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『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

 この論文は昭和二十四年に発表された。

「クリティカル=危機的=批評的といへば、いままで批評家がいくたびとなく自己宣伝的にくりかへしてきた常套的解説の枕にすぎぬものとならうが、とはいへ、このエティモロジー的類縁関係を見のがしてしまつては、やはりみれんがのこる。いつそ常套的に、ぼくもここから発想しようと覚悟をきめたのである。」

『批評精神について』福田恆存全集第二巻

このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。

「ところで、批評精神とは—— もつともすぐれた批評精神とは—— おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことであること、いふまでもない。」

『批評精神について』福田恆存全集第二巻

他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精神というものである。

そのうえでこの批評精神にはある特徴がある。それは、もし現実が安定しているとするならば、自らの身体を傾斜させてまで、平面の傾斜を錯覚しようと努めてやまないということだ。

かれの精神はなぜそこまでして、傾斜を、すなわち不安定を求めるのかという問いに対しては、循環論法的になるが、それが批評精神そもそもの機能だからだ、としか答えようがない。

この点に関して、福田は下のように言う。

「といふことは、かれは効果にたいするよりも、機能にたいして忠実だといふことにならぬだらうか。機能は自己の性能の伸張以外になんの目的ももたぬ。それにとつて効果的であるといふことは、他の物体ないしは現実のうへにいかなる効果の刻印を押しえたかにあるのではなく、自己の性能を極限にまで展開しえたといふ手ごたへそのもののうちにある。」

『批評精神について』福田恆存全集第二巻

批評精神が忠実たらんとするのこの機能を、福田は、「個人の誠実」と言い換えて、話を進めていく。だがこの個人の誠実というものほど、難しく捉え難く、それゆえに今日、軽視されているものも見あたらない。

誠実に生きるということ。それは並外れてすぐれたバランス感覚を要すること、いうまでもない。まず、個人の誠実ということと、個人への誠実ということは全く異なるものだ。我意や恣意、つまり自分勝手は、個人への誠実ではあるかもしれないが、決して個人の誠実ではない。

このように個人の誠実は、安直な我意や恣意を否定し、現状の社会を否定し、あらゆる現実を却下し、つねに不安定を求めて立ち止まることを知らない。まさにすぐれた批評精神そのものの生き方である。

それは言うなれば、否定を繰り返しながら、その先に理想をめざして歩み続ける「極北の精神」なのだ。

「もちろん、ぼくは批評精神の極北を考へてゐるのだ。(中略)政治批評にせよ、芸術批評にせよ、もともと批評とは極北の精神にほかならない。極北には現実のひとかけらも存在しない—— が、極北をめざすことそのことが、どうして人間的現実の一機能でないことがあらうか。もしぼくたちのうちにこの機能の活動が中止してしまつたならば、地球は永遠に亜熱帯的現実のうちに閉ぢこめられたままに終るであらう。」

『批評精神について』福田恆存全集第二巻

極北とは、要するに理想のことである。そこには「現実のひとかけらも存在しない」。現実的な理想や、現実的な夢ということばは、矛盾したことばである。なぜなら理想とは、本来、決して手の届かないもののことを指すのだから。

しかしだからこそ、それは理想なのであり、だからこそ、理想は尊いのである。反対に、安易に現実に合わせて理想を引き下げるような行為は、それこそ批評精神の欠乏以外の何物でもないだろう。

言うまでもないが、福田は終始、批評家の精神についてではなく、批評の精神について話している。それは我々の内にもあるし、あらねばならぬということだろう。

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