叔父は挨拶を始めた。
「えっとね、僕は今日がなんだか嬉しいんだ。こういう形で久々に〇〇に再会できてね。僕の兄貴の子である〇〇なんだけども、今日から一緒に生活をするということでね…」

ん?

ん?

ん?

僕の兄貴??…誰?
私の父親は東京にいますよ?

「え?叔父さん、兄貴って誰なの?」と聞くと
叔父はハッとして、しまった!やってもーた!と顔に書いてあるかの如く焦っていた。
気を取り直した様子で「○○がさ、たまにあーちゃんと電話で話しているだろう?あーちゃんは〇〇と話したあと僕に電話をくれて嬉しそうに話をしてくれるんだ。あーちゃんと話したあと、男の人に代わって話をしていただろう?その人がお前のお父さんだよ。」「参ったな!〇〇は知らなかったのか汗 あはは」

呆然だった。19歳の冬。
叔父からのまさかの発表。

男四人兄弟の長男が私の父。
初孫の私は女の子というのもあって幼い頃は皆から大変可愛がられていたんだと、手厚いフォローの昔話が続いた。
「大人の事情だけどね、別れたこととか本当のことなんか誰も知らないのだけど、〇〇は本当に大切にされていたんだよ。」
次第に、水中にいるみたいに音声がボヤけて入ってこなかった。
ぼーっとしながら、どこかで今の父親とそりが合わないことにしっくりきてホッとしてしまった。今まで知らなかったことへの軽い怒りと、、いや、怒りより恥ずかしさが強かった。

「明日からさっそくうちの店でバイトするか!な♪」
今すぐ実家にもどり真意を母の口から聞いてみたくて仕方がなかった。今会ったら間違いなく責めるし、取り乱すかもしれない。
でも、やっぱりすぐ帰りたくなかった。

それから数日は、心ここに在らず状態だった。まさに抜け殻、日に日に使い物にならない私に叔父はセコンドタオルを投げた。

「〇〇?帰るか?」
「帰ってよく話をしてみな。」

私は頷いただけだった。

近くに住むおばあちゃんに会い、挨拶をしてから帰ることにした。叔母のお母さんで、千葉のおばあちゃんと呼んでいた。そもそも叔父も千葉のおばあちゃんも親戚としか把握していなかったのだった。どんなつながりかなんて、全く。

会うなり、私に向かってヨタヨタと歩み寄ってきたおばあちゃん。
話は聞いていたようだ。
おばあちゃんはパーキンソン病らしく、普段は手を借りないと歩行は辛いはずなのに、そばにいた叔母が驚くほどのペースで私に歩み寄ると「〇〇、大きくなったんだなぁ。来てくれたのか、ありがとうありがとう」涙を溜めて「かわいそうな子だねぇ。可哀想に可哀想」涙声を震わせながらそう言って抱きしめてくれた。
不安定だけどとても力強かった。

数日間感情がどこかに行っていた私は、おばあちゃんが真っ直ぐに言った可哀想という言葉に、号泣してしまった。
今、真っ直ぐな同情の気持ちがおばあちゃんを動かしていると思うと、ちゃんと私は正真正銘に可哀想な子なんだと証明された。素直に悲しんでいいのだと許された気がした。惨めな子なんだと、自分を哀れんだ。

そのあと駅までまた叔父が送ってくれた。会話はほとんどしなかったかな?まだ泣き止んでいなかった気がする。
ロータリーに着き、扉を閉めて運転席に周りお礼を伝えた。その時に手紙を貰った。

「少しだけど、バイト代だよ。」
恐縮して戸惑う私の手にぎゅっと握り持たせてくれた。
「じゃあね、またいつでも遊びに来いよ。」
そう言うとニコっと笑った。

電車に乗り、封筒を開けると手紙も入っていた。

〇〇へ
自分で決めたこと
自分で行動したことを
決して後悔してはいけない
何故ならそれは
自分にとって教訓として残る
足跡なのだから…
人は皆、大きく小さくも、心の傷をもっていきている
けれどはそれを修正できるのは
自分の力でやるしかない
○○は人に愛されているのだから
そのことを信じ、自分の幸福の
道をこれから進んでいけばいい
〇〇おじさんもそれを
願っています
いつでも遊びに来いヨ!

お金と一緒に手紙には、叔父さんらしい言葉が並んでいた。。
読み終えて、何のお礼もできなかった数日間を悔やんでいた。

ひょんなきっかけで、自分のルーツが明らかになると、次は実の父に会わなくてはと思った。興奮状態に近い、これを逃すと時間が経つと動かないだろう自分自身を知っていたから。
あーちゃんに連絡をすると一連の出来事がもう伝わっていたようだった。あーちゃんは自宅の電話で取り次ぐより、実の父と携帯でやり取りしてみなさい。と番号を知らせてくれた。

会ってみたいと言うと、実の父は喜んでくれて割とすぐ会うことに。
あーちゃんの住む家に上がるとそっちの部屋にいるわよ、と教えてくれた。

実父とはよく顔が似ていた。
照れくさいほどだ。
あまりにも似ていて、嗚呼親子なんだなと感心していた。しばらくは他愛のない話や若い頃DJをしていた時に集めたレコードのコレクションを見せてもらったりしていた。テクノやディスコクラシックの趣味が見事に同じだった。
〇〇は僕の娘だから、結婚せずにいつか会える日を夢見ていたんだ。〇〇から会いたいと言ってくれるなんて嬉しかったよ。と。

私がいるから再婚しなかった的に聞こえて虫のいい話?と思えて当時の私にはちょっと重かった。鼻は高いけど、団子っ鼻は祖父じゃなく実父を受け継いだのだな…
奇しくもその日が父の日だったのは翌日に気づいた。

ルーツを知ることは意味があったと思う。漠然とした自分は何者か。みたいなものはなくなる。
2か月前は、流れ着いた先にこんなびっくりが待っていようとは想像もできなかった。得てして自分探しが出来てしまった。


東京に帰ると母が駅まで車で迎えに来てくれて乗り込むと、開口一番「パパと離婚したよ。」

は!?呆れた。
「あっ、そう。」しか言葉が出なかった。
家に入り父が玄関に来て「どこいっていたんだ」と、2、3日家をあけたくらいのテンションで聞かれた。
「ちょっとね。」で会話は終わった。

小さな疑問が解決して、気持ちに整理がついて同時に養女にしてくれた義父にもだんだんと余裕と感謝を持って接することが出来るようになっていた。


しばらくしてあの古着屋に行き着いた頃。
見渡せばほとんどのスタッフがタトゥーが入っているという環境に身を置いていた私は、このようなことを忘れはしないと、そして自分にタトゥーを入れるといったこれ以上の馬鹿げた出来事がないようにという願掛けの意味で彫ってもらった。その会社で、完全に感覚は麻痺していた。正直なにかのタイミングで入れるのを狙っていたんだと思う。そこまで意味を持たせないと彫る決意をすることが出来なかったという話…。
太めのアウトラインに鮮やかな色合いのニュースクール調にするつもりが、ステッカーのような出来に…。

いつかはこれを恥じるように、後悔できるくらいにはなっていたいという意味でもあった。
割と早い段階でその時は来たけれども。



今、かな〜り後悔している。


強く、強く、かなり。

ただ、そのデザインの元ネタのアーティストに見てもらうことがあり「かわいいじゃん」と言われたのが唯一の救い。

でも、やっぱ後悔している。



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