見出し画像

『文学と戦争責任』あるのは文学者としての責任

まず冒頭の引用から始める。

「ぼくたちは無意識のうちに感じとつてゐることがらを意識にのぼせ、これをさらに追究するためにことばを用ゐる。が、このさいいかなることばに頼るかによつて、すでに問題の所在がきまり、その方向も動かしがたいものとなる。(中略) したがつてぼくたちが周囲の心理的、社会的なさまざまの事象を語るとき、いやがうへにも心せねばならぬのは、このことばの選択にほかならない。」

『文学と戦争責任』福田恆存全集第一巻

いかなる言葉を選択するかで問題の所在が決定される。そう前置きをしてから、福田は「文学者の戦争責任」という言葉について論じ始める。福田曰く、それは明らかに言葉の濫用である。そんなものはどこにも存在しないからだ。

福田は言う。仮に、戦時中に国民に対して宣伝的文章を筆にした作家に非難を加えるとするならば、詰問すべきは「文学者の戦争責任」ではなく「文学者としての責任」であると。

「戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たちのゐたことは事実であり、かれらに対してぼくたちは憎悪と軽蔑とをもつて酬いた。が、すくなくともぼくに関するかぎり、この憎悪と軽蔑とをただちに戦争責任といふやうなことばにすりかへようとはおもはぬ。その狂態がいかに常軌を逸してゐようとも、またじじつ、敗戦の責任を負ふべきものであつたにもせよ、ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任があつたからではなく、文学者として完全に無資格だつたからにほかならない。」

『文学と戦争責任』福田恆存全集第一巻

福田は言う。彼らの非は「人間を愛し、人間を見ることのできなかつた不明」にあると。その一点にのみあると。彼らは強権に押された結果、「国民のひとりひとりがその生活を守らうとしてあへいでゐた虫けらのやうにあはれな人間の姿」を見落とし、「傷ついた獣やうにおのれのエゴイズムをもてあましてゐた国民のいぢらしい心情」を見逃した。それは彼らが、文学者としての責任を果たさなかったことを意味している。

「戦争の世界史的必然性における悪を見ぬけなかつたといふ理由によつて、いや、それを悪と知りつつ支配階級に加担したといふ理由によつて、文学者の戦争責任が問はれてゐるが、それはなにも文学者にかぎられない。またこれを批判するものも文学者である必要はない。それは純然たる政治問題であり、社会問題である。こと文学に関するかぎり、かれらの非は人間を愛し、人間を見ることのできなかつた不明に帰せられねばなるまい。」

『文学と戦争責任』福田恆存全集第一巻

福田は言う。「当時の指導者のかかげる理想の虚偽を指摘することはかならずしも文学者の眼を必要としない。しかし、その理想の鞭に打たれ、傷ついた獣のやうにおのれのエゴイズムをもてあましてゐた国民のいぢらしい心情は、もしこれを作家が見のがしてしまつたなら、いつたいだれがその委曲に眼をとどかしてくれようか。」(『文学と戦争責任』福田恆存全集第一巻)

表現する術を知らぬ心情に寄り添い、それに言葉で形を与えることが文学者の仕事だとするならば、問われるべき文学者の責任はその成否において他にはない。


・世界意識と国家意識の矛盾対立について

福田は文中で、自身が戦時中にもっとも苦しんだことがらについて述べている。少し長いがその箇所を引用する。福田恆存という人間の理解のために重要な箇所だと私には思われるからである。

「とにかく事実は、国民一般が戦ひに狂奔し、その一部に見られた反戦気分も結局はたんなる個人的な不平不満にすぎなかつた。しかしぼくはそれがたんなる不平不満であつたからといつて否定しようといふのではない。むしろそれを無視したことに政治の貧困を見てゐる。が、この個人的不平不満をば、自覚せる政治意識にすりかへることは断じて許されない。そのやうな器用なまねをするのは民衆それ自体ではけつしてない。知識階級は自分自身の心理を始末するのにかうした無意識的な混同をやりかねないのである。ぼく自身が戦争中に苦しんだのもひとへにそのことであつた。戦争を否定するイデオロギーと個人的生活を破壊してゆく戦争への不平と、ぼくはぼく自身のうちのこの二つの要素にあくまで同席を許すまいとした。それはまたぼくのうちの世界意識と国家意識とのあひだの矛盾対立でもあつた。」

『文学と戦争責任』福田恆存全集第一巻

福田のうちにあった「世界意識と国家意識とのあひだの矛盾対立」とはどういう意味合いのものだろうか。

個人的生活を破壊していく現象としての戦争が眼前に存在している。それに対して人間ならば必ず生理的な苦痛、不平不満を感じるはず。しかし福田はそこで、その生理的な不平不満をそのまま政治意識(イデオロギー)に転換することを自分自身に許さない。戦争の終結を望むのは当然だろう。が、それが一足飛びに反戦のイデオロギーに向かうのを警戒するのは、一体なぜか。

戦争のない世界をもちろん望む。しかし自国が亡くなってしまう結果になるとしたならば、、、理想と現実。交わることのない平行線。決して解かれることのない矛盾対立。

ともかく、その矛盾対立に葛藤しつつも安易な解決を与えない点に、何より私は福田恆存という人間を感じてやまない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?