エッセイは3割増しで書かれている、という説。
誰かのエッセイを読んだ後、
気分が上がるどころか、
逆に沈んだことはないだろうか。
ああこの人は自分が持っていないものを沢山持っているなあ、こんなすごいの自分には到底書けない、ネタにできるような人生経験がない、面白くおかしく感動的に語れるようなセンスや文章力もない、誰かの悩みや社会課題を解決するような知識もアイデアもない、軸となる思想もない、自分には何もない・・・・・・そんなふうに思ったこと、ないだろうか。
隣のエッセイは青く見えるんだよね。
でも、そのエッセイ、めちゃんこ
盛られているかもしれないよ。
ちょっと好き程度のものを、ないと生きていけないくらい大好きと表現してるかもしれない 。悪役的存在の登場人物に半沢直樹もびっくりするような過剰な演技をさせているかもしれない。その舞台はエーゲ海じゃなくて熱海かもしれない。一、二回会っただけの有名人をマブダチと言っているかもしれない。
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エッセイを読んでいると、ごくたまに自分のひねくれた部分がひょっこり顔を出すことがある。
「これ、内容がエモくて描写も洗練されてるけど、現実の3割増しくらいで脚色されてるんちゃうん? 」
もちろん、等身大の自分で事実をありのまま書いている人だっているだろうけれど、“エッセイ仕様の自分”を引き出しから引っ張り出してきて、舞台設定や台詞をエモーショナルに演出したり、感情や意見や思想を誇張して書いたりして、文章を背伸びさせている人も結構いる気がする。おもしろエピソードを“盛って”話す、ひな壇芸人みたいな。
え、それって、実はみんなやってる暗黙の了解的なやつ? どうなの。
とはいえ、エッセイがどれだけ脚色されていようが、それが事実に基づいていて、やや大袈裟に書かれているだけなら、それは嘘ではない。ある意味、“盛る”は、ひとつの「技術」と言える。
文章は読まれてなんぼのところもある。エッセイをコンテンツとして考えれば、読み手の印象に残るための多少の味つけはあって当然だ。実話に基づいた映画「ボヘミアンラプソディ」や「ロケットマン」も脚色が入りまくっているはずだ。
「エッセイ」とは、書き手が、過去の出来事の“再現VTR”の監督兼役者になって、ちょっと大袈裟に芝居する文章のことなのかもしれない。
【エッセイ】
自由な形式で、気軽に自分の意見などを述べた散文。随筆。随想。特殊の主題に関する試論。小論。
エッセイでは、文章の構造として、そこで述べられる意見に至ったきっかけや過去の出来事に触れられることが多い。「こんなことがあった。だからこう思う」「こんなことをした。そしてこう思った」という語られ方だ。
話の流れ上、こういう台詞を言ったことにしといた方がしっくりくるな。よし、この人にはこの台詞を言わせよう。こんな感じで、編集者と小説家のやりとりみたいなのを一人二役でやってたりとか。
でもね、個人的に、こういうのは信じたくない。
街を歩いていて、偶然初恋(片思い)の人と遭遇して、お互いたまたま一人で、お互いたまたま時間があって、一緒にお洒落カフェに入って、懐かしい話をして盛り上がって意気投合して、それから連絡をとりあうようになって、二人の距離がどんどん近づいていって、その初恋の相手から「付き合おう」と言われた時、でもやっぱり何かが違うなと思って、高校時代にときめいていたあのピュアな私はもうどこにもいないことに気づいて、過去をなぞるのはやめようと思って、今の私はあれからずいぶん遠くまで歩いてきたのだと感傷に浸って、時間は絶えず前に進んでいる、私も絶えず前に進んでいるのだ・・・・・・みたいなの。
こういう“きれいすぎる”エッセイ(私の主観入りまくってますが)は、宮崎駿の引退宣言と同じくらい信じられない。「街で初恋の人に偶然会って立ち話した」くらいの話を、上記例文のように盛りまくって書いているかもしれないから、そう簡単には信じないぞ。ふっ。
3割を超えたら、それはもう別ジャンル。妄想エッセイ、私小説に近い感じ。(3割という数字に全く根拠はない)
でも、「街で偶然初恋の人を見かけて相手に気づかれず全く何も起こらなかった」状態から、そこまで飛躍させて書けたのだとしたら、逆に大したものだなあと思う。
その妄想演出にリアリティがあればあるほど、書き手の才能を感じずにはいられない。真相は書き手以外わからんけれど、そこまで妄想演出するんなら、小説書けばええやん。
え、そんなヤツおらん? ・・・・・・すまん。
こんなひねくれたことばかり考えていると、エッセイが楽しめない。深読みしすぎて読書気分が台無しになるよね。・・・・・・すまん。
そもそも、人類は“盛る”生き物だ。
シークレットブーツ、ヌーブラ、写真加工アプリ、植毛・・・・・・。盛ることは悪いことじゃない。身長169cmなら170cmって言ってもいいんだ。むしろ、かわいいな〜って思ったりもするよ。
書くに値しないような平凡なネタであったとしても、盛っちゃえばいいじゃないか。当たり前のことを大袈裟に書けばいいじゃないか。ハリウッドザコシショーみたいに誇張すればいいじゃないか(あれはやりすぎ)。
盛りすぎはよくないと思うけど、「吉牛で大盛食べた」を「吉牛で特盛食べた」にするくらいの盛り加減なら誰も何も言わない。そう、キラキラおもしろ感動エモエモお洒落エッセイなんて、ちょいと盛っちゃえば書けちゃうかもよ。
書きながら自分を励ましてるみたいで、オラ、元気が湧いてきたぞ。
つまり、何が言いたいのかというと、なにごとも盛りすぎはよくないけれどちょっとくらいなら盛った方が面白くなるってことと、エッセイを書きながら自分と向き合うことから逃げない人たちをリスペクトしてるってことだ。
過去や自分を多少盛って言語化することで、今の自分の人生がイキイキと輝きはじめることだってある。エッセイは過去を変える魔法かもしれないよ。
何も持ってないなら、
何か盛ってみようぜ。
(↑ダジャレが言いたかっただけ)
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