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「そしる」って漢字でこうやって書くんだ、へぇ~ ――『推し、燃ゆ』

「謗る」。
「そしらぬ」の原型かと思い、調べてみる。自分の無知を恥じるばかりである。
謗る=「人のことを非難する」という意味らしい。
人は、どうでもいいことに対していちいち怒ったり悲しんだりしない。
謗るのは、気にかけるからか。みんな今日も愚痴に噂に、忙しい。気にかけずには居られない。
匿名世界で自由気ままに誹謗中傷、無心で殴る。能動態。
ふとしたミスから不必要に叩かれ、燃やされる。受動態。

『推し、燃ゆ』
2時間ほどで読み終わったが、最初の部分を読んでいるときは、ヒヤヒヤした。
目が台詞の上を悉くすべっていく。口語体が、読めない。
普段人としゃべるときに、その内容を脳内で反芻できていないことを実感した。直らないクセ。

序盤の文体からは予想もつかなかったが、その後の台詞は驚くほどに自然に読めた。
「 」の中にある言葉がしっかりと頭の中で「鳴る」感覚。少し安心した。
そして「 」の中の言葉が外に飛び出した途端に、現実の声よりも近くで聞こえる、あの感覚。わかる?

文章の大部分が心情の描写に割かれる。それが冗長に感じられる。感じられてしまう、この心の乏しさよ。
オタクはすごいぞ。何故そこまでひとつのことにのめり込めるのか。
推し?なんだそれは。
「わからない。」
しかし最近自分に約束してしまった。口を衝いて出そうになる「わからない」を必ず一度は飲み込む、と。
まずは聞く。そして聞き返す。永遠の対話の始まり。

それにしても推しへの執着には驚かされる。
その出発点の探求は徒労に終わりそうなのでしないでおく。しかしその執着の結果としての諸行為は、一体何なのか。
応援か。支援か。愛か。贈与か。寄付か。
寄付だったらもうちょっと違うところに目を向けてほしい、なんてわがままな考えが首をもたげる。

違う。これは依存の話である。
どこかの誰か(複数のどこかの誰か)が「依存するものが少なければ少ないほど、それを失ったときのダメージは大きい」と言っていた。ここまでは何となくわかる。
しかし、意外にもそこに加えられるのは「依存するものが多ければ多いほどいい」という説明である。

依存という言葉への偏見はなかなかに根深い。
依存というのは、単に自制心の不足により欲求のコントロールを失うということではない。依存先が極端に少ないときに、それがあまりにも目立ってしまうためにアウト・オブ・コントロール的に見えてしまうのだ(実際にそうなっているケースも少なくないが)。
依存先が増えていくことで、「そのどれに依存しているかがわからない状態になること」を自立と呼ぶ。らしい。
推しだけが心の拠り所だった主人公は、どこへ向かうのか。

僕の心の拠り所はどこだろう。推しと呼べるようなものには出会ったこともない。
「そんな寂しい人生に、拠り所はあるのだろうか。」
冗談半分で考えていた。
冗談のつもりだったが、段々と自分の冷笑的な部分が顔を出す。
「つまんな」「どうでもいい」「俺は聴かない」
これではいつまでも自分の意見の依拠するところがないじゃないか。
そもそもそういう性格を隠したくて、勉強をすることでごまかしているのかもしれない。

それでも勉強は楽しい。
小恥ずかしい言い方だが、勉強をすると自分が強くなったような、そういう感覚が得られる。
そしてこの感覚は決して僕に特有のものではないと、最近知った。というか、そう教えてくれる人がいた。
自分を形作ってくれるものに、縋りつく。そうやって正気を保つ。

主人公は、推しを「記録」に残すことに執着する。あくまで記録から得られる解釈を発信する。テクスト論的。
「記憶」は不安定で信じられないというふうにも読めたが。
記録そのものが自分を構成し、解釈そのものも記録の中から立ち現れる。
骨の髄まで、推しの記録。推しと=(イコール)になるまで推し続ける。言い過ぎか。

気に入ったフレーズ。
「推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。」
「唐突だった。大袋のなかに入った個包装のチョコを食べていって、いま食べたそれが最後の一個だったよ、と言われるみたいに、死が知らされる。」

推し、燃ゆ。
「ゆ」、中動態。燃えるということが人を場として起こって、そのプロセスがその人に影響を与える。
死んだ人を燃やす文化の中に生きている。
人は中動態的に骨へと変わっていく。なんてね。

――2021.4.4 Sun. 3:20

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