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『正義』の話し

正義というものは、個人 それぞれの置かれた環境の中で、その人の持ち得た良心から来る、その人のよって立つものではないでしょうか。

しかし、それはその人 個人 個人、違うものであると思います。

人は、それぞれの「正義」の違う 側面を、理解し許容し、そうしながら、社会というものを成り立たせているんだと思います。

片方の正義の主張のみを押し通し、他者の正義を理解することも許容することもしなければ、諍いが起きてしまいます。

人は「神」という 神聖な象徴を作り出し、「正しくあるために」あれこれと定めて、宗教というものを作りました。

「正しく 自分を戒め、清廉であるために作ったはずの 宗教」

「正しくあろうとするための正義を違う価値観の正義に押し付けた」がゆえ、宗教戦争というものが起こります。

例えば、イスラム教を見てください。
例えば、キリスト教の十字軍遠征を見てください。

他にも 宗教戦争は山ほどあります。

例えば、イスラエルを見てください。

イスラエルを建国したのは、人々の良心からかも知れません。
それが戦争の火種になっている。
正義というものの危うさです。
片方の正義も、もう片方の正義も、言い分はあるんです。

正義というものは、自分が育った置かれた環境による中で培われた、偏った信念であるかも知れません。
その自覚のある無しは、非常に大きいと思います。

例えば当事者が、一切の偏りのない正義だと他者をはねつける。
純粋な正義だと貫き通し、他者の正義を否定する。

原理主義というものは、そうなってしまった「正義」ではないでしょうか。

諍いを回避するには、「他者の言い分を理解する知性、多様な考えを許容すること」というものがお互いに不可欠だなぁと、今朝、友人と話したところです。

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