イタリアン

小説『オスカルな女たち』11

第 3 章 『 原 点 』・・・3


   《 ふりだし 》


すごろくが好きだった。だれが一番にあがってもゲームはそこで終わらずに、必ず最後の人があがるまでやり続ける。途中どんなに不利になっても、だれかがふりだしに戻れば逆転できるし、自分がふりだしに戻れば、また1からやり直しができる。だれも見捨てることもなく、やり直しがきいて、必ず全員があがれるすごろくが一番優しいゲームだと思っていた。

「人生ゲームみたいに、相手をなん度も変えられたら楽しいかしら?」
不動産王を夫に持ち、5人の子宝に恵まれ、なに不自由なく暮らしている玲(あきら)がポツリとつぶやいた。だが今の生活を変えたい…と思うことがあるのかと言えばそういうわけではなく、ただ単に退屈が嫌いなだけの戯れの言葉だ。
「途中で相手代えられたっけ?」
物静かなグラフィックデザイナーに一目惚れされ、求められて結婚したものの、愛されない夜を過ごしている織瀬(おりせ)は、〈ティラミス〉をちまちまとつつきながら愁いを帯びた溜息をつく。本気で相手を変えたいと思っているわけではなかったが、近頃その心の隙間に入り込もうとする存在に気持ちをかき乱されているのも事実。
「離婚は簡単にできたよねえ…それもルーレット回さないとできないんだっけ?」
しあわせとはなんぞや…と自問自答している間もなく、顔だけの男に「幸せにしてやる」と半ば押し付けられた愛情を拒めず、しあわせを夢見て結婚したものの結局別居状態にあるつかさは、天高くグラスを傾け、赤ワインを口に流し込みながら続いた。ここ数年は離別を決意し〈離婚届〉を夫に突きつけるも、毎度「サイン」と言っては夫に破り捨てられている。
「毎日ルーレット回してその日の行き先決めて…。今日は一回休み…明日も一回休み…ずーっと…一回、じゃ済まないのか?」
自分は一番結婚とは無縁のところにいると思っていた矢先に妊娠、母親の執念とともに強引に押し切られた結婚をし、その意味を見いだせないまますれ違い生活の末離婚した真実(まこと)は、豪快にビールグラスを空けていく。そして今また、その終わったはずの家庭の事情に振り回され悩まされている。
「ずっと止まってるわけにはいかないのよ、ボードの上じゃないんだから」
口元を拭き、ウェイターを呼ぶ玲。
「食後のお飲み物は?」
「あたしカフェインレスで」
と、つかさが言い、
「あたしはハーブティーで」
と、織瀬が続いた。
「マコは?」
「ビール…」
「まだ飲むの?」
「なに…?」
呆れ顔の玲に、鋭い視線を返す真実に「仕方ないわね…」と頷いた。

これは数日前、最近オープンしたばかりのフレンチレストラン『Aimable(エマーブル)』での一幕。玲の夫が手掛けた物件で「挨拶がてら様子を見てきてほしい」と頼まれての来店だった。バーでの会話の続きで出端からナーバスだった真実には、どうやら「元カレ」「思春期」という言葉がその日のNGワードだったらしく、元夫の佑介に結婚の話が持ち上がっているらしいこと、それが「デキ婚」で娘に話し難い旨を語った後のことだった。

「離婚したら…ふりだしに戻って、新鮮な気持ちでスタートできるかしら」
人生ゲームとはよく言ったもので、世知辛い世の中には尤もらしい皮肉だと最近つくづく思う。そんなつかさは、定期的に「旦那」という立場の空き巣もどきが家の中を荒らしまわって行くことにほとほとうんざりしていた。
「気持ちの問題じゃないかしら? 別れたからって新鮮さが戻るとは思えないわね」
そう玲は冷静に返す。
確かに、環境が変わっても自分が変わらなければ新鮮さは生まれないのかもしれない。新鮮さどころか、新しく始めるにはそれ相応の覚悟や勇気が必要になるのだろう。
「でもつかさの場合、それほど生活に変わりないんじゃないの? すでに旦那は家にいないんだから」
真実の元夫の職業は警察官だ。しかも刑事課勤務の佑介の生活は職務上規則正しくというわけにはいかなかった。対する真実自身も結婚当初は研修医で昼夜問わず仕事に追われていたため、生活のリズムがまったく噛み合わず、夫婦らしい生活はなかったに等しい。よって今のつかさの生活とそれほど変わりがなかったのだ…と言いたいらしい。
「でもさ、人生ゲームみたいに、結婚して同じ車に乗って同じ方向に進んでいても、気持ちまで同じってわけではないのかもね…」
ティラミスをひと掬いして、織瀬が持ちかける。
それを受けてつかさは、
「うちはハンドルがふたつあるのかもねぇ…」
そう言って笑った。
「よそ見してるってこと?」
左右についているのかと問う玲に、
「いや、むしろ背中合わせなんじゃないか…」
前後についているのだと答える真実。
だが織瀬は、
「そうじゃなくて、見えないところで乗り換えてるかもしれないってこと。もしくは、途中下車? 一回休みの間にさ」
「それが元彼なら安全ぱいってか…」
「どうも、そこ、引っかかってるみたいだけど、なんなの? マコ」
「べつに~」
「べつにって感じじゃないわよね?」
「また始めるの~?」
勘弁してよと、嘆くつかさ。
「つかさ。思春期の子育ては大変だった?」
唐突に真実が別の話題を投げつけた。
「大変って、どの辺が?」
「年頃の、取り扱い」
「…年頃の子育てで気にしたこと?…って言っても、あたし子どもいないけど…」
「3人の弟、立派に育て上げたでしょうよ」
言いながら手元の〈フランボワーズのムース〉にさくさくスプーンを差し込む真実。食事も最後のデセール(デザート)に差し掛かり、話題は現役の思春期について…に流れが変わった。
「それにしたって、よ。男の子と女の子じゃ全然違うじゃない? がさつで、汗臭くて、生意気で…。心理戦より肉弾戦。少なくともうちは、生理痛でイライラなんてことなかったもの」
なにを聞きたいの?…と訝しむ。
「生意気なのは一緒だ。…これ、おかわりできる?」
ムースを3口で平らげる真実。
「あたしのあげる…」
つかさが自分の分のムースを差し出して、
「なにかあった?」
運ばれてきたエスプレッソに手を添える。
「真実はなにに困ってるの? 玲だって子育て中じゃない?」
ティラミスを半分食べたところで「良ければ…」と真実に差し出す織瀬。
「サンキュ。…どうも違うんだよねえ」
「なにが違うの?」
「うち、母子家庭じゃん? 家業は産婦人科…で、微妙な年頃ときたら?」
頬杖をついたままチラリと玲を見上げる。
「ははーん。そういうこと…」
「玲には解るんだ…」
ハーブティーを口につける織瀬。
「マコ、自分のこと考えたら対処できるじゃない。経験者でしょ?」
腕組して答える玲。幼馴染として、そんな時期の真実を見てきたということだろうか。
「美古都(みこと)にあたしと同じことができると思う?」
「ま…無理ね」
「難しいの?」
不思議顔のつかさ。
「母子家庭で、産婦人科が?」
跡継ぎ問題かと思案する織瀬だが。
「難しいっていうか…。男の子にからかわれてるってことでしょう? 家業を。…赤ちゃんはどこから出てくるんだーとか、どうやって子ども作るんだーって話。マコはそんなこと言ってくる男の子を片っ端から張り倒してたけどねぇ…。あのおとなしい美古都に、それは無理よね」
「あ~。なるほど~」
声を裏返して真実を見る織瀬。
「なにがなるほどだ」
「大人しい子には無理ってことでしょ?」
笑いをこらえきれないつかさ。
「あたしだっておとなしかったの。この小さな胸が、傷ついたよー」
掌で胸を叩いて見せる真実に、
「でも殴ったんでしょー」
楽しそうに織瀬が言うと、
「ぐーでね」
すかさず握りこぶしで玲が突っ込む。
「ほら、パーじゃないあたり…」
やっぱり…と顔を見合わせて笑い合う織瀬とつかさ。
「なんとでも言え…」
「でもそういうことなのね…。弟くんたちが小さかったから、プレ子育てができてたってことなのよね、つかさは…」
子育て談議をつかさに振る真実に合点がいかなかった玲は、そういうことか…とひとり納得して言った。
「育てたつもりはないんだけどね…」
苦笑いするつかさに、
「結局は同じことよ」
と、エスプレッソを口に運ぶ玲。
「それなんだけどさ…。つかさは、まったく子作りする気はなかったの?」
「あたし?」
「そう。ずっと聞いてみたかったんだよね。織瀬ほどの子作り願望はなくてもさ、結婚したからには考えたことくらいあるでしょ?」
そう真実に投げかけられ、つかさは吹き出すようにして小さく笑った。
「そういうこと、か…」
「産婦人科らしい見解ね」
静かに玲も賛同する。
「まあ…一応…」
「そうねぇ…こないだ玲に聞かれてよくよく考えてみたんだけどね。逆に結婚当初はまったく考えてなかったのよ。まだ、郷(さと)が家にいたしね…。でも、結婚するならって当然のように仕事を辞めて、そう言えばなんで辞めたんだっけ?…って改めて考えたときに、世の中の主婦は子育てのために家にいるのかって思って…」
「なに、それ。ひと事みたい」
そう織瀬に言われ、その通りだと答える。
「結婚したら子どもができるっていう概念があたしの中になかったのね…。なかったっていうより、結婚するにあたっておおよその女性が思い浮かべるであろう『赤ちゃんが欲しい』って気持ちや『この人の子どもを産みたい』っていう感情が、吾郎に対して一切なかったってことなのよ」
「子どもが嫌いってわけじゃないよね?」
確かに、世の女性がみな母になりたいわけではない。ひょっとしてつかさも、そういう考えなのかと投げかける真実。
「そんなことはないよ。普通に好きだと思う。弟たちの世話でこりごりなんてことも考えたことなかったしね」
「そうなんだ…」
「だから、吾郎じゃなかったら違ったのかな?…って思ったの」
そこでバーでの話に戻るわけだ…と。「今と違う生活を送っていたのかもしれない」と。
「そういうこと…。それで元カレか…」
「へぇ~。こないだから、だいぶ自分の立ち位置がはっきりしてきたみたいね」
「うん。玲のおかげかも」
出産祝いの帰り道、妙にすっきりしていたことを思い出すつかさ。
「吾郎さんはどうだったの? 吾郎さんもつかさと同じだったわけ? 子どものこと考えたことなかったのかな…。吾郎さんが、仕事を辞めろって言ったわけじゃないの?」
つかさ夫婦の間に子どもがいない事情と、自分の都合が違うことは理解しつつも、ついムキになってしまう。ここでも織瀬は、また人の考え方の違いを目の当たりにする。〈結婚=子ども〉ではない生活を選ぶ夫婦もあるのだと。
「実はね、一度だけあるのよ。『欲しいのか』って言われたことが…」
「へえ、言われたんだ。でも、『欲しいのか』…?」
面白くなってきた、とばかりにビールグラスをテーブルに置く真実。
「そこも上からでしょ? 『欲しいのか』って、なに? なんで『子ども作ろう』って言わないの? でも、まさか向こうから打診してくるとは思ってなかったから…」
「打診ね…それで?」
「待ったわよ、しばらく」
「待った?」
「そう。またいつもの思いつきかもしれないし、思いつきに付き合ってやきもきさせられるのもしゃくじゃない? それに…その気があるのかどうかも判らないから、期限をつけたの」
「子作りに期限? つかさらしい…」
合理的ね…と感心する玲。
「だって…。その気もないのにだらだら引き延ばされるのも嫌だったし、そのことだけで関わるのも、ねぇ…」
子作りのためだけに夜を過ごすのもおかしなものだ。少なくともつかさはそう思っている。だが織瀬の手前、そう強くは言えなかった。
「その代わりあたしはきっちりやったわよ、基礎体温計を買ってね。毎日規則正しい生活をして、毎朝同じ時間に起きて、体温測って、排卵日の報告をしたわ」
「やるべきことはやったと…」
「そこは徹底してね」
「で?」
「来なかったわよ、まったく」
「こなかった?…って、なかったってこと?」
子作りをするような行為が致されなかったのかと、織瀬がたたみかける。
「そう。子どもが『欲しいのか』って言っておきながら、アクションを起こさなかった。すべてお膳立てしてやったにも拘らず、よ。バカにされてると思ったわ」
言いながらつかさは当時のことを思い返すが、そこまで準備して待っていたという自分の中に、果たして「その気」があったのだろうかと思い返してみる。
「欲しくなかったのかも…? もともと寝室が別だったから…」
ついでのような独り言に、
「結婚当初から?」
不思議そうに織瀬が問う。
「そう。郷がいたこともあるけど、もともと一緒にするつもりはなかったみたい…」
(他にも理由はあるけど…)
吾郎は自分から男の昂ぶりを主張することの出来ない体質だった。性欲がないわけではなかったが、常に触れられていないと熱を感じられない、こちらからのスキンシップがスイッチだったのだ。始めのうちは自分を「待っていてくれている」「欲している」などと大事にされているような気でいたのだが、そのうちその受け身が「なんてプライドの高い男なんだろう」と吾郎の性格も性癖もすべてが上からなのだと感じるようになった。しかし、そう気づいてしまうと逆に気が楽だったことも本音だ。
「吾郎は潔癖症だから…」
だが今、吾郎の性癖をここで話すのは違うと思った。
「へぇ~」
〈結婚=子ども〉という概念が当たり前じゃないように〈夫婦=同じ寝室〉という概念もまた当たり前ではないのだと打ち消された。
「…来ないような気もしてたんだけどね。…だから余計にこっちも落ち度がないよう徹底したんだけど。あたしは『やることはやったわ』ってアピール? 吾郎も、自分から言い出したんだから、もしかしたら…ってちょっとは期待してたんだけどね」
そう、自分から言い出したのだ。自分からつかさの部屋のドアをノックしてくれるものだと、期待していた。
(結局、なんだったんだろう…)
自分がノックすべきだったのか。だが・・・・、
〈なんだ、きたのか…〉
ある時、そう投げやりな言葉を吐き捨てられたように感じた。
それが新婚だったのなら照れくささからくる愛情の裏返しとも受け取れたのだろうが、プライドなのだと判ってからはそんな甘い囁きには決して感じられなかったことを思い出した。
〈別に、そういうつもりじゃない…〉
その日以来、つかさは、吾郎の部屋のドアを自分からノックすることはなくなった。
日々の生活に疑問を抱いたのもあの頃だっただろうか…。
少し遠い目をして見せるつかさに、
「言い出しっぺは動かなかったわけだ」
真実が目の前の現実に引き戻した。
「そ。…でも、そういうあたしたちってなんだか戦ってるみたいじゃない? 常に駆け引きで。意地の張り合いというか、勝ち負けにこだわってるというか」
当時気づかなかった感情が、今になってぼんやりと浮きあがってくるようだった。
「まあ、ケンカ腰な気はするね」
ビールグラスを手に取る真実。
「でしょ? 子作りっていうよりも、受け入れ体制万全、戦闘準備かかれ~って感じ」
「確かに」
「夫婦とか、恋愛に、勝負を挑んでいるっていうかさ。そういうのって一番いらない感情じゃない? 恋愛とか夫婦生活の間に。もっと穏やかで、お互いを尊重し合うっていうか、そういう思いやりがまったくなかったわね。お互い。むしろ、あたしの方は殺気立ってたのかもしれない…こっちはこれだけしてやった、そっちは?って。…そんな女、抱けないわよね」
上から目線は、吾郎だけじゃなかったのかもしれない。今更ながらにつかさはそう思い直す。
「つかさは…それでよかったの?」
そんなつかさに静かに問う織瀬。
「つかさは、子ども欲しくなかった?」
「おりちゃん…。そうだね、少なくとも…吾郎の子どもが欲しいとは思ってなかった」
(多分、それがあたしたち夫婦の答え…)
つかさは静かに瞬きし、すっかり冷めてしまったカフェインレスのエスプレッソを飲みくだした。
「なんで急に『子ども』なんて言ったんだろうね、旦那。その気があったかどうかは別として、なにか思うところがあったんだろうに…。聞いてみた?」
そう尋ねる真実に、つかさは小さく首を振る。
「聞いても答えは返ってこないと思う…。無駄なのよ、そういう疑問は」
「なんでよ?」
「答えはないから」
当たり前のように告げる。
「答えがない? 答えてくれない? わけわからん」
「例えば…。夫婦の間になにかトラブルがあって、妻が泣いたとする。そしたら…、どうする? 玲の旦那様なら…?」
「急になに?」
「まぁいいから…さ」
「うち? うちは…多分『あなたのせいよ!』って喚き散らすでしょうね…。だから、主人はひたすら謝るんじゃないかしら…」
一瞬〈赤い部屋〉を思い浮かべたが、すぐに打ち消す。だが言いながらなぜか、自分がとてもわがままな嫁だと主張してしまったような焦燥に駆られる玲だったが、大概トラブルを持ち込むのは夫の方であることを思い「そんなことはない」と気を取り直す。
「そうね。それで玲のうちは丸く収まる。…おりちゃんは?」
視線を織瀬に流す。
「うちだったら…。あたしが一方的にしゃべりまくって、幸(ゆき)は…あいづちを打つだけかな。でも多分、ひとことふたことなにか言ってくるだろうから、それで満足させられちゃう感じ、かな…いつもなら」
上目遣いにつかさを見る。
「今は…違うってこと?」
「今っていうか。内容によると思う。幸に…話ができる内容なら」
そう言って織瀬は、今ある状況を洗いざらい恥も外聞もなくしゃべり倒すことができたなら、幸はあいづちを打ってひとことふたこと気の済む言葉を言ってくれるだろうかと考えた。だが、それができないから今の満たされない自分がいるのだと再認識する。それと同時に、自分は思いのほか幸に本音を話したことがないのではないか…と自分を疑った。
「そっか…。まこちゃんは? 仮に前の旦那様との間にそういうことがあったら…」
「あいつは、あたしが泣いてることすら気づかないと思うよ。そんでもって、時過ぎてから『言ってくれればよかったのに』って言う。その気もないのに。思い付きで」
思い起こせば離婚の時もそうだった。気の利かない男ではあるが、その分面倒なところもなかったことを真実は思い出していた。もう少しぐずぐず言わせてくれていたら、あるいはなにか言ってくれていたら?…だが、馬鹿正直で人を疑わない、素直だからこそ「結婚相手ができた」とご丁寧に報告してこれるのだと思い直す。
そんな3人の様子を見て、つかさは、
「…ね。それぞれ、なんとなく相手の行動が想像つくでしょ? そしてこちらの様子を気にかけてくれてる…。でも、あたしが泣いてたら吾郎は…」
〈…は? なに泣いてんの?〉
〈俺のせい? 俺がなにしたわけ?〉
〈それって、泣くほどのことなの?〉
「…って言うのよ、おそらくね。そう言われたら、なにも言えなくない?」
共感を求めても、いまいち3人には伝わらないようだった。
「えっと…夫婦のトラブル、って設定よね?」
聞き間違えたかしら?…と玲が問う。
「そこなの。そこにはいつも『俺』しかいなくて、その『俺』は常に正しいから、あたしが〈泣く〉理由がないって結論に達するの…」
「はぁ…? めんどくせ」
そういうものか…と真実が頷く。
「でしょ。まず、あたしに意見を求めることはなかったわ。つまりは、そういう会話ができない。言葉のキャッチボールっていうのが成り立たないのよね。『なんで泣いてるのか』とか、あたしが『どうしたいのか』っていう、根本的なところを追及しようとはしない。彼にとっては知る必要もないから」
「亭主関白ってわけ…」
「どうだろ。自分じゃそうは思ってないけどね。…子どもって言ったって、子どもを作ることに意味を持たせるのではなく、できなかった結果だけが彼には重要だったのよ」
「会話ができない…ね」
「なんか、悲しいね…」
夫婦生活があっても、夫婦の気持ちが同じ方向を向いていなければ、欲しい結果を得たとしてもお互いが満足するわけではないし、欲しい答えが同じであっても、やはりそれは意味を成さない。
「今となっては言葉を間違えたとしか思えないわ。子ども…じゃなくて、もっと違ったことを言っていたら…あるいは…」
今思えばあれは、吾郎の最大のアクションだったのかもしれない。
〈子どもが欲しい…〉
〈はい、できました〉
と、明快な流れだったならうまくいっていたのかもしれない。
もちろん言葉遊びのようにそう簡単に成し得ることではないが、もっと単純な夫婦の共同作業をひとつでも達成できていたなら、今とは違った生活が切り開けたのかもしれないと今さらながらに思うのだった。
「…あたしたち、言い争いをしたことがないの。もちろん争いたいわけではないし、それがいいことだとも思わない。でも、そういうことも時には必要、大事なんだって今は思う」
離婚を決意してからは別として、結婚当初は言い争いになるような問題も話題もなかった。そればかりか夫婦らしい会話がなにひとつ思い出せないのだ。
「つくづく夫婦って面倒ね…」
そう言って玲は伝票を持ち上げ「チェック」と小さくウェイターに目配せした。

それから4日後の火曜日、つかさは飛び込みで入った美容室の鏡の前に座っていた。
「初めてですよね…」
肩にタオルを掛けながらアシスタントの若い青年が言う。
「えぇ…いつものところだと気持ちが揺らいじゃうから…」
それはこちらの都合ではあったが、つかさは鏡越しに決意を新たに力強く答えた。
「どうしていつもここに座るとこう落ち込むのかしら? 美容院の鏡って、お客にちっとも優しくないよね…」
言いながら鏡越しに青年に目を移し、話しかける。
「なんですか、それ…」
クロスを掛けながらアシスタントが苦笑いする。
「ほら、この鏡の前に座ると顔が大きく見えるし、なにも隠し事できないって感じ」
鏡の中の自分と目を合わせ、独り言のようにつぶやく。
「そんなことないですよ…お客様を美しく変身させてくれる魔法の鏡です」
ふふ…っと声にならない微笑で青年はつかさの両肩に手を添え、鏡の中の自分と顔を並べて言った。
(うわぁ、恥ずかしげもなく言ってくれるねぇ…。ひょっとしてナルシスト…?)
一瞬青年の顔を避けるが、
「うまいこと言うわね…?」
社交辞令…と受け応える。
(でも、)
これはリップサービスのひとつだろうか…大の大人に「魔法の鏡」とは、ファストフード店で笑顔が「¥0」ってやつと一緒だなとふと考える。
「少々お待ちください」
青年は、軽く肩を叩き去っていく。
「はい」
(でも、そうだといいな…)
つかさが誕生日を迎えたあの日、玲がフレンチレストランでの食事の際に「カラーリングが2ヶ月もたない」と言っていた。幸い白髪とは縁のないつかさは今までカラーリングをしたことはなかったが、いつも鏡の前に座るときは直前まで「ショートにする!」と心に決めて美容室にやってきていた。
(いよいよ、よ…)
今日こそそれを予定ではなく計画として実行に移すことにしたのだ。
「本当に、よろしいんですか?」
たまには駅前の美容室で優雅に〈ご指名カット〉をしてみようかと思い立ち、ネットの口コミだけを頼りにここへやって来た。
「ええ。やっちゃってください…」
思い立ったが吉日というではないか。きっと今日がその日なのだ。
「なんか、責任重大だなぁ…」
苦笑いしながら髪をつかみ上げる美容師は、この店で一番の指名率のベテランだ。自分と同い年くらいか少し年下だろうか、口調とは裏腹に自信に満ちた活き活きとした笑顔が鏡に映っている。
「充分、責任感じてください…っ」
思い切ったはいいが、失敗は許されない。
「解りました…」
もったいないとか、後悔すると言われ、結局「いつも通り」を貫いてきたつかさだったが、それほどの執着があったわけではないことを思い出した。
「髪型はどのようにいたしましょう?」
「髪型…」
(…考えてなかった)
静かに目を向けたその先に、鏡の下部に申し訳程度に設置されたテーブルがある。雑誌が扇のように重ねられていて、一番上の雑誌には自信に満ち溢れた余裕の笑顔の女優がこちらを見て微笑んでいた。
「…石田ゆり子で」
上目遣いに美容師を見て、その女優の名を告げた。
「かしこまりました…」
今は、美容師が雑誌の表紙を見て小さく笑ったことなど気に留めてはいられない。とにかく、アクションを起こすのだ。
(さぁ、魔法にかかってみましょう…)
一息ついて、つかさはゆっくりと瞬きをした。
「いきますね」
これは禊だ。ふりだしに戻るための、いわゆる覚悟の儀式。
「はい」
つかさは静かに目を閉じ、鈍くザリザリと切り離されていくトレードマークともいえる自分の分身、長い黒髪との別れを受け入れた。

ひとつ気づいたことには、自分が長い髪でいたことに一切特別な理由などはなく、学生時代も結婚前もただ単に美容院代を節約するためだけだったことを思い出した。短くすれば伸びた時に煩わしくなるだろうし、パーマやカラーリングをすれば頻繁に手入れをしなくてはならない。当時のつかさはそんなことをしている時間があるくらいならバイトをして稼ぎたかったし、家事であったり、自身の勉強であったり、弟たちの世話にも追われていた。次第に自分に気を使わなくなるのは必然だった。
そして、極めつけは吾郎だった。
結婚を機に「髪型を変えてみようと思う…」と吾郎に持ち掛けると「は? なんで」と、いつもの調子で拒まれたのがきっかけだった。「そのまま伸ばせばいいじゃん…」との言葉に、吾郎はロングヘアーが好みなのだと解釈し、カットすることを諦めたのだ。
もう吾郎に気を遣う必要はない。決別する意味でもこれは必要な儀式なのだと自分を奮い立たせるつかさだった。そしてつかさは、心の中のサイコロを振り、
 
ふ、り、だ、し、に、も、ど、る・・・・。












まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します