見出し画像

「なんでできないの」というまなざし

「資格を取りなさい」



取り柄もない、やりたいこともない私は母に勧められた作業療法士養成校へ進学した。母の言葉は、私が私の人生について考える機会を奪った。



勉強ができる方ではなかった。中学生の頃、クラスで後ろから3番目の成績をとったこともある。学校の先生は熱心に指導してくれたが、理解できない私に対して「なんでできないの」と問うてきた。その時のまなざしを私は忘れることができない。



作業療法士は「指導」「指示」「介入」という言葉をよく使っていた。その言葉の背景には「できない」を「できる」ようにするという意味が内包されている。
臨床実習で急性期、回復期リハビリテーション病棟へ行った時、理学療法士の男性が、腕を組んで患者の歩行を観察していた。患者に向けられたそのまなざしは、中学生の頃に先生が私に向けたものと同じであった。



この社会で「できない」は許されない。そしてセラピストらは、「できない」ものを一生懸命治そうとする。



そして、セラピストもまた、自身が「できない」ことに対する恐怖心がある。特に作業療法は分かりづらい、数字で結果を示しづらい中で、アイデンティティを保つために心身機能訓練士へと変容していく。



リハビリテーションが、社会の規範へ戻そうとする力として発揮されている。患者はそれに適応できない、したくないというということは許してもらえない。



病気をされた方々は、今までできていたことが、ある日突然できなくなる。それを嘆き、何もかもが辛くなってしまうことは想像に難くない。



しかし、医療の急性期化が進むなかで、その余白すらも許してもらえない。そして、リハビリを拒否すれば、また、あのまなざしを向けられる。さらに、アセスメントという主観の押し付け(そのような場面がある)が、人を病人へと変容させていく。



セラピストの目の前に居るのは、なのか病気なのか…。
できない、ことはいけないことなのか…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?