見出し画像

【散文・考察】詩や短歌の経過観察その3(2022/8末)

短歌を始めて約4か月がたった。
3か月経過は以下の通り。

歌集や雑誌(中古)を買い、読み始める。いろいろと知らない短歌に出会えることは、いろいろな世界に出会い、可能性が少しずつ広がり、こういった切り口でもいいのか、とか、これは楽しい短歌とか、勉強になった。

おかげで、短歌の良し悪しはともかく、以前よりは詠めるようになった。気がしている。

歌集や雑誌の短歌はネット世界の短歌とはまた違っている。どちらが良い悪いではないけれど、自分の中で感覚が変わったような気がする。自分の基準というものが少しずつではあるが形成されているようだ。

結果として、ネットの短歌にあまり反応しなくなってきている。自分の基準がもう少し決まってくると、また短歌の見え方が変わってくると思うけれど、基礎が築かれないと、他の短歌に反応している余裕が生まれないかもしれない。

詩や短歌で共感を得やすいのは、心や感情に近いものだ。誰もが持っているもので、共感を得やすいし、わかりやすい。ネットでは特にそういったわかりやすいものが優先されるため、感情であふれる世界。個人的にはそういったものとは距離を置きたいので、遠くから見つつ、流れがはやいネット世界にそっと置いている状態。

以前、詩は世界を瞬間的に召喚するために書いている、というようなことを書いた気がする。短歌や詩をメインにしている人は言葉に対するこだわりというか価値観の比重が大きいと思うけれど、私の場合には言葉よりも言葉から解き放たれた後の世界がメインなので、ちょっと違うかもしれない。やっぱり小説や映画やアニメなど物語方面からやってきたので、そのあたりが違うのかもしれない。

私にとって文章は別世界へ行くための道であり、リズムであり、世界を照らす明かりのようなものだと思って書いている。私にとって文章そのものはメインではなく世界へ向かう過程に過ぎないので、言葉そのものの優先順位はそんなに高くない。(もちろん、軽視しているわけではなく。つまり、信仰の対象ではないんだ。)

短歌をどのような基準で詠むのが自分に合っているのか。

最近の基準は、詠んだ世界は響くのか、響いているのか、という基準を試している。これは読み手の心ではなく、自分の心でもなく、あくまで詠んだ世界、が基準。


歌集でサラダ記念日を読んだとき、やっぱり恋愛系の短歌の場合、必然として相手がいて、相手に向けて詠んでいるので、わかりやすい、というか。

そこに相手がいるのが見えていて、そこに向けて詠むというのは、形式的に伝えようとすることなので、結果としてわかりやすい、というか。

この仕組みは、想定する何かに向けて詠むと自然とわかりやすくなるかも、と思って、これも試してみたいと思っている。

それと連作もやってみた。

二次創作短歌というべきもので、物語のセリフを使ったもの。詠んでいて楽しかった。これは人によって賛否わかれるかもしれないけれど、楽しい。

アンソロジー系歌集を読んでいて、「卓球短歌カットマン」(しんくわ氏)とか「念力家族」(笹公人氏)とか「ドラえもん短歌」(選 枡野浩一氏)など出会って、だったらこういったものもあってもいいかも、と思って。

これ、アニメ以外にもマンガ、ドラマ、映画、小説、なんでもいけそうだけれども、結構時間かかるので、気が向いたときにまたやりたい。(まず、セリフのチョイスから始まるので、全部見たり読んだりしないといけない。)

詩のほうは、短歌で詠んだ世界をもとにして広げる詩を書いている。結構壁にぶつかるけれど、なんとか書いている。これはもうしばらくやってみる。これはこれで良い経験値になっているかもしれない。

9月はとりあえず、買った短歌系の本や雑誌、全部読みたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?