【さが戦国武将隊結成(勝手に)応援企画】嬉野忍者について①
佐賀県嬉野市には忍者村がありますが、嬉野には3人の忍者(田原安右衛門良重、弁慶夢想、古賀源太夫)が実在したことが史料調査により判明し、専門家からも認定されています。
2018年に嬉野市で開催された第2回国際忍者学会でも発表されました。
その佐賀県において、この度、3人の忍者も含めた「さが戦国武将隊」が結成されたそうです。しかも、龍造寺隆信役と御付の武将足軽役はオーディションで決定されるとか。
そこで
「さが戦国武将隊結成(勝手に)応援企画」
として、まずは嬉野にいた3人の忍者を紹介したいと思います。
(註:この記事は嬉野忍者調査等の研究発表を拝読し纏めたもので、私のオリジナル研究ではありません。末尾に参考文献等を明示。)
ー第1回 田原安右衛門良重の巻ー
田原安右衛門良重(寛永18年(1641)~正徳元年(1711))
佐賀藩の支藩である蓮池藩の細作として、島原藩内で諜報活動を行った忍者。「細作」とは忍者のことです。
『蓮池藩日誌』に以下の記載があります。
蓮池藩とは、寛永16年(1639)に佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂の5男・直澄を藩主として成立した佐賀藩の支藩。領地は佐賀、神埼、藤津、杵島、松浦5郡の内79ヶ村5万2千石余で、本拠は佐賀市蓮池の蓮池城。現在の嬉野市の広域を領しており、領内には古来より河川港として栄えた塩田津があり、長崎街道が通る“人と物と情報が行き交う”交通の要所でした。
田原安右衛門は細作(=忍者)として「嶋原騒擾」を探るために直澄公から島原へ派遣されましたが、才覚があり、役人として塩田の頭人(=長官)まで至ったそうです。
ここで位置関係を確認します。
当時の島原藩主は高力左近こと高力隆長(慶長10年(1605)~延宝4年(1677)/高長とも)。島原藩高力氏の2代目です。
父、高力忠房は島原・天草一揆(寛永16年/1639)で松倉氏が改易された後、遠江浜松藩主3万石から4万石に加増され、島原藩主となります。一揆で荒廃した領内の復興に尽力し、他領からの移民の受け入れや寺社の再興などを行い「名君」とも呼ばれた人物です。
しかし、明暦元年(1655)に藩主となった次代の隆長は藩政を顧みず、これを強く諫めた家老の志賀玄蕃(甚三郎)を成敗したともいわれています。近年の研究で隆長は熱心な漢籍のコレクターであったことがわかっており、私見ですが、高価な漢籍の収集のために重税を課すこともあったのかもしれません・・。寛文7年(1667)、幕府が巡見使(江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使)を島原に派遣した際に、領民が過重な年貢をかけられていることを巡見使に訴え出ており、幕府は再調査の後、同年2月に隆長を改易し、陸奥国仙台藩(現・宮城県仙台市)へ配流しました。
田原安右衛門はまさしくこの高力隆長の騒動を探るために派遣されたのでした。
以上、田原安右衛門良重の巻、最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
次回は弁慶夢想を取り上げますので、どうぞお楽しみに!
<参考文献>
『そろそろ本当の忍者の話をしよう』(2018.9/山田雄司監修/㈱ギャンビット)
『忘却の日本史 第15号』より「肥前の戦国 第1回 佐賀の忍者・山伏・天狗」佐賀戦国研究会 深川直也著(2018.7/㈱ドリームキングダム) 『島原城まるわかりブック』(2024.3/吉岡慈文監修/㈱長崎文献社)
*「嬉野忍者調査報告会」「第2回国際忍者学会」「特別出張講演 ここまで分かった佐賀の忍者史」のyoutube動画も参考にさせていただきました。
*さが戦国武将隊のHPはこちら。オーディション情報もアリ!
*佐賀県公式観光サイト「あそぼーさが」はこちら。
*佐賀元祖忍者村 肥前夢街道のHPはこちら。