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半生の病歴~発達性トラウマ障害の可能性~

私は重度の多動性障害を持って生まれました。
保育園の頃から、この多動性障害がひどく、保育園の先生から精神科受診を勧められるほどでした。

私は保育園当時から画家を目指しており、私の描いた絵画は、表彰され国際交流のため、海外の小学校に展示されました。

野山を駆け回り、海岸沿いで遊んだり、漁港で漁師さん達から売れない魚をもらって遊んだり、沼や田んぼで、足を ヒルだらけにしながら、イモリ やらヤゴ やらカエルやらどじょう やら、捕まえて遊ぶ日々でした。

小学校時代も多動性障害から、私を特殊学級に入れるかどうかという話になりました。
IQ が高かったため、学校の先生達も悩み抜いた末、普通学級に決まりました。

私は保育園から高校卒業まで、「遅刻しなかった日」は1日もありません。
興味のあるものを見つけると、寄り道ばかりしてしまうからです。
塾に入れられれば、「他の子の邪魔ばかりしてうるさいから」という理由ですぐにクビになっていました。
おばあちゃん先生がやっている 寺子屋で読み書きそろばんを習い(問題児ばかり集まるところです)、同じく問題児ばかり引き受けていた習字のおじいちゃん先生のおかげで、「仏典を読む」ということを教えてもらいました。
おじいちゃん先生はいつも写経しており、子供達に本を貸して読むことを教えていました。
私は写経に興味を持ち、仏教のあらゆる 宗派の本や、色んなお経についての解説書などをおじいちゃん先生から借りました。
辞書の引き方も教えてもらいました。
これは小学4年生の時です。

小学5年生。
3番目の妹が変死しました。
狂乱して泣き叫ぶ母に大きなショックを受けました。
幻覚 幻聴、(仏様が見える、仏様の声がする、仏様の成仏をさせることを手伝うようになる)、これは 妄想 かもしれませんが、妹の死とともに突然「仏様が見えるように聞こえるようになり」、私は純粋な慈悲心から、無縁仏やお寺の納骨堂に入り浸っては、仏様と話し成仏をさせる、といったことを始めました。

学校に行く前に読経して、水垢離をして、御詠歌を学び始めました。

この頃から 私は至極 落ち着いて、おっとりとしていつもニコニコ としていて慈悲心に満ち、時々「仏様の言葉」という説法をするようになりました。

両親も祖母も、「徳の高い 守護霊様がついている。たえこのお告げに従おう」と、私が説法を始めるたびに、涙を流して有り難がりました。

このころから 私は、町内で人格者として有名になり、「ウチの子供がたえちゃんと遊んでいるうちは、ウチの子は大丈夫だ」と言われました。

諍いがあれば諌め、いじめられても恨まず、逆に、いじめていた子達が、代わる代わる私に人生相談をしにきました。

中学2年、ひどいいじめに遭い(カッターで体を切られるなどです)、いじめの首謀者をやり込めました。 
いじめの首謀者は私にやっつけられて登校拒否になりました。
いじめの首謀者の親が、教育委員会に訴え、私は教師たちから体罰を受けるようになりました。
「不良 よりも質が悪い」
教師達にはそう言われました。
私はすっかり荒みました。

中学3年生2学期、幻覚 幻聴がひどくなり、無為自閉の症状が現れました。
意欲の減退、希死念慮などが現れました。
家中の薬を飲み、手首を切りました。
初めての自殺未遂でした。

中学3年間勉強しておらず、一年浪人してでも進学校へ行きたくて、商業高校の受験は全部白紙で出しました。
怒られました。

父が滑り止めの私立(県内で 偏差値 最下位、火葬場 と呼ばれているところです)に私を入学させました。
およそ一週間で退学しました。

塾に入り、小学4年生から勉強しなおし、進学校に上から13番目の成績で入学しました。
文芸部を立ち上げ、本格的に韻文 や 論文で高文連で作品の発表を始めました。
優秀賞をとり、青山の授賞式まで行きました。
卒業時、国語 全国模試 5番、美術と国語だけ5であとは オール1、でした。

美術学校にすすむというこじつけで上京し、翌日から前の夫と同棲を始めすぐに妊娠、二十歳になってすぐ出産しました。
夫からは、ドゥルーズ ガタリ、フランス文学などを学びました。

私の夫への献身は凄まじいもので、夫の夢はどんなにして稼いでも全て叶えました。
夫の病気が悪化、投身自殺未遂、それにより脳幹を損傷し、夫は 植物人間になりました。

私に 攻撃性が出て、状態が悪化したのは、「脳幹を損傷した夫への、意識が明瞭になる手術の治験の話」をされたところからです。
「意識が明瞭になる」ということはひどい痛みをはっきりと感じるようになるということです。

あれだけ 穏やかだった私が、過剰な興奮状態に陥り、常にイライラとして攻撃性が止まず、精神病院の閉鎖病棟に入院しました。

人間不信 が始まったのはそこからです。
攻撃性が芽生えたのもそこからです。

そこからは、漫画を描きながらも悪化の一途をたどり、措置入院しました。
退院してからも慢性期病棟に入院するなど、他害衝動が一番ひどかったのが20代です。

noteに「我が身が仏で」という風俗時代の文章を上げていますが、底辺の人々との関わりにより私の慈悲心が強く出たためか、28歳から30歳まで一度も症状が出ませんでした。

30歳、過労により幻聴がまたは勃発し、長期入院しました。
警察に保護を求めての措置入院でした。

それ以降 しばらく 落ち着いていました。
その間は演劇をやっていました。

当時のパートナーと私の間に入り、クッションの役目をしてバランスを取ってくれていた在日韓国人の親友が、覚醒剤中毒で死にました。

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