スペアリブ

小説『オスカルな女たち』25

第 7 章 『 冒 険 』・・・1


     《 治りにくい傷 》


「もえもえ~」
「おりり~ん」
ひさしぶり
駅前にも関わらず高く腕を振りあげながら、大きな声でふたりの言葉が重なったところで顔を見合わせて笑った。
「やだ、また痩せたんじゃない?」
一歩目を弾いて、上から下までなめるように見る。
「舞台が終わったばかりだからね、初日から3キロ前後の差があって当たり前よ」
「そんなに! 羨ましい~」
全国を回るのに3ヶ月を要する長丁場で、すっかりご無沙汰だった親友との久しぶりの対面は、いつも以上に織瀬(おりせ)を驚かせた。舞台前に会ったときには肩にかかる程度だった髪も、更にスタイリッシュに切りそろえ、アシンメトリーにした前髪から覗く目ははつらつとしてとてもまぶしかった。
「来週から次の稽古が始まるから、今日はしっかり食べるんだからね!」
「なるほど。それでお肉満載なランチね…」
待ち合わせを決める電話の向こうで「とにかく肉が食べたい!」と、ボリューム満点のビュッフェランチを提案してきたのは一週間前のことだ。
「おりりんも、なんだか痩せたんじゃない…?」
あらためて織瀬を見据え、懐かしむ顔とは一変し心配そうに覗き込む彼女は、現在ミュージカル女優として名を馳せている『橘もえ(芸名)』本名も同名の〈立花萌絵(たちばなもえ)〉。彼女は、織瀬の高校時代のクラスメイトであり、かつて『第九のオスカル』と呼ばれたコーラス部のソリストであった。
「ぜんぜん…」
滅多に会えない親友との時間は実に嬉しいことではあったが、職業が〈女優〉である彼女と並ぶことには多少引け目を感じてしまう。まして飛ぶ鳥を落とす勢いの近頃の彼女は、自信に満ち溢れ会うごとに輝きを増していく。『第九のオスカル』と呼ばれていたコーラス部だった当時からひときわ際立ち視線を集めていたが、今や新進気鋭の舞台女優として活躍する姿は高校時代のそれとはスケールが違う。
「あたしなんて代わり映えしない」
「そんなことない。相変わらずかわいい~。顔とっ替えたいっ」
当の萌絵自身は、織瀬がそんな風に思うほどの器量の持ち主ではない。小顔の織瀬を羨む、高校時代からの口癖も相変わらずだ。
「またそんなこと言って…」
言われて悪い気はしない織瀬だが、有名女優と自分とでは比較のしようがないのは事実。心とは裏腹に、このところ自分の身に起きた出来事に複雑な表情を隠しきれない笑顔は、親友の目には不自然に映ったようだ。
「どうした? 旦那さんとケンカでもした?」
滅多に会えないとはいえ、時間などは関係なかった。織瀬をよく理解する親友にはすぐにばれてしまうものだ。
「あは…。まぁ、いろいろ…」
「珍しいね。おしどり夫婦が」
おしどり夫婦と言われることにも違和感を覚える。
「そんなことより、今日は希空(のあ)ちゃんは?」
「連れてくるつもりだったんだけどね、ばぁばにとられちゃった…」
少し長めの左前髪をかき上げ、舌を出す。ノースリーブから伸びる長い腕は、筋肉質で無駄がなく引き締まっている。
「あはは。相変わらずなんだ」
3年前、出産直後の萌絵を見舞った際も、萌絵の母親は孫をしっかりと抱いて放さなかったことを思い出した。
「大きくなっただろうね…」
「もうすっかりおませさん」
そう言ってスマートフォンの待ち受け画面を見せる萌絵。薄毛でくるくるとウェーブのかかった髪をツインテールにした愛くるしい幼児が、三輪車にまたがり振り返る姿が写っている。
「きゃ~かわいい💛」
「でしょ~」
「ママ似だねぇ…」
それは本心からの言葉ではあるが、織瀬も萌絵の子どもの父親を知っているわけではなかった。
「将来が楽しみよ」
萌絵は既婚者ではない。世間的に許されない相手と人知れず愛を育み、大げさなほどに周りに騒がれたのちに子どもを授かり出産した。3年たった今でも、話題に事欠く週刊誌には時折取り沙汰される、いわゆる私生児だ。相手は公表されていないにもかかわらず、候補にあがる名前は未だ数名、時節ごとの挨拶のようにワイドショーをしたたか賑わせる不倫報道。とはいえ相手方がことごとく否定してくれているため、萌絵本人にスポットが当たることはだいぶ少なくなった。
「忙しくてなかなか一緒にいられないんじゃないの?」
「そうでもないんだ、今のところはね。でも、小さいうちはばあばと一緒に興行先まで連れて歩けるけど、幼稚園になったらそうもいかなからさ。今のうちにいろいろと仕事の幅を広げたいんだ」
意気揚々と語る萌絵は、今は娘に夢中で織瀬の知る限り現在はフリーだ。
「ホントね、羨ましいな…」
3年前まで独身の萌絵には当然子どももいなかった。織瀬が結婚していることを除けば、ふたりの共通項に差はなく、今ほど悲壮感を覚えることもなかった。充実した日々にやりがいを感じる仕事、かつては織瀬もそんな日々を送っていた。だが最近では、ことあるごとに自信を喪失させられる現実に悲観的にならざるを得ない。
「おりりんは? 相変わらず…?」
子どもは「作らないのではなく、作れない」…とは、親友の萌絵にはもうずっと以前から相談していたことではあったが、
「もう、無理だと思う…」
先日の結婚記念日の惨劇を、目的のビュッフェランチのホテルまでの道中にぽつぽつと話して聞かせる織瀬。
「なるほどね…それで、意気消沈なわけだ」
「え? 意気消沈?」
「してる、してる、」
「そんなつもりないのに…。顔に出てるのかな」
両手で顔を押さえ、今さらながらに隠し事のできない自分を恨めしく思う。
「そんなことないけど、なんとなく顔色悪いよ」
「そう?」
「ちゃんと食べてる?」
「と、思うけど…?」
意識して食欲のことを考えたことはなかった。だが、ここ最近体調がおかしいのは事実だった。体型は変わってはいないはずだが、体は重いと感じている。なかなか疲れが取れなかったり、生理痛が酷かったり、年齢的なものだろうかとそれほど気にも留めていなかったが、改めて言われると急に気になってくるものだ。
(そういえば最近、意識して体重計にものってない…)
少し張り気味の下腹に手を当て考える。
「さぁ、おりりん。今日はガッツリ食べるよ…!」
そう言って萌絵は織瀬の背中を軽く叩いた。
「相変わらず。なにをするにもやる気満々だねぇ」
そんな萌絵の態度が、いつも織瀬を明るくさせた。
「あたしの座右の銘は『全力投球』よ!」

ビュッフェ

目的のホテルのビュッフェは、しっかり食したい萌絵ご要望の肉食中心のボリュームランチ。個々のテーブル席にはチーズフォンデュがセットされており、女子には嬉しいメニューもしっかりと組み込まれていた。
レストラン中央のテーブルではコックが客好みに丁寧に肉や野菜を焼いてくれる。その他串焼きからアヒージョまで、まさにボリューム満点の品揃えだった。
かんぱ~い♪
ペリエで乾杯しながら、
「とにかく、無事に終わってよかった…おりちゃんもありがとね」
「こちらこそ。すっごく感動的だった」
座席は、料理の乗った中央のテーブルを大きく囲むように、四角いテーブル席はホールの壁に沿って並び、その合間を縫うように丸いテーブルはほどよく、他人を気にせず歓談できる配置になっていた。その中でも出口寄りの大きな観葉植物の脇を選んだふたりの話題は、まずは大成功に終わった舞台と、次に予定されている芝居についてだった。
「絶対泣くと思ってたからタオルハンカチを3枚持って行ったのよ」
「やだ、ほんと? おりりんらしい」
「でもね、目の前で号泣してる男の人がいて、あんまり激しく泣くもんだから、思わずハンカチ差し出そうかと思ったくらい。どうしようか迷って、そのひと見てたら笑いがこみあげてきちゃって、声が漏れないようにそのハンカチでずっと口元押さえてたの」
「わかる! おぅおぅって、アシカみたいな声出してたひとでしょー」
「そうそう、そのひと!」
「初日からあれはないよね」
「熱烈なファンなんじゃないの?」
「どうかなー?」
萌絵の舞台は4月下旬から上演されており、織瀬は初日に招待されていた。萌絵はいつも舞台挨拶の際、必ず織瀬を見つけて手を振ってくれる。客席の織瀬は恥ずかしいながらも笑顔を返す、そんなやり取りを近頃は誇りに感じている。
「次の舞台はコメディーだから、ちょっと楽しみなんだよねぇ」
「へぇ…どんな役なの?」
「自分は人間だと思ってる犬の役」
肉を頬張りながら上目づかいで話す。
「犬?」
「うん。セリフは『ワン』だけ。でもその一言でいろいろ使い分けなきゃならない」
「大変だ」
「でも、やりがいは感じる。…絶対観に来てね」
「当然!」
結婚してからいつも幸(ゆき)と出掛けていたせいか、幸の苦手な映画やコンサートにひとりで出掛けていくことに少々後ろめたさを感じていた。幼いころから対人関係に神経を研ぎ澄ませていた性格上、特に咎められるわけでもないのに、なぜか気にしてしまう。だから時折招待券の届く観劇は、堂々とひとりで出掛けることの出来る唯一の楽しみだった。
「おりりん。やっぱり、ちょっと食が細くなったんじゃない?」
チーズフォンデュのソースを余すことなくこそげ取ろうと苦戦しながら、自分より明らかにペースの遅い織瀬を気遣う。
「そうかな? もえもえの食欲がありすぎるからじゃないの」
「そうかな? それにしたって皿の数が少なくない?」
「だってもえもえ、早食いだし。舞台のあとはいつもペース配分違うよ?」
「えっ、そうだった? いつもと同じつもりなんだけどな…」
指についたチーズをなめとる萌絵。
「でも、明らかに皿の数が…。それに、お肉の量も…」
何度となく中央のコックの前に立ち、その都度2、3枚ずつ皿を持ち帰る萌絵の手元に視線を落とす。
「あぁそっか…。男所帯に慣れてるから気にしたことなかったけど。世間の女子はみんなそんなものなのか…」
しみじみと目の前に重ねられた皿の枚数を見比べながら、お腹をさすって見せる萌絵。
「自覚なかったの…?」
今さら?…とくすくす笑う織瀬に、萌絵は「そうみたいね」といって口を尖らせた。
「これからどうするの?」
「そうね、ランチの予約のことでいっぱいでなにも考えてなかった」
「んー、そうじゃなくて」
急に真顔で返す萌絵。
(?)
「おりりんの、これからのことよ…」
「これから?」
「幸さんと、どうするの?」
「あぁ…」
無意識に声がトーンダウンする。
萌絵の華やかな世界の話のあとの現実的な話題に、無理矢理心のやわらかい部分を引き剥がされたような気分になる。
どうするって…?
その先のことまで考えてはいなかった。
「正直、わかんない…」
今は、このままでいいとさえ思っている。
「このまま、今のまま、やり過ごす? もう限界なんじゃない?」
確かに、今まで通りというわけにはいかないかもしれない。だからと言って今の傷ついた心では、今後の行動を想像することなどできないと思った。
「でも、考えるって言ってたし。…もしかしたら」
もしかしたら…受け入れてくれる夜が、いつかやってくるのだろうか。
「もしかしたら…なんて、本気で思ってるわけじゃないよね? 自分だって『無理かもしれない』って言ってたじゃない」
「…ぅ。それは、そうだけど…」
なにも言えない。
言えるわけもなかった。
「まぁ、女も40を前にすればいろいろあるけどさ。そのままだと、あっという間に歳とっちゃうよ…?」
「そうだよね…。でももう、自分でもどうしていいのかわからなくて…。とりあえず、なんで、…拒否、…放置されてるのか知りたかったんだけど」
結局それも、聞けずじまいだ。あれ以後、相変わらず朝食は一緒にとっているものの、大げさではなく、必要最低限の挨拶とあいづちしか交わしていないような気がする。そもそも、今までの朝の光景が浮かんでこない。そう考えると、これまでもさほど変わらない朝を送っていたのかと思うと、より一層のさみしさを増した。
「普通はね、10年も一緒にいてこの歳になったら『マンネリを回避したい』とか『生活に満足できない』とか、逆に夜の『相手をしたくない』なんてそんな悩みがだいたいなんだろうけど。おりりんの場合スタート地点から動いてもいないもんね。いっそのことあたしみたいに不倫してみる?」
「そんな…!」
「そうだよねー…そう簡単じゃないよね」
励ましのつもりだろうが、萌絵のことを考えれば自虐ネタもいいところだ。
「泣いちゃったんでしょー」
織瀬をよく知る萌絵は、まるで見ていたかのように指摘する。
「ぅん…。途中から、興奮しちゃって…」
「やっぱり」
「悔しくて『もういい』って言っちゃったし…」
冷静になろうとしても、それはやはり無理だった。
(言いたいことは、言ったつもり…。だけど…)
これまでの経験から、幸の方からなにかアクションを起こしてくれるとも思えない。かといってまた自分から、これ以上なにをどう伝えればいいのか。どうすればよかったのか。
「どう、したら…」
そう萌絵に問い掛けるも、
「でもさ、今さら幸さんがその気になったとして、おりりんは受け入れられるの?」
思いもよらない言葉で引き戻された。
「え?」
「ずっと、夫婦生活がなかったわけじゃない? 今さら、改めて幸さんに迫られたとして、すんなり受け入れられるのかな…って思って」
「そりゃぁ…」
そうでしょう?
(疑いもしなかった…)
それを待ち望んでたはずだ。なのに、答えられない自分がいる。
「お互い夢中なうちはいいけど、プラトニックなまま期待ばかりが膨らんで…10年でしょう? いざ本番ってなったら、意外と大した結果じゃないかもしれない。キスして、ベッドに入って、」
「解らない…」
その先を想像できない…と織瀬は思い、言葉を遮るようにして答えた。
(なぜ…?)
その様子を受け、萌絵は勿体つけて口を開いた。
「ねえ…? 間違ってたら、ごめんだけどぉ。もしかして、他に好きな人でもできた…?」
「まさか…」
即答したその言葉とは裏腹に、明らかに脳裏に幸とは違う顔が浮かんでしまっている。
(やだ。嘘…でしょ…?)
「そんなことは、ない」
それは萌絵に言ったのか、自分に言ったのか、途端に無表情になる。
「う、っそ。図星…?」
織瀬の『そんなことはない』という返答は、萌絵の想像を覆す言葉だったと、その表情から見て取れた。
「え、違うって…」
なんだか…言い訳すればするほど、自分を追い詰めるような気がした。
(なんで…?)
「なにか、あったのね。ちょ~っと会わない間に…」
意地の悪い視線を投げかける萌絵。
「そういうわけじゃ…」
ここ数か月、舞台中の萌絵と連絡が途絶えていた間のこと、つまり真田とのあれこれは一切話してはいないのだ。今日も話をするべきか否か迷いながら家を出た。自分を「好きだ」という男が現れた。しかもデートを通り越して「旅行しよう」と提案してくる、幸とは真逆の野心的な男だ。
「白状なさい…」
興味津々の眼差しの萌絵を前に、もう黙っていられないと織瀬は観念した。
「へぇ…。どんなひと…?」
「どんな? 年下で…うちの会社と契約してるケータリングサービスの代表やってる人」
「代表? へぇ、すごいじゃん。そこ、儲かってんの?」
「そこまでは知らない。うちと契約してるって知ったのも最近だし…」
「ずっとバーに通ってて、出入りの業者に気づかなかったの?」
「それを言わないで…代表にも『怠慢だ』って言われちゃった」
「そりゃそうでしょうよ。気にしなさすぎ…。それだけおりりんは幸さん一色で、他の男が目に入らなかったわけなんだろうけど。だけど…」
目を細めて織瀬を見る萌絵。
「幸さん以外の男が視界に入って来た」
「そういうわけじゃ…。だって…そんなに、お店の人なんて意識して見る?」
「うん、あたしは見るよ。だって常連なんでしょ? 多少なりとも会話もあるでしょうに、おりりんて昔っからそういうところ鈍いよね」
「あ~ん、そうです。鈍いです」
「はは…。でも、バーテンやってるくらいだから…そんなに儲かってないのかな?」
「…バーテンダーの仕事は、好きなんだって」
「ふ~ん。…てっきり、前の男に戻ったのかと思った」
萌絵は当然、織瀬の結婚前の異性関係も把握している。前の男…それは現在の織瀬の上司である〈内野正直〉のことだった。
「まさか…」
ありえない、そう答える織瀬に、
「でも『一緒に仕事する』って聞いた時、絶対ヨリ戻ると思ってたよ。相手の男、執念深そうだったし」
萌絵は確信めいた言い方をした。
「執念深い…?」
「そ。だから、幸さんと結婚したときはびっくりしたー。しかも自分の会社で、元カレの目の前で式挙げちゃうんだもん」
「それはだって。安いし、出会ったきっかけが会社だったから…隠しようもないし」
職場が式場であれば、よほど気に入らないなにかがない限り、もろもろを考えれば自社に世話になるのが筋だろう。
「それは、そうだろうけど。でも、カッコいいとは思ったよ」
その潔さが…と付け加えた。
「そう?」
「うん。…強くなったね」
「そうかな…。ありがと」
織瀬は少し考え、
「実はね、内野代表の知り合いみたいなの、彼。だからケータリングの契約もしてるんだろうけど…」
「え? バーテンダーが?」
「そう。だから、昔会ってるみたいなんだよねぇ、あたし。その、代表とつき合ってる頃に…覚えてなかったんだけど」
いつかバーで泣いてしまった時のことを思い出す。
「うっそ。まさかその頃からおりりんが好き、とか…?」
途端に目を輝かせる萌絵。
「や。それは、違うと思うけど…?」
(違う、よ…ね…)
だが織瀬も、考えなかったわけではない。真田は確かに「ずっと見ていた」と言っていた。その「ずっと」がいつからなのか、気にならないわけではなかったが、それを知ったからといってどうなるというのだろう。
「まぁ、今まで黙ってたわけだしね。…確かめてみたら?」
「なにを?」
いつから好きなのか、聞けというのだろうか。
「誘いにノってみたらいいじゃない。バーテンダーの彼の」
「そんな…」
萌絵にはてっきり止められるものと思っていただけに、その言葉は意外だった。
「膝に傷作るつもりでさ…」
「膝に傷? 脛じゃなく?」
そんな慣用句あったかしら…と、言葉をなぞる。
「ちょっと転んだつもりで」
「転ぶの?」
あまりいいことではなさそう…と答える織瀬に、萌絵は真顔で「そうよ」と告げた。
「…今さら膝に傷作るだなんて、大人のわたしたちにとって物凄く恥ずかしいんだから。治りも遅いし、痕も残るしね。でもそのくらいの恥を覚悟で挑まなきゃ…欲しい物なんて手に入らない」
意外にも萌絵は厳しい顔つきでそう答えた。
挑む…?
「あたしなんて、膝の傷どころか骨折ってまで希空を産んだわ」
これまでの萌絵の人生を思えば膝の傷程度で済んだはずはない。
「おりりん。ごめん、話の途中だけど…。ちょっと、周りがうるさくなり始めたから…出ようか」
気づけば、いつの間にか織瀬と萌絵のテーブルは周りの視線を集めていた。
「あ…」
他の客が、芸能活動をしている萌絵に気づき始めたのだ。
ふたりは静かに席を立ち、会計を済ませた。

オードブル

さすがにプライベートのランチで、声を掛けてくるほどの不躾な人間はいなかったが、ひそひそとチラ見され指をさされるのはあまりいい気分ではない。
いつもこんな風に見られているのだろうか…と、織瀬は周りに視線を走らせる。
(ちょっとコワイな…)
それは舞台を見る目とは違う、刺すようなたくさんの目。
「あたしも、有名になったもんだ」
店を出たところで、なんでもなさそうに伸びをする萌絵だったが、明らかな好奇の目にさらされるのは有名税とは言え有り難いものではないだろう。
「いろいろ言われてるけどさ…。好きになっちゃったものは仕方ないじゃない」
開き直りとも取れる言葉を発し、
「悪いことをしたのは解ってる。だから、言い訳もしないし、さっきみたいな…? あれも仕方のないことだと思ってる。でも、希空には…子どもにはそんな大人の事情なんて関係ないもんね。結果を出して、あの子が恥ずかしくないよう生きるって決めたんだ」
唇の端を固く結んで、それは舞台に立っている時のように堂々と、真摯に語る萌絵の決意は確かなものだった。
「もえもえ…」
「強い…?」
織瀬が飲み込んだ言葉を返してくる。
「うん。たくましい」
「母は強し…! とはいえ、ね。いろいろ思うところはあるわけよ。自分で望んだこととはいえ、相手に期待しすぎると痛い目見るんだって、いやってほど身に染みて実感しちゃったからねぇ…」
萌絵とその不倫相手との詳細を、織瀬は本人の口から聞いたことはない。聞くまでもなく、テレビや雑誌で何度も取り沙汰されている。それが事実なのか、どこからが尾ひれなのか、もちろん問い詰める気もなかったが、今目の前ではっきりと「子どものために!」と粋がる萌絵の姿だけが真実なのだと織瀬は知っている。
「うん…」
「よくいうじゃない? 好きになった相手がたまたま既婚者だった…って。でも、たまたまじゃないのよ、出会ってしまったら。好きになってしまったら、そんなことなりふり構っていられない。思いを遂げたいと思ってしまった時から、それはもう故意でしかない。譲れないのよ…。理屈では悪いことだと解っていても、その実『好き』だって気持ちだけは嘘じゃない。むしろ大事にしたい。その、バーテンダーの彼もそうなんじゃない?」
萌絵は探るような目で織瀬を見、
「どうしようもないんだよ。それに…『好き』になることが、悪いとは思わない」
それは織瀬に語ったのか、自分に言い聞かせているのか、そう言ってしまってなにか思うことがあるのか、萌絵は一瞬さみし気な表情を見せた。
「おりりんも、自分に正直になりなよ。自分の気持ちに嘘ついてると、ブスになるよ」
「え~、ブスはやだなぁ…」
「今度会う時が楽しみだぁ…。ブス、ブス、ぶ~す」
「もう~。やめて…」
笑いながら掌で萌絵の肩に触れた。するとその手を萌絵が握り返し、
「鎧も外れたみたいだしね」
と、意地悪な目つきで薬指をつまんだ。
「これは…」
「いいのよ、別に」
「違うの。ホントに…」
結婚記念日当日、暗がりで〈ちょきん〉を抱きかかえる際に落とした指輪を、未だ見つけ出せずにいたのだ。
「わかってるって」
織瀬は、萌絵の微笑にそれ以上言い訳するのをやめた。「わかってる」…今は、探す気力もない。
「今度、結婚記念のプレゼントを贈るね」
「え、そんなのいいのに…」
「いいからいいから、楽しみにしてて…」
少し含んだ言い回しで、萌絵はいたずらに笑ってみせた。

画像3

相手に期待しすぎると痛い目を見る…萌絵の言葉が耳に痛い織瀬。自分も知らずに期待しすぎていたのだろうか…という思いが、いつまでも脳裏に張り付いて離れなくなった。
でも、誰に?
(幸? それとも…)
萌絵の活き活きとした姿に「自分はなんて小さいんだろう…」と、別れた後もそんなことを考えていた。夢を叶え、成功を手にした者の人生の輝きは、見るものを勇気づけもすれば委縮させることもあるのだ。

確かめてもいいのだろうか・・・・。





まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します