だれでもジョーカーになれる時代に。『ジョーカーになる』とは、どういうことか?なにが、ひとを『ジョーカーにする』のか?
ハロウィンの日に、映画「ジョーカー」の主人公のコスプレをして、電車内での大量殺人に挑んだ、ある24歳がいた。
逮捕されたのは住所・職業不詳の服部恭太容疑者(24)。調べに対し容疑を認め、「今年6月ごろに仕事で失敗し、友人関係もうまくいかず、死にたかった。自分では死ねないので、2人以上殺して死刑になりたかった」などと話している。被害者らとはいずれも面識はなかったとみられる。
ぼくは4000人に奢られてきた浮浪者(24)であり、かつ、「前科あり」のひとに多く会ってきた一人でもあるので、今回の事件に関わらず、あらゆる「行き場のない殺意」について、思うことがある。
ぼくに奢れるひと
・フォロワー5000人以上(Twitter以外も可)
・前科あり(ちゃんとしたヤツ)
・文系修士(小難しいヤツ)
・博士課程 在籍or修了(なんでもOK)
・障害あり(珍しいやつだけ)
・レアな職業(総人口5000人以下目安)
・2万円くれる人(学生は1万円。学割対応)
しかも、(ちゃんとしたヤツ)に会っている。
これを読んでいるキミが今想像したより、結構、ちゃんとしているぞ!
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人には人の地獄がある。
大前提として、ぼくは「犯人」を必要以上に小さく見せたり、大きく見せたりすることを嫌っている。そういう「形式美コンテンツ」に安く救われたいひとは、早急に退場を願う。
犯人をワイドーショーで追及すれば世界から絶望がなくなるのならば、小田急線でも握手会でも老人ホームでも、ナイフは踊っていない。
(8月に発生した)小田急線の刺傷事件を参考にした。
人には人の地獄があり、その大きさはリプ欄で競えるものでもないし、いいねの数で決まるものでも、刑罰の重さで決めるものでもない。それは絶対的な存在として、異なった力学を持った宇宙だ。他のだれにも測ることはできない。すべての絶望には、無限の深さがある。
だから、ぼくはいつも「犯人」を矮小化することで、いづれ必ずやってくる模倣犯の登場から「責任逃れ」をするメディア、それを消費する連中は、正しいけれど嫌いだ。いや、正しいから嫌いだ。
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『世界は、俺を愛していない。だから、世界が愛するものを破壊しよう。あいつらは、愛されてズルいし、俺を愛さない世界には、復讐したいから。』
世界はべつに、だれも愛さないのだけど。だって、どうせみんな死ぬし、死んだら全部おなじだし。
でも、そんな絶望を直視するのは厳しいから、ひとは「安い救い」を求めるんだと思う。復讐という手段は、まさにその典型だ。
ぼくは、世界に向けた、いや、あらゆる復讐は「安い救い」だと思う。
無限の深さを持った絶望には不釣り合いの、安い救いだと思う。
絶望の人が安く救われることを、ぼくは良く思わない。だからぼくは、『安く救われた人』を軽蔑する。
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仕事で失敗し、友人関係もうまくいかず、死にたい。でも、自分では死ねない。だから、死刑になりたい。
無限の深さのある固有の絶望も、言葉にすれば陳腐なものになる。100回と聞いたセリフだし、実際ぼくは、こういうことを言う人間と五万と会ってきた。もちろん、こんなこともある。
そんなことしても、この絶望からは救われない。ちゃんと絶望すると、死んでも殺しても殺されても、そんな安い救いでは足りないことに気がついてしまう。だからこそ、意識を失いたくなる。
だから、ぼくは絶望する人を尊敬する。絶望への理解を深めていく人を尊敬するし、ぼくはそんな人間が好きだ。自分の絶望を、安くしない人が好きだ。
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被害を受けた方の絶望にも敬意を示しながら、それでも、ぼくは「加害者の存在しない世界」への絶望を直視できる人と話がしたいと思う。
ひとは常に「イマジナリー・加害者」を設定することで、あらゆる「天災」から生じた環境のねじれに納得を与えて生きてきた。
だから、みんなが「加害者が欲しい」ということは十分に理解している。でも、それは『安い救い』だ。
未知のウイルスが流行って知人が死ねば、誰かのせいにしたくなる。誰かを加害者にすれば、その感情は「復讐心」という名前が与えられて、行き場のなさを克服するからだ。
老人の車に轢かれたら、無差別テロの現場でナイフで刺されたら。加害者は、もっとつくりやすいだろう。でも、ほんとうに加害者なんて存在するのだろうか。ある条件をもって「存在する」とあなたが断言するならば、その条件をもって「加害者でない人間」なんて、存在するのだろうか。
だれが始めた物語なんだろうか。そんなことがわかる人間はいないし、その「加害者のわからない、あるいは、いない」ことの絶望は、それがわかったところで消え去ることはないんだとも思う。見えなくなったとしたら、それは行き場のない絶望に、ただ行き場が与えられただけだ。その絶望はまた、誰かが引き継ぐことになる。
『ジョーカーになる』とは、その行き場のない絶望を引き継いで、また別の誰かを絶望の行き場にすることに過ぎない。この行き交う絶望の器が、安く救われる誘惑に駆られたとき、ひとはジョーカーになる。
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絶望はなくならないし、安い救いを求めナイフを振るう人間も消えることはないだろう。それでもぼくは、絶望する人を尊敬する。
べつに説教がしたいわけじゃないよ。ただ、ぼくはこれから安く救われようとしている人が、安く救われることをやめて、ちゃんと一緒に絶望してくれたら嬉しいと思う。
24歳の、ある同士へ。お前の絶望は、どこにも消えていない。見知らぬ誰かにナイフを振るったくらいで、なくなる絶望じゃないだろう。だからこそ、お前は絶望したんだろう。死んだって、殺したって、その絶望はなくならない。
もしも叶うなら、お前がこれから、それでも生き残って、また絶望を繰り返しながら、いつか絶望を笑えるときまで、俺たちと共に生きていける世界が訪れることを、ぼくは望んでいる。
死なないでほしいなァ。
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※まだ書き足りないし、かなり脱線するので『絶望について』は、もうちょいこっちに書いた。すべての絶望を笑おう、という話です。