伊藤若冲「群魚図」とお殿様の絵具 ~プルシアンブルーの衝撃~
こんにちは。
肥前歴史研究家(自称)の”ひとみ”と申します。
皆様は「武雄鍋島家洋学関係資料」をご存知でしょうか。
平成26年に国の重要文化財に指定された洋学関係の資料が佐賀県武雄市の歴史資料館に保存されています。
今回は武雄鍋島家洋学関係資料にある絵具の話を書きたいと思います。
武雄市とは
武雄市とは、佐賀県西部の、長崎県との県境にある人口約47,000人の町です。江戸時代は佐賀藩の武雄邑(領)で、藩主の「親類同格」の位置にある武雄鍋島家が領主をつとめ、佐賀本藩の筆頭家老を務める一方で領内での大幅な自治権を認められていました。
*武雄市の位置関係はこちらになります。
「武雄鍋島家洋学関係資料」とは
江戸時代末期、鍋島茂義(寛政12年/1800~文久2年/1862)というお殿様が武雄の邑主となりました。22歳の若さで佐賀藩の筆頭家老となるくらい優秀な人物で、32歳の時に西洋との貿易港であった長崎の警備の責任者を任されます。その頃から砲術を始めとした西洋の最新の科学技術(軍事学、航海術、火術、化学、医学、植物学等)を次々と導入し、現在武雄市には当時最新式であったモルチール砲(大砲)、銃、地球儀、顕微鏡、ガラス、蘭書等、輸入された西洋の品々が残っています。
また茂義公は絵が得意で、高価な絵の具も持っていました。「皆春齋御絵具」として200種類近くの岩絵の具が現在も残っており、その中に「プルシアンブルー」「ウルトラマリンブルー」という輸入された青色の合成絵具があります。江戸時代の絵具が残っているのは全国的にも例がないそうです。(*「皆春齋」は茂義公の号。)
これら西洋の品々は貿易港、長崎で買い付けられており、「長崎方控」という取引記録帳などと併せて2,224点の資料が「武雄鍋島家洋学関係資料」として重要文化財に指定されているそうです。
プルシアンブルーと若冲
ところでプルシアンブルーとは?
日本への輸入は延亨4年(1747)に初めて確認されているそうですが(武雄鍋島家洋学関係資料HPより)、日本での最初の使用例は明和3年(1766)頃に伊藤若冲が描いた「動植綵絵」中の「群魚図(鯛)」と言われています。
絵の左下端に描かれているルリハタにプルシアンブルーが使われているそうです。
*画像がないのでXの「美術ファン@世界の名画」のpostを貼ります。
当時の輸入絵具は大変高価なものでしたが、京都の裕福な青物問屋の若旦那だった若冲だからこそ、使うことができたのでしょう。
先にご紹介した武雄鍋島家洋学関係資料にあるプルシアンブルーの絵具は、2019年に福島県で開催された伊藤若冲展の際に上の「群魚図(鯛)」と一緒に展示され、好評を博したそうです。
ベロ藍と浮世絵
その後、プルシアンブルーの顔料は1830年頃から大量に輸入されるようになりました。この「ベロ藍」と呼ばれた青い顔料はさかんに浮世絵に使われるようになり、葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」等の名作を生みだしました。
今日「北斎ブルー」「広重ブルー」と呼ばれる鮮やかなブルーはベロ藍=プルシアンブルーの顔料あってのことですね。
おわりに
以上の記事は灯火さんの企画【#灯火ArtWeek】に合わせ、ちょうど拝聴した武雄鍋島家洋学関係資料に関する講演で伊藤若冲の作品とリンクする話があったので「歴史とアートの融合記事」の試みとして書いてみました。
これを機に武雄鍋島家洋学関係資料について知っていただけると大変嬉しく思います。
また、私は「プルシアンブルー」と聞くとどうしても「はげし~い 雨が降~る・・♬」というささやくような歌声、安全地帯の『プルシアンブルーの肖像』という歌が頭の中で流れて仕方ありませんので(笑)副題はそれをもじって「プルシアンブルーの衝撃」とつけさせていただきましたことをここで告白しておきます。
*youtubeより安全地帯『プルシアンブルーの肖像』
では、最後までお読みいただきましてありがとうございました。
*この記事は、令和6年11月16日㈯に長崎歴史文化博物館で開催された講演会「路をたどって~陸の道、水の道、そして蘭学の来た道~」(講師:武雄市図書館・歴史資料館 古川総一氏)を参照にさせていただきました。
*武雄鍋島家洋学関係資料の絵具に関しては、以下の武雄市歴史資料館HPの「主な資料の紹介」中「絵具(薄青・青・濃青・濃紺)」をご参照下さい。(右側の「▶」マークをクリックすると以下のページが出ます。)
*記事のカバー写真は「みんなのフォトギャラリー」より武雄市図書館の写真を使わせていただきました。こちらの図書館の中に歴史資料館が併設されていますので、ご興味ある方はぜひお訪ねください。