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『人間の名において』政治的理論からつくられた文学のくだらなさについて

 福田はこの論文で、一九三〇年前後の日本のプロレタリア文学運動が犯した過誤に焦点を当てる。

当時ひとびとはプロレタリア文学に関連したむなしい議論をくりかえしていたという。それらの議論のむなしさの主な原因は、「ブルジョア文学」乃至は「芸術派」の反撃の矛先が相手の構えた盾に向いていたことによるという。

その盾とは、プロレタリア文学理論という名の磨き抜かれた完全な防備であった。そのため反撃は総じて遠慮がちになり、弁解めいたものに終始してしまっていた。反撃にうしろめたさがつきまとっていたのは、相手の理論の土俵上で議論をしていたからである。しかし、問題の本質は理論の正否ではないはずであると福田は言う。

「ぼくたちの問題にしなければならぬのは、相手の正体そのものであつて、その盾ではない。」

『人間の名において』福田恆存全集第一巻

例外的に唯一、小林秀雄だけはそのことを見抜いており、相手の正体そのものに攻撃をしかけていたと福田は当時を振り返る。

ともかく改めて真に問われなければならないのは、プロレタリア作家の正体である。結論から言うと、プロレタリア作家とは畢竟、自我喪失の結果、既成の世界観と理論に自己救済の拠り所を求めたひとびとである。

「プロレタリア作家たちをして『正しい世界観』の獲得と理論的な純粋さの追求とへいちづにおもむかしめたものはなんであつたか。それは、当時のひとびとの眼にはそれと映じた新しい発想のためではなく、近代日本文学の努力の方向でありその結末であった自我喪失そのものにほかならなかつた。」

『人間の名において』福田恆存全集第一巻

自我喪失者という意味において、当時のプロレタリア作家は一見敵対して見えていた「芸術派」や自然主義作家とまったく同じ地盤に立っていた。両者の差は、後者があくまで自己に固執し続けたのに対して、前者はいとも容易に自己を乗り越え、与えられた世界観に逃避したという点にあるにすぎない。

世界観や理論を通して現実を眺める態度からこぼれ落ちていくものこそは、なまの現実である。人間的ななまの生活感情である。

「いまプロレタリア文学の作品を読みなほしてみてまづ最初に僕たちの気づくことは、それらが一定の世界観のうへに立ちその方向に沿つて作りあげられてゐるにもかかはらず、その作品の登場人物の正義感と情熱とを支へてゐる世界観がいかやうにして形づくられ、当時の現実からどのやうな過程を経て帰結されたのかといふ大事な点が、つねにむざうさに処理されてゐる事実である。」

『人間の名において』福田恆存全集第一巻

福田は言う。
彼らの作品には「日常生活において接する隣人に対して素朴に動く人間的感情」が欠如していると。しかし「個人の生活といふ心理的現実の錘をもたずに、たんなる世界観によつて社会機構を裁くといふことは、すでに作家の態度ではない」。つまり「その点においてプロレタリア作家は文学を政治にすりかえへてしまつたのである」。

これは自然主義作家が政治の場で解決すべき問題を文学の場に持ち込み、政治と文学の明確な境界線を引き損なったことと同様に誤りである。なぜなら福田の文学観にとっては、政治的な世界観で文学をつくること(プロレタリア文学)も、政治が解決すべき問題を文学で扱うこと(自然主義文学)もどちらも誤りだからである。

福田によると、プロレタリア作家は理論や世界観を持って、無知蒙昧な民衆を指導し啓蒙することに自己のヘロイムズ(heroism)の充足を求めたにすぎない。

「自己解体期にあたつて個人の心理的な境界線を失ひ、その不安に堪へなかつたプロレタリア作家がヘロイズムをもつて自己の支柱としたのは当然であつた。」

『人間の名において』福田恆存全集第一巻

結果としてプロレタリア文学は、「インテリゲンツィアの否定とプロレタリアートの自尊と自覚とを謳ひながら、あくまでインテリゲンツィアの文学であり、そのかげに民衆は完全に置き忘れられて」しまったのである。

「今日プロレタリア文学を読むものをしてまづ反発せしめることはその倫理の欠如といふ事実にほかあるまい。」

『人間の名において』福田恆存全集第一巻

民衆のエゴイズムを鞭打つ人間を支えていたものがヘロイズムという屈折したエゴイズムでしかなかったこと —— そして本人たちがそのことに無自覚であったこと —— そこに福田は倫理の欠如を嗅ぎつける。

これこそプロレタリア文学に対する福田の反感の主な因由であるように思う。

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