変格推理小説「制外者の調書」


落ちてゆく。
自分の身体が塵のように落ちてゆく。
支えるものなどなにもない。
どこが地面で、どこが天なのかも判別がつかない。
光もなく、無限の闇に、自分の身体が落ちてゆく。
しかし、上も下も判別できない今の自分にとって、「落ちる」という表現が適当かどうかもわからない。
今の自分には「落ちる」と「登ってゆく」の区別がつかないのだ。
自分の身体を見ているものはどこにいるのか。身体の中か、それとも外か。
自己とそうでないものとの区別は、どこでつけるのか。
この世界は、暗い。徹底的に暗い。
自分の手をかざしてみるが、そこに手が本当にあるのかがわからない。
「幻影肢」という言葉を聞いたことがある。たしかメルロ=ポンティの身体論の中でだ。
交通事故で腕や足を切断した者でも、しばらく自分に腕や足があるかのように感じるということだ。身体感覚と実際の状況が一致するには、時間がかかるという。
しかし、今の自分には手足があるかどうかはもとより、自分に身体があるのかすら判別が出来ない。
仮面をつけた謎の人物によって、私は感覚のすべてを剥奪された。
地下牢での数週間の監禁生活の後、あの男は「待たせたな。ようやく準備が出来たので、別の部屋に移動してもらうとするか。」といって、仮面の下から「シュルル、シュルル」とおぞましい笑い声をもらした。
私は数週間の監禁生活で、すっかりやせ細り、抵抗の意志も萎え、完全に男の言うがままであった。
男は私にすべての衣類を脱ぐように言われた。
一瞬戸惑うと、男は大きな刃渡りのジャックナイフを取り出し、私の首筋の頚動脈にあてがった。
「自分の立場を間違えるんじゃない。このモルモットめ、が。」
完全に脱ぎ終えた私に、男は特殊な器具を用意して、頭に装着しようとした。
その器具はヘルメット型をしており、長いチューブが何本かつながっていた。それを装着すると、鼻からは酸素が、口からは最低限の栄養素が入ってくるという。そして、耳からは男の声だけは入ってくるし、口元に仕掛けられた小型マイクによって、自分の声も男に伝わるという。
その器具の装着後、男は別室に案内し、球体の形をした合金の立体物を指し示した。
「これは改造型のアイソレーション・タンクだ。思想好きで知られるお前のことだ。アイソレーション・タンクは知っているな。」
アイソレーション・タンクは、ジョン・C・リリー博士が考案した感覚遮断実験のための水槽のことである。その水槽の中では、すべての外界からの刺激はシャットアウトされる。光もなく、音もない世界であり、水槽に入れられた特殊な溶液のせいで、重力の影響すらなくなってしまう。無論、リリー博士のそれは心理学上のためであり、この仮面の男のように拷問のために考えられたのでは全く無い。
「球体にしたのにはわけがある。しばらくすると、お前は上も下も、右も左もわからなくなる。そのために、特注したのだ。これに1億以上の金がかかっているんだからな。まったく、あの人の考えることは、いつもながら呆れる話ばかりだ。」
男はタンクの口を開けた。
私は足の先を水槽の溶液につけた。水とは違い、少し身体にまとわりついてくるような感触があった。
「これで生きている間、外の光とはおさらばだな。いっておくが、このタンクの中では糞尿は垂れ流しだ。自動的に水質は、保たれるようになっているから、死なない程度には改善されるはずだ。」といって、またも仮面の下から「シュルル、シュルル」と押し殺したような笑い声を男は立てたのである。


「天啓の骸」によって、棟方冬紀は社会的に死ぬはずであった。
推理小説研究会主催による推理小説推奨賞の選考過程については、わからなかったが、「天啓の骸」の原稿コピーをすべて棟方に送付し、他の選考委員に原稿については、棟方氏から受け取っていただきたい旨を連絡したことにより、棟方は窮地に陥っているはずであった。
棟方はこれにより「天啓の骸」を他の選考委員に配布して自滅するか、「天啓の骸」を勝手に処分して自滅するか、しか道がのこされていなかった。
私は推理小説推奨賞の発表日を待ち続けた。その日には、年に一度の推理小説大賞の発表も行なわれるはずであった。
推理小説推奨賞は新人作家の登竜門であったが、言うまでもなく、私の目的は受賞ではなく、棟方の反応が知りたかったのである。
発表日まで約2週間となったころ、私のアパートに突然の来客があった。
私はフランスから内密に帰国し、このアパートを慌しく決めた。私が帰国したことも、少数の知人にも知らせていない。知らせているのは、「ウロボロスIV(「天啓の骸」を当初応募する際に、そのようなタイトルの別原稿を用意して、選考委員を煙に巻いたのである。)」の応募の際に書いた住所くらいしかない。つまり、このアパートの住所は、推理小説研究会の選考委員と、賞のスポンサーである講壇社しか知らないはずである。私は少々、いぶかしげに玄関を開いた。
「原口武雄さんですね。武藤と申します。」来客は証明書を提示し、警視庁の人間であることを告げた。
武藤という刑事の話によると、3日前に棟方冬紀氏が失踪し、前後の状況から、自己意思によるものではなく、強制的な拉致と考えられるという。
私は驚きを隠せなかった。
棟方氏失踪当時の部屋は、著しく書物や書類が散乱しており、何者かが棟方氏の部屋に押し入り、強制的に連行したと考えられるという。警察当局は、誘拐と判断し、家族の同意を得て、棟方邸の電話に逆探知の装置をとりつけたが、犯人からのアプローチはいまのところないという。
こうして、棟方氏失踪には、金銭目的ではなく、怨恨の線が濃厚になってきた。
ところで、棟方氏の書斎からは、「天啓の骸」の原稿コピーが何部も発見された。警察当局は、棟方氏が当時行なっていた推理小説推奨賞の選考対象と考えたが、候補作としてエントリーされている作品ではないようであった。「天啓の骸」の原稿コピーの入っていた大きな茶封筒の差出人をみると、天藤尚己となっていた。天藤尚己は、「ウロボロスIV」が候補作としてエントリーされている。天藤尚己の住所は、「ウロボロスIV」が応募された際に添付された所定の応募用紙に、電話番号などとともに記載されており、それでここの住所が判ったというのである。
警察は「天啓の骸」の内容からして、単なる文学作品ではなく、別の意図があると判断した。
「要するにですね。「天啓の骸」は、今回の事件の犯行声明ともとれなくない、と考えているのですよ。」と武藤は語り、「天啓の骸」で取り上げられたフランスでの事件については、インターポールを通じて照会してもらっていることを告げた。
武藤は、礼状もなしに、づけづけと私の部屋に上がりこみ、部屋を一通り見て廻った。
「棟方さんはいらっしゃらないようですね。無論、あなたの疑いが晴れたわけではありませんが。今日はご挨拶だけです。当面、ご厄介になるかと思いまして。」と武藤は語り、ニヤリと不適な笑いを浮かべた。
「あっ、そうそう。賞の発表は延期されるようですよ。棟方さんは、推理小説研究会の指導的立場の人だったようで。発表日の前日には、推理小説研究会が賞の延期と棟方さんの何者かによる失踪事件について、正式な記者会見をするそうですから、そうなればあなたは警察だけでなく、マスコミの餌食となるでしょうよ。それにしても、棟方冬紀氏の名前は、今度の事件で初
めて知ったのですが、ミステリーの分野では知られた方なのですね。私は日頃、高額納税者として有名な方のトラベルミステリーしか読まないのですが、棟方さんの『黙示録の夏』という作品は傑作ですね。」
武藤という刑事は、言いたいことだけを話すと、そそくさと出て行った。
しばらくして、カーテンから少し外の様子を伺うと、アパートの横に黒い普通車が止まっており、二人の男がこちらを注視しているのがわかった。そして、運転席にいたのが、武藤刑事だった。


時間がなかった。
自分に残された時間がなかった。
やがて来る蒼い終幕の前に、ぜひとも片づけておく必要のある問題があった。
それは、人間の永遠の生命の問題であった。
小林秀雄は、カミュの「ペスト」を論じた評論の中で、人生の不条理について語り、やがて来る難破(死を意味する)が避けられない以上、宗教的救済や哲学的解決は幻想に過ぎないと断じた。
自分はそういう剃刀の刃の上に、人間の永遠の生命を、残された時間の中で追求してみたいと思う。
宗教や哲学の設定する「彼岸」ではなく、「此岸」における永遠の生命の可能性ということを。
無謀な試みであることは、百も承知だ。
自分が第二の基督になろうという試みだからだ。
果たして宗教によらず、人間の永遠の生命の実在を証明することがいかなる意味をもたらすのか。
カミュの手帳の中には、トルストイに関する記述がみられ、神なしに、人間の永遠の生命が保証された場合、一切の道徳の根拠がなくなることをトルストイが恐れていたことを記述している。
私がやろうとしていることは、トルストイが危惧したことだ。
私の死を賭した試みが成功すれば、既成の宗教は絶滅する。そして、道徳もまた絶滅する。
幸い、自分には他の誰よりも、この試みがうまくいく条件がそろっている。
無尽蔵の財と、自分のねらいをよく理解し、この問題の歴史的達成のためには、あらゆる危険を厭わない連中と両方を持っているからである。
私はこの問題の解法のために、一生をプログラミングしてきた。
問題達成のために、無尽蔵の財が自分の企業に転がりこんでくる仕組みを開発した。
私の支配下にある企業体は、第四世代プロトコルに関して独占的な権利を取得している。
もはや、現代人は私の考案した第四世代プロトコルに依存せずに思考することすら不可能になりつつある。
そして、もうひとつの精神的秘密結社「KNIGHT」。
これは、私の支配下にある企業の裏の顔であり、本当の顔だ。
「KNIGHT」に所属する結社員は、私の考える目的の達成のためならば、いつでも死ねる人間たちだ。
そして、私自身も、人間を宗教や哲学といった幻想から解放するためならば、いつでも死ねる人間だ。
私の前では、どんな禁忌や道徳も無効だ。
自分は、低次元の禁忌や道徳など問題ならないレベルことを、人類史上成し遂げようとしているからだ。
もしも、生と死を超えることが出来るのならば、人は死を恐れることなく、幸福に死ぬことが出来る。そして、幸福な死は、幸福な生の証である。
今日、これらの真理を、宗教家や道徳家が独占していると称している。そして、それが彼らの地上の権力の根源をなしている。
しかし、彼らの所有している真理は、不完全な真理に過ぎない。
彼らといえども、死を目前にして、幸福を維持できるものはいない。
おそらく、古代の人は完全な真理を有していたと推測される。
これは「KNIGHT」の伝承にもある考え方である。
古代のシャーマニズムや、チベット密教、ドルイドの教え、イスラムのスーフィー、ユダヤのカバラ…これらには完全な真理の面影がある。
私は、古代から現代に至るまでに散逸した真理の破片を拾い集め、再度完全なものに統合したいと思う。
昔「八犬伝」の人形劇をやっていたのを、TVでやっていたのをおぼろげに記憶している。
そこでは、八人の剣士が、犬という字の浮かび上がる玉をもっていて、八個の玉が再び統合されるときに、願い事がかなうといった。
それと同じ事を、自分もこの人生の中でやり遂げるつもりだ。
散逸した真理が、八つとは思わない。多分、真理は、それ以上に分裂し、散逸し、そして本来の機能を果たすことなく、死に絶えようとしている。
真理は、薔薇の花びらのように、世界中に飛び散ってしまった。
それらを拾い集め、再び薔薇の花を創造することができれば、その薔薇はプラズマのような光を放つだろう。
私は奇蹟を信じている。


自分は生きた屍だ。かろうじてチューブで、この世につながれた浮遊する死体だ。
生とは何を意味するのだろう。こうして自立的に生きているとはいえない私は、本当に生きているといえるだろうか。
手を伸ばしてみる。何も掴み取ることができない。
腕を前に伸ばし、液体を掻き分けてみる。
何度も繰り返すうちに、球体の内側の壁に触れるが、ぬるぬるとすべるばかりだ。
死人といえども、これほど死に近い死を体験したことなどあるのだろうか。
こうして自分は、死よりも死に近い屈辱的な生を生きる。
眼を開けていても、眼を閉じてみても、あたりは黒一色だ。
なにもない。なにも。
形も、色もなにもない。
叫ぼうとしても、宇宙服のようなヘルメットを装着されて、叫ぶことすらままならない。
そう、私には自由がない。
決定的に自由がない。
なんとおぞましいことか。
いつのまに自殺する自由すら奪われている。
死ぬことも、生きることもできず、黒一色の世界を這いつくばるしかないのか。
自分の立場が恐ろしい。生と死の宙吊り状態を、延々と体験するしかないのか。これが夢なら、はやく覚めて欲しい。
不思議と感情がない。
泣きたいとも思わない。絶望的な笑いを上げたいとも思わない。
自分の感情が壊れたのか。
徹底した無感情、無感動の境地。
これが生き延びるための方法だと、身体のどこかが判断したのか。それさえもわからない。
なんだ。なんだろう。
仮面の男の「シュルル、シュルル」という笑い声が、耳元でリフレインする。
イヤホンを通じて本当に聴こえてくるのか。それとも、幻聴なのかもわからない。
こんな体験の中で、幻覚を見たり、幻聴が聴こえない方がおかしい。
しかし、現実と幻覚や幻聴とをどうやって判断すればいいのか。
ここは、他者がいない世界だ。
ここでは、あらゆる尺度が存在しない。
うっ、なにかこみ上げるものがある。
現実を吐きたい。この現実を吐きたい。それが逃避だと判っている。判っていても、人間には止められないときがある。
狂っている。
こんな状況を考え出した奴は、絶対に狂っている。
なにを望んでいるのか。何を。
じたばたしても疲れるだけなのかもしれない。
手足を動かさなければ、比重の関係で、ドームの中央あたりに浮かんでいられることが判った。
変に力を入れると、どっと疲れるだけだ。
希望がないだけに、身体の疲れも早く来る。
果たして、こんな状態で眠ることなどできるのだろうか。
眠るときは、こんな状態でも、まぶたを閉じるべきなのか。
いつか、まぶたを開けたまま眠る人の話をきいたことがある。そのときは怖いと感じたが、こんな状態では、まぶたを開けると事と、閉じることはおなじことだ、と思う。
ところで、自分は誰だっけ。
少しづつ、社会性が失われてきたかんじがする。


追い詰めるはずの者が、いつしか追われる者になっている。まるで安部公房の「燃えつきた地図」じゃないか。
あの刑事は、棟方冬紀の失踪の事実を告げた。
しかし、失踪当時の現場が、著しく書物や書類が散乱しているからといって、直ちに何者かによる拉致と断定していいものなのだろうか。
一体、棟方の失踪は、本人の意思によるものなのか、他者の強制によるものなのか。
棟方は、現在、いくつかの仕事を抱えている。
まず現在連載中の作品をあげると、「暗い天使」から始まる本格ミステリーのシリーズの番外編で、日本のサブカルチャーに焦点を当てた作品、メタフィクション批判と大文字の作者の消去をテーマにすえた「天啓」シリーズの第3弾、ミステリー専門誌での本格ミステリーの第三の波について論じた評論を複数、と結構な量を抱えていることがわかる。
さらに、不定期的に、私立探偵を主人公にして現代社会の病巣をテーマにした社会派ミステリーと、スキー探偵を主人公にした本格ミステリーの中短編を発表する予定である。
また、雑誌連載を終え、単行本化に向けて大幅な加筆修正を行なっている作品として、小牟禮サーガといわれる伝奇SFシリーズの新作もある。この作品については、はからずも日本で起きたカルト宗教による毒ガス大量殺戮計画を連想させる部分があり、加筆訂正が難航している。
また、編集委員として棟方も加わっている「本格ミステリーベイシックス」のための新作も予定されている。この新作については、今のところ題も未定である。かつて、「不思議の国の殺人」という題だけ発表してお蔵入りになった作品があるだけに、この仕事はどうなるかわからない。
メインとなる本格ミステリーのシリーズについていえば、次回作で否定神学と否定信仰の闘争をテーマにする予定で、ジャック・デリダをモデルにした人物を登場させるつもりで、そのための下調べも行なわなければならない。
作品の執筆以外の仕事も存在する。
棟方が中心となって立ち上げた推理小説研究会主催の本格ミステリー関係の賞の選考や、年間ベスト作品を掲載する機関誌の発行といった仕事である。
果たして、これほどの仕事を抱えている人間が、自発的な意志で蒸発するだろうか。
やはり、警察の考える拉致説が、信憑性を帯びてくる。
しかしそうなると、「天啓の骸」を書いた私は、最重要の容疑者になってしまう。
私以外に容疑者はいるのか。
棟方に怨恨の感情を持つ人間。
まず、第一に、伝奇SF小説「超人伝説」で、人食いのマルクス族として描いた飯田林檎はどうだろう。飯田林檎は、棟方が、かつて所属した新左翼セクトの黒幕である。棟方は「料理女と人食い」を書いたアンドレ・グリックスマンを踏襲して、かつてのマルクス主義仲間を「人食い」として罵倒したのである。
また、棟方がフランスに渡った直後に、公安に逮捕された者も少なからずいるらしい。そういった者の中には、棟方が自分を売ったと逆恨みをしているものもいるだろう。また、その逮捕歴で、就職等で苦労をして、憎悪の感情を増幅させているものもいるだろう。
第二に、棟方が「マルクス葬送派」として帰国した後に、論戦を繰り広げた日本版ポストモダニストはどうだろう。しかし、この場合、怨恨の感情を抱いたのは棟方の方であり、日本版ポストモダニストは、棟方をネクラのパラノとして嘲っただけで、論争相手にさえしようとしなかったのである。
第三に、棟方が現在精力的に仕事をしているミステリー業界はどうだろう。
まず、ミステリー作家という点では、天藤尚巳が挙げられる。天藤尚巳も棟方冬紀も、仲伊秀雄に本格ミステリー界の黒い水脈の後継者と評されたために、その後も互いにライバルとして意識せざるを得なかった不幸な間柄といえる。棟方の「天啓」シリーズの長大さは、いかに棟方が天藤を意識しているかの裏返しの所産であった。しかし、屈折した棟方に対し、天藤のほうに棟方の知性に敬意をはらっており、棟方を拉致するような動機があるとは思えなかった。
しかし、棟方が組織した推理小説研究会の周辺に関していえば、あれは棟方自身の自尊心をくすぐるためだけの組織ではないかとか、機関誌や賞の発表によって権威付けを行なう談合組織ではないかという声があったのは事実であった。もっとも、これらの声は推理小説研究会に声をかけてもらえなかったためのルサンチマンからではないのかとか、実は推理小説研究会よりも、もっと大きなマスゲームをやるような組織の構成員から出ているのではないかといった風評が、2チャンネルあたりで聞こえたりもしていたのだが…。
結論からいえば、棟方に私怨を抱く人間は、少なからず存在するということだ。
私の推察する領域以外でも、棟方に対してなんらかの憎しみをたぎらせている人間がいるかもしれない。
もしも、棟方の失踪に事件性があり、自分が容疑者にされるというのなら、これらの無数の人間の中から真犯人を探り出さねばならない。
だが…ふと、まったく違う可能性が脳裏を掠める。
ルナールは、「一粒の麦、もし死なずば」という言葉を好んだ。
ルナールが、危険をかえりみず、秘密の一端を棟方に見せたのは、いつか棟方を超越へと誘うためであった。
棟方は、代表作となる本格ミステリー全10巻を書き上げるために、現在、苦難に直面している。
現在時点で、主人公「矢吹志駆摩」が、その宿敵「ニコライ・スタヴローキン」と対峙するならば、次のようなパラドックスを生じる。
つまり、「矢吹志駆摩=ニコライ・スタヴローキン」となるというパラドックスである。
この点に関しては、「矢吹志駆摩」シリーズ第二作「黙示録の夏」ですでに予告されていたパラドックスである。悪を殺す者もまた悪、ということである。
「矢吹志駆摩」は、現在<悪としての聖>である。「矢吹志駆摩=ニコライ・スタヴローキン」となるパラドックスを回避するためには、「矢吹志駆摩」が<聖としての聖>に至らねばならない。
一度は、ルナールを殺害し、可能性を閉ざした棟方だが、ミステリーとしての構造が、棟方自身の変貌を要請しているとしたならば…あるいはまた、現在の仕事を放棄する価値があるのかも知れない。
ルナールは死んでも、ルナールの魂は棟方の中で復活できるかもしれない。


彼岸ではなく、此岸における永遠の生という問題を解くためには、私はさまざまな知識を蒐集した。
その知織の蒐集のために、「KNIGHT」という秘密組織を使用した。
今、私の前には、ウィルヘルム・ライヒという異端的な心理学者の資料がある。
ウィルヘルム・ライヒは、フロイト左派の心理学者で、神経症の背後に性欲の抑圧を見るジグムント・フロイトの学説に影響を受け、独自の性格分析を確立した。彼は欲動の抑圧の強い権威主義的人格の場合、性格のこわばりがあり、そのことを<性格の鎧>と呼んだ。<性格の鎧>が頑丈な場合、かなりのストレスを蓄積させることになり、さまざまな精神病理を生み出すとい
うのである。
<性格の鎧>は、単に心理的なものにとどまらず、肉体的な筋肉のこわばりを引き起こす。筋肉のこわばりは、血行不順の原因となり、肩こりの原因になる。また、血行不順が続くと、老廃物が蓄積し、乳酸による疲労感や、免疫力の低下にいきつくことになる。
ライヒが精神分析にもたらした功績は、この性格分析であり、<性格の鎧>は精神分析の立場からの身体療法の道に活路を開くこととなった。つまり、<性格の鎧>が原因の神経症患者に対して、体操を勧めたり、マッサージを施すという治療法への道である。
しかし、ライヒはこの仕事の後、急激に左傾化することになる。
ライヒの問題意識は、ファシズムがなぜ誕生したか、ということに向けられていた。
ファシズムは、社会的レベルでの欲動の抑圧であり、ライヒには治療すべき社会的な<性格の鎧>に見えたのである。
しかし、精神分析の世界では、このような社会的な関心を持つものは、少なかった。ライヒは次第に精神分析における少数者になっていった。
ライヒは、ファシズムに対抗するために、精神分析と弁証法的唯物論をひとつにしようとした。
フロイトとマルクスの結合である。
精神分析の場合、欲動(イド)を超自我(スーパーエゴ)が抑圧しているために、病理を生ずる。
弁証法的唯物論の場合、下部構造を担うプロレタリアートを、権威主義的な国家体制が抑圧しているために、病理を生ずる。
ライヒの結論は、権威主義的かつ国家主義的な世界において、性的なものを解放すること、言い換えればセクシュアル・レボリーションであった。
この考えによって、ライヒは精神分析の立場から逸脱したとして、除名される。
一方ライヒは、共産党からも、弁証法的唯物論にブルジョワジーのイデオロギーを持ち込み、革命を堕落させる試みとして糾弾された。
完全な異端者となったライヒは、次第にマッド・サイエンティストとしての顔貌を顕かにしてゆく。
まず、ライヒは、フロイトの考えたリビドーというものを、実体視するようになってゆく。
ライヒは、プレパラートにスープを落とし、顕微鏡で見たところ、光を放つ生体細胞が確認できたとして、これをビオンと呼んだ。
そして、オルゴン・アキュミュレーター(通称オルゴン・ボックス)なる集積器を開発し、この中に人が入ると、オルゴン・エネルギーという生命エネルギーを封じ込めることができるとした。オル
ゴン・ボックスの構造は、木と金属の多重構造になった匣である。
私は、このオルゴン・ボックスに非常な関心を持った。
オルゴン・ボックスで集積される何かは、私の研究の突破口になると思われた。
ライヒは、この頃になると、科学的な再検証というものをきちんとやっていない。アインシュタインを呼びつけて、オルゴン・ボックスに人が入ると、温度が上昇して、アインシュタインがうなったとか、しょうもないことを言っているだけである。
ライヒの思想は、さらに暴走する。
オルゴン・ボックスによって集積したエネルギーをつかって、このエネルギーを照射するクラスドバスターという兵器を開発し、これをUFOに当てると、UFOが退散するだの、空にむけると、天気を改変することができ、干ばつ地帯に雨を降らせることができるなどの報告をしている。
私は、ライヒがやろうとしたことは、メスメルの動物磁気やライヘンバッハのオッド力の再発見であったと考える。生命力の探求という観点からすれば、ナチス側ではヴリル協会のヴリル力の探求、哲学領域ではベルグソンのエラン・ヴィタルの探求など二十世紀には他にも確認できる探求なのである。
そして、顕微鏡で見えるという生体細胞ビオンの光は、キルリアン写真の光に似ていると思う。
キルリアン写真とは、植物の葉や人間の手などを電流の通った金属板の間に挟み、写真乾板に定着させたもので、オーラを視覚化したものといわれている。
私はライヒの着眼点に興味を持ちながら、科学的な再検証に耐える実験データの不在を嘆いた。
ひとつには、ライヒが精神分析からも、マルキシズムからも追放され、人間を信用しなくなったためもあるが、ライヒのライヒのためだけの実験データまでも存在しないのは、アメリカ食品衛生局(FDA)に奪われたためである。
ライヒは、オルゴン・アーキュレイターに入ることによって、生命エネルギーの停滞による病理が治癒するとしたが、これが医師免許なしの治療行為としてFDAが摘発したのである。
そして、FDAは、オルゴン・アキュミュレーターを廃棄しただけでなく、ライヒの著書や原稿も奪い、焼却処分を行なった。
ライヒは、この罪で投獄され、心不全と気管支炎の合併症で、獄死している。
しかし、このときのFDAの動きには、極めて怪しいものがある。
ライヒの著書は、オルゴン・エネルギーに関係のない著作についても、すべて焚書にされたのである。
この当時、吹き荒れたマッカーシズム(赤狩り)のためだけだろうか。
私の前には、FDAに潜入させた「KNIGHT」のレポートが存在する。
FDAの倉庫には、一部の職員しか渡されていないIDカードとパスワードなしに開くことの出来ない秘密の部屋があり、この中にライヒの未発表原稿が隠されているというのである。
このことは、逆説的にアメリカ政府が、ライヒの研究が全くの的外れでないことを示していると推定できた。ライヒの研究に含まれているなにがしかの真理を国家によって独占するために、ライヒの全著作と原稿を奪い、ライヒを獄死させたということである。
私は「KNIGHT」の秘密軍事組織を動かし、FDAを襲撃する必要を感じていた。
判断を躊躇する時間など、私には許されてはいないのだ。


悪い夢でも見ているのではないか。その疑いがぬぐいきれない。
自分の身体をつねってみて、痛みを感じたら、現実であるというのは、あまり信用のならない基準だ。自分は夢の中で、自分の身体をつねってみたことがあるが、やはり痛かった。
むしろ、自分の意志で、現実を改変できるか、を問うべきだろう。
普通、夢は自分でコントロールできないものと考えられているが、それは誤りだ。夢の中の出来事は、自分の意志で改変できる。要は、自分の意志を強く持つかどうかだ。
自分は迷路の中をさまよう夢や、何か事件に巻き込まれる夢を見るが、必ず理詰めで解決し、限界状況を突破してきた。
しかし、今度ばかりは、これは夢ではないと思う。
球体の壁は、冷たく、スチールで出来ており、それ冷徹さがリアルであることを告げている。これは私の想像力の産物ではない。
普通の闇ならば、しばらくして眼が冴えてきて、見えるようになるが、何時間たっても黒一色で、事物の形が見えてこない。
絶望感で、自分の心臓が脈打つのが感じられる。
なんということだ。
敵は自分が死ぬことすら許してくれない。
敵のもくろみは何なのか。
自分を社会的に抹殺し、廃人のようになることか。
それとも、狂気の果てをみせようとでもいうのか。
眼を閉じる。眼を開けても闇、眼を閉じても闇だが、なにか違う。
光の残像現象だろうか。しかし、光を見てから、もう何時間も経っているはずだ。それに、眼を閉じたときに網膜に映るのは、電球や蛍光灯の輪の形をしていない。
眼を閉じると、闇の中に稲光のようなものが走るのが見える。
まぶたに力を入れると、光の粒子が、金平糖や菱形になり、それらがすばやく走るのが判る。
それらはアトランダムに見えて、ある種の秩序を持っているように思われる。
幼少の頃、眼を閉じて太陽の方を向くと、黒いカンバスに赤い血の色が一瞬のうちに広がることを発見したのを想いだした。
しかし、陽の光のない闇の世界では、赤い血の色は見えなかった。
その代わり、青や緑や黄色の光の粒子が、眼を閉じた世界を眩しく染め上げてゆくのがわかった。
これは幻覚なのか。それとも生理現象なのか。
おそらく、後者の方だと思う。
自分の中を非人間的な電子のパルスが流れていて、まぶたに力を入れて流れをせき止めると、スパークして、光の粒子が飛びはねるのだ。
自分は生きている。こんな状況下でも、自分は生きている。
呼吸音も立てないほど静かだが、それでもなお、自分は生きている。
思わず笑い声が漏れる。
命が続く限り、未来に向けて可能性は開かれている。
この球体の密室がいかに完璧なものであっても、それは今、ここでの完璧さにすぎない。
このスチールの壁を突破したい。
身体ごと、壁にぶつかる。
痛い。激痛が走る。
畜生。
自分の身体が邪魔になって、外に抜けることができない。
いっそ、身体を抜け出せれば…。
身体を割りたい。
額を割りたい。
外へ。外へ。

はっ!
そのとき、巨大な目玉が、かっと見開いた。

自分を縛り付けているものは、球体の密室じゃない。
この身体そのものが、魂を地上に縛り付けておくための牢獄なのだ。
おそらくは宇宙の均衡を守るため、人間が覚醒せぬように、神は人間の魂を肉体の中に封じ込めたのだ。

神は…神の名を騙る悪魔だ。
呉一郎の唇がわなわなと震えた。


棟方氏の失踪事件について、何を手がかりに調べたらよいのか。
このまま放置すれば、状況はますます悪くなるばかりだ。
私はしばらくの間、フランス暮らしをしてきたこともあり、棟方氏の周辺や、ミステリー界の状況について詳しいとはいえなかった。
「天啓の骸」を書く上で、日本への帰還後の棟方氏の状況を知る必要があったのは、大学の頃からの友人箟祐司君の協力があってのことであった。
箟君は神田の某教育研究機関の主任研究員であったが、日本の推理小説に関して詳しく、アマチュアながらもミステリー評論の同人誌を発行するなどの活動をしていた。
箟君は、日本の推理小説作家として天藤尚巳氏と棟方冬紀氏の活動に特に注目しており、棟方氏について調査をしていた私にも全面協力をしてくれ、現在では入手困難になっている棟方氏の評論なども日本から送ってくれた。
だから、「天啓の骸」の執筆経緯も、執筆内容も、箟君は充分把握していた。
私は今回も箟君のアドバイスを受けるのが正しいと判断し、箟君に連絡を入れた。棟方氏失踪の件は、公式発表前であったから、直接会って話をするのがよいと考えた。箟君は職場の近くのルノアールという喫茶店を指定してきた。「実は、この店で、棟方氏と東都桃源社の編集者が打ち合わせをしているのに出くわしたことがあるんですよ。」と箟は語り始めた。
「勤務先の五号館の地下には、食堂があって、コーヒーならばセルフサービスで無料で出せるようになっているのですが、あそこは誰が聞いているかもわからないですから。」
「で、棟方氏の失踪についてですね。」と箟君は切り出した。
「えっ」と驚く私に、「実は、昨日、天藤尚巳氏が尋ねて来ましてね。ちょうど、ここで話をしたのですが、天藤氏を通じて、棟方氏失踪のことを知ったんです。」と箟君は語った。
「天藤氏は、私の出している同人誌を介して、知り合いになったのですが、昨日、私にアブローチしてきた理由は、棟方氏失踪にからむ裏情報を探るためだったようです。最初、天藤氏とは、棟方氏が最近展開している大量死と密室、もしくは大戦間ミステリー論について議論していたのですが、どうも天藤氏の関心がそこにはないようで、後で追求したところ、棟方氏が失踪し、その手がかりを探っているということが判ったのです。」と箟君は言う。
どうやら、私が「天啓の骸」の作者であるということで、警察の追及を受けたように、天藤尚巳氏も棟方氏の「天啓」シリーズに対抗する「ウロボロス」シリーズの作者として、警察の追及を受けたようだ。その結果、私と同様、天藤氏も素人探偵に変貌し、棟方氏の周辺を調べ廻っているというのである。
「いやぁ、天藤氏ったら、私から聞きたいことだけ聞いて帰るとき、黒眼鏡に黒いコートを着て、結構探偵の役を演ずるのを愉しんでいるようでしたよ。」と箟君は饒舌であった。
「で、棟方氏に君は何を教えたの?」と聞くと、「それを語ると長くなりますが、よろしいですか。」
と聞くと、急に神妙な面持ちで長弁舌をし始めた。以下は、その要旨。

西欧の実存思想は、第一次世界大戦後にドイツを軸に、第二次世界大戦後に先行するドイツ思想を接収しながら、フランスを軸に開花した。棟方冬紀氏が最近のミステリー評論で展開している<大戦間ミステリー>論は、哲学史における実存思想が戦争という危機意識の中から醸成されてきたように、ミステリーもまた、大戦間の大量死に抗して、特権化された個体の死を回復させるための試みとして理解しようとするものであった。棟方理論は、ミステリー評論に関心を持ち、後期クイーン問題に悩む実作者から、物語消費論を展開する一方で、多重人格もののサイコスリラーのまんが原作もこなす評論家に至るまで、幅広く受け入れられた。
その結果、主題的には実存思想的なミステリー、題材的には密室もののミステリーの格上げが為された。密室という装置は、大量死と峻別された個体の死の尊厳を回復するためのものであるという理解がなされた。
棟方理論は、エマニュエル・レヴィナスに依拠しているが、レヴィナスは現象学をフランスに紹介した人物である。
棟方理論は、矢吹志駆摩シリーズをはじめ、評論に至るまで、依拠する思想家は、実存思想家である。ヴェイユ、バタイユ、レヴィナスと並べてみると、その傾向がわかるだろう。
仮に、レベル零を現象学・実存主義・実体論、レベル壱を構造主義・関係論、レベル弐を文化記号論・経済人類学、レベル参をポスト構造主義(存在論的脱構築)・否定神学システム、レベル四をポスト構造主義(郵便的脱構築)をしたとき、棟方はどのレベルに位置しているのか。棟方理論をスペクトル分析すると、多くがレベル零、部分的にレベル弐に依拠していることがわかる。つまり、棟方理論は、現在以前である。
棟方理論の価値は、ソ連の崩壊とともに終わっているが、それに気づかなかったのは、ミステリー評論の理論の不在のせいである。
ところが、棟方の最新刊において、棟方理論の終焉が露呈されてしまう。
棟方の最新刊は、「クリティカル・スペース」誌からデビューした若手思想家との往復書簡集であった。東典弘という若手思想家は、棟方の嫌いな日本のポストモダニストグループからデビューしたが、現在は<おたく文化>の評論が中心的な仕事となり、ポストモダニストグループから離脱している。棟方としては、この離脱者をオルグして、かつて自分を嘲弄したポストモダニストを倒す駒として使えないかと判断したが、逆に手痛いしっぺ返しを受けることになる。東という評論家は、棟方が9・11の対米テロリズム以降の状況や、情報セキュリティーの問題に対して、言葉を失ってしまうということを暴露してしまったのである。棟方が話をできるのは、新左翼からの自身の転向体験のこととその変奏だけであることを暴露してしまったのである。
棟方は、議論をかわし、得意のミステリーネタの話題を振ろうとしたが、東はその話を拒否した。
東は、以前後期クイーン問題と格闘する法槻というミステリー作家と対談したが、このとき法槻は、棟方の駒となっていた。それを知らない東は、法槻に「祖父戸途麟九」という奇妙奇天烈なコード破壊のミステリーを書く新人作家を糾弾する会に入らないかと、オルグされそうになった。
ミステリー業界には、コード保守派と、コード破壊派が対立しており、棟方の主催する推理小説研究会は、コード保守派の砦であった。
一方、コード破壊派は、一匹狼が多く、天藤尚巳からはじまり、世代を離れて祖父戸途麟九らの若手作家が存在した。
ミステリー業界におけるコード破壊派と、コード保守派の闘争は、十数年前の現代思想業界のスキゾ派と、パラノ派の闘争の再現であり、数十年前パラノ派で負け組だった棟方が、今日ではコード保守派で権力を奪取していると、東は見ていた。
東は、ミステリー業界のイデオロギー闘争に巻き込まれて、使い捨ての駒になるのが嫌だったのである。棟方主催の推理小説研究会は、ミステリー関係の賞を発表しているが、棟方の新作があるときに、棟方以外の作品に投票する作家がいると、後でその作家の作品は棟方に酷評されるらしかった。東は、棟方のことをミステリー業界のスターリンのようだと感じていたので
ある。
棟方の本格ミステリーは、最近長大化の反面、読んで楽しくないものになりつつあるが、推理小説研究会という権力システムにより、No.1の座は死守されるわけである。
棟方と東の往復書簡以来、ミステリー評論における棟方の地盤沈下がはじまりつつあった。
東は、多重人格もののサイコサスペンスのまんが原作を書く大束英二という批評家とも「ニューリアル」という雑誌を共同編集していたから、東の見解は、大束の見解にも影響を及ぼすに違いない。なぜなら、大束は、棟方がミステリー業界から追放しようとしてきた祖父戸途麟九を、評価してきた論者のひとりであったから。
コード破壊派のみならず、いやいやながら棟方の面白くもない小説に一票を投じてきた推理小説研究会の中も、造反運動がはじまりつつあった。
棟方の失踪事件は、この矢先の事件であった。
仮に、失踪が棟方の自発的な意志によるものでないとすれば、コード破壊派よりも、無理やり棟方の言説に追随してきたシンパの中にこそ、棟方へのルサンチマンは大きいのではない
か、というのが、箟君の仮説であった。
箟君は、棟方が改心し、秘境的グループへの接近を図るために、現在のしがらみをすべて捨てたという私の仮説を却下した。棟方に限って、反省することはありえない。彼はいつも自分を正しいと思ってきたし、正しいという過信のもとに、他者を切り捨てるタイプだというのである。
箟君もまた、棟方批判の急先鋒であった。


三ツ木降輔率いる「KNIGHT」は、第四世代プロトコルに関して独占的な特許権を持つ「Zone CORPORATION」の裏の顔であり、「Zone CORPORATION」の無尽蔵の財を背景に、世界のあらゆる領域に奥深く侵入を図っていた。「KNIGHT」は、資料調査部と特殊工作部にわかれ、特殊工作部の中には秘密軍事組織を所有していた。
資料調査部は、三ツ木降輔の眼をつけた事柄に関して、あらゆる制限を排し、徹底的に調べることを任務にしていた。
三ツ木のテーマとは、此岸における永生であった。
そのために、三ツ木は「KNIGHT」の資料調査部を世界各地に派遣した。
第一調査室の調査対象はアメリカであり、ここでの任務は、W・ライヒ、ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、ロバート・アントン・ウィルソンといった人物が行なっていた研究内容を徹底的に掌握することにあった。三ツ木は、ドラッグ・カルチャーがもたらした人間の深層心理の暴露ということに、深い関心を示した。
第二調査室の調査対象はアイルランドのケルト文化であり、ここでの任務は、ジェームス・ジョイスの文学から渦巻の文様を特徴とするケルト美術、さらに深い精神性を有するケルト音楽の捕集からはじまり、ケルトに伝わる妖精伝説や魔女術の秘密を探ることにあった。三ツ木の説明では、この領域を説く鍵は、スバイラル・ダンスにあるという。
第三調査室の調査対象はロシアである。この国は、シェフトフ、ドストエフスキー、ラスプーチン、グルジェフ、ウスペンスキー、マダム・ブラバツキーといった精神的な超人を多く輩出している。三ツ木の着眼点は、ロシア正教と東方的グノーシス主義を中心に調べよ、ということであった。
第四調査室の調査対象は中国であり、ここでの調査対象はタオイズム(道教)であり、中でも練丹道であった。三ツ木によると、練丹道のテクストは文字通り読むと水銀の摂取によって、命を縮めるが、象徴体系として捉えると、長命の鍵が見つかるはずであるという。
第五調査室の調査対象はチベットであり、ここではニンマ派のバルド・トゥドル(死者の書)からはじまり、ゲルク派の死者の書にまで探求される予定であった。三ツ木が最も関心を示したのは、虹の身体ということであり、これを掌握できれば、此岸の永生という問題は一挙に解決する可能性すらあるとした。
第六調査室の調査対象はドイツであり、ここでは薔薇十字会を創始したというクリスティアン・ローゼンクロイツの謎に挑む。また、20世紀におけるゲーテの再来を思わせるルドルフ・シュタイナーに関する調査も行なう。
第七調査室の調査対象はイギリスであり、ここでは薔薇十字会系の黄金の暁会が行なっていた儀礼魔術と象徴体系の調査がメインとなる。三ツ木は、潜在意識における象徴体系の変換が魔術の鍵であるという。
第八調査室の調査対象は日本にあり、ここでは富士文書・竹内文書・九鬼文書などの偽史や、「上記」や「秀真伝」などの神代文字、大石凝真素美の水茎文字などの研究がなされる。
三ツ木は、ここでのポイントについて平田篤胤の研究内容に注目せよ、と語った。
では、「KNIGHT」の秘密工作部とは何か。
実は、「KNIGHT」の構成員は、さまざまな国籍を持ち、さまざまな分野で活躍している。したがって、アメリカ軍に在籍する「KNIGHT」の秘密工作部員も存在する。
ここで、ひとりの米兵がいる。ロバートという名前の男である。
ロバートは三ツ木の指示を待っていた。
三ツ木からの指令は、暗号で来る。
この暗号は、誰にも読み取ることのできないものだ。たとえCIAであろうと、「KNIGHT」の中の一握りの人間以外は。
暗号解読のプログラムは、定期的に替えられるので、たとえ解読を行なおうとしても、そのスピードにはついてゆけない。
ロバートの指先には、大陸間弾道弾のスイッチがある。
本日は水曜日だ。
予定時刻の夜の11時は過ぎている。
照準はすでに合わせてある。
標的はエリア51。
命中と同時に「KNIGHT」の秘密回線を使って、画像データは全世界に配信される。
すべての回線に割り込み、強制的にテレスクリーンに、USAの恥部を映し出す手配だ。
ロバートは死を覚悟していた。
筋肉で固めた身体には、ダイナマイトがくくりつけられている。
もうすぐ、人類の解放だ。
俺はそのために死んでゆくのだ。
ロバートの笑いは止まらなかった。


あの男を監禁して、何日になるだろうか。
地下牢で10日間、タンクに入れて5日間。
タンクの中での状況は、赤外線カメラとあの男の頭に装着したマイクから伝わっている声で、おおよそのことは判る。
あの男は、完全に自己崩壊した。
延々と続く感覚遮断生活のせいで、あの男の精神は完全崩壊した。
人格的な統合も、正常人の反応も、もはや見られない。
自分が誰かということすら、良く判らなくなっているようだ。
時々、あの男の耳に、音声データを流してどう反応するか、実験してみた。
心理学的な実験。これもまた司令からの命令のひとつだ。
この前、「ブウウ……ンンン……ンン……」という音を聞かせてやったところ、あの男は呉一郎に変貌した。
あるいはまた、芳田喜十の映画「ワザリング・ハイツ」のサウンド・トラックを聞かせてやったところ、あの男は鬼丸に変貌した。
つまり、あの男には棟方冬紀という人格はすでにない。
その部分は、完全に消去されている。
地下牢を出た後で、俺はあの男に注射をしている。
注射の中身が何なのか、俺は司令に聞いていない。司令は「ビタミンK」といったが、どうせ何かの暗号だろう。
その注射と、完全な感覚遮断によって、あの男の内面が「空白」になった。
俺はあの男に栄養素をチューブを通して注入してやることも可能だし、手元の操作パネルのコントローラーを動かして、あの男の頭に付けられた針状の電極に電流を流すこともできる。
これは、普通の電気ショックではなく、操作パネルで電気的なパルスを変えることができ、全身を針で刺されるような感覚にしたり、火で焼かれるような感覚にしたり、氷漬けの中に入れられる感覚にすることも可能だ。
司令によると、かつて棟方の書いたSFからアイデアを拝借した拷問装置だという。
とにかく、俺はあの男の生殺与奪の権利を握っており、あの男は俺の奴隷になるしかないということだ。
俺には学問はないが、古今の犯罪は詳しい。
昔、アメリカで起きた事件だが、銀行頭取の娘P・Hが誘拐されて、誘拐された左翼ゲリラに洗脳され、数ヵ月後、銀行強盗を自ら行なうようになったということがある。
つまり、ドラッグだの、感覚遮断とかで、人格が崩壊し、内面が「空白」に至るまでデリートされると、生殺与奪権を握るものの教育によって、別の人格を「刷り込み」しやすくなるということだ。
俺はあの男を、意のままにできるという観念に興奮した。
俺は、意のままにできない人間の人格を徹底的に叩き潰し、無理やり言うことをきかせることに、無上の喜びを感じる人間だ。
この辺で、俺のことを明かしておいてもいいだろう。
俺は、「人間採集室 R157」の管理人である。
司令は、雑人撲殺人として俺を雇っている。誰が雑人かの判断基準は、司令の気まぐれによる。俺としては、理由も聞かず、リストアップされた人間を、次々となぶり殺しにすればいい。
今回のように、延々と続く半殺しは、初めてのケースだ。
よほど司令の虫の好かない奴だったのだろう。
俺は司令によるリスクの多い危険な仕事の変わりに、司令には趣味の美女コレクションに眼をつぶってもらっている。
「人間採集室 R157」には、撲殺した雑人どものミイラと、薬物で壊れてしまった美女が収容されている。
これらの人物は、基本的に失踪者として扱われ、数年後、戸籍から抹消される。
警察という組織は、拉致現場の目撃者がいるとか、血痕が落ちていたとかがなければ、事件性はないと判断するものだ。
俺は、性格的にサディストだと思う。
しかし、マゾヒストと共犯関係になり、「水入らず」のウェットな関係になるのはうんざりする。
俺の標的は、高慢で自尊心の高い女だ。そういうタイプをみると、徹底的な屈辱を与えたくなる。
自分のことを異常者とは思うが、一度知ってしまった快楽を断念することはできそうにない。俺は危険と隣り合わせにしないと、生きているという実感を感じることのできない人間になってしまった。
俺にはトラウマがある。
俺は理不尽な放火によって、家を焼かれ、顔を喪った過去がある。
数ヶ月の入院後、俺は包帯をおそるおそる取ると、そこにはケロイドの顔があった。
それ以来、俺は仮面をつけて、地下室を借り、そこに住むようになった。
俺には事件前から、憧れを抱く女がいた。女の方も俺に好意を持ってくれているようだった。
あの人ならば、自分の境遇を理解してくれる優しさをもっていると解した俺は、意を決して、その女に会うことにした。
俺は女のマンションを訪ねた。
突然、現れた仮面の男に、女は怯えた。
「俺だよ。Mだよ。怖がらずともいい。なにもしやしない。俺はお前を前から愛していたのだ。」と
必死で言いつくろいながら、俺は仮面を取った。
「きゃーぁ。」女は悲鳴を上げた。
俺は夢中で女の口をふさぎ、「なぜ、わからないんだ。なぜ、わかってくれないんだ。」と叫んだ。
涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。苦い涙だった。
俺はいつしか女の首を絞めていた。
かくっ、女の首が力が抜けたように、傾いた。
女の体が崩れ落ち、俺も倒れこんだ。
絶命したばかりの女の体は、まだ生温かかった。
俺の腕が、女の柔らかい胸に当たっていた。
死体とはいえ、憧れをいだく女の体が、そこにある。
俺はブラウスのボタンを引きちぎり、スカートを脱がせた。
白いパンティーが見えると、俺の興奮は最高潮に達した。
狂っている。狂っている。またも、涙が女の頬に落ちた。
しかし、俺の頭の中のしびれるような感覚は、納まりそうもなかった。


「原口さんは講壇社ノベルスの新刊『新本格推理03』は、ご覧になりましたか。」と箟君は聞いてきた。
「『新本格推理03』にも、棟方冬紀の時評が載っていまして、ここでもコード破壊派の祖父戸途麟九を攻撃しているんですよ。ただ、最近の棟方さんは、若手をすべて敵に廻すのは得策ではないと判断し、甲二という作家を代わりに持ち上げているんです。ここでは、内容的にかなり壊れた人間を扱っているのに対し、それを扱う小説形式は、探偵小説のコードを守っており、評価できるというのです。しかし、棟方さんがかつて探偵小説論『蛇を喰らう蛇の迷宮』で、アンチ・ミステリーの論理的徹底性に対して、純文学の前衛作品の論理的不徹底を糾弾していたことや、<純文学という制度の死>が囁かれるようになってからデビューした村神春喜や経堂ばななの作品に対して、純文学の解体を遅らせる論理的不徹底な妥協がみられると批判していた
ことを想起するならば、ここでの甲二評価もまた不徹底な妥協策と逆批判されるべきなのです。」
箟君の棟方批判は容赦がない。
「近年、棟方さんのミステリーは、小説家としてというよりは、評論家としてのディスクールが優位になってきました。天啓シリーズもそうですし、『オーギュスト第四の事件』もそうです。そして、文体が重装備になる一方で、物語自体の魅力が衰退してきました。こうなると、構想力の衰退を、批評的文体で隠蔽しているのではないか、といぶかりたくなるほどです。なにより、問題なのは、棟方さんの著作で扱われる主題は、どこから斬っても金太郎飴のように同じ主題の反復だということです。東という若手批評家が、棟方さんは全共闘とそこからの転向という主題を反復しているばかりで、新しい現実に関心を示さないということに気づいたことは重要なことだと思います。これはある意味、優れた作家だからこそ、陥りやすい罠ともいえるのですが、だからといって、いつまでも持ち上げてばかりではだめでしょう。」
「しかし、今回の失踪事件は気になりますね。正式発表がなされると、マスコミが動き出すでしょうから、しばらく身を隠したほうがいいかもしれませんね。なにか気づいたことがあったら、携帯で知らせますので。」
結局、私は箟君の勧めに従って、東京から離れることにした。
新幹線に乗ったとき、見覚えのある刑事がつけてくるのがわかった。
私は、いつしか逃亡者になりさがっていた。
名古屋駅で降り、名鉄で新岐阜駅に向かうことにした。たいした理由はない。ちょうどそのとき、手にしていた文庫が『美濃牛』だったからに過ぎない。
新岐阜駅の近くの星野書店に入り、『新本格推理03』を立ち読みした。
そして、棟方さんが連載を行なっているいくつかの文芸誌をチェックした。『ジャイコ』、『純粋推理』、『エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン』。
棟方さんの連載は、どこも中断しておらず、失踪のニュースも掲載されていなかった。
駅前のホテルにチェック・インして、新聞やテレビのニュースを確認した。
柳が瀬商店街に出るときには、あたりに気を配った。言うまでもなく、あの刑事の存在が気になったからである。
そうこうしている間に、数日が過ぎ、例の推理小説推奨賞の発表日がやってきた。
普段なら、推理小説推奨賞の発表など、事後に新聞の片隅に掲載される程度だ。しかし、今年の推奨賞は違った。TV中継が入ったのである。
言うまでもなく、作家・棟方冬紀の失踪の事実をマスコミが嗅ぎつけたからである。
報道機関は、この事件を著名人の誘拐事件と判断した。そして、人命保護の観点から、報道協定に従い、本日まで報道を差し控えてきたのである。
TV中継は、まず推理小説研究会によって推理小説推奨賞の発表時期を遅らせるという公式発表を映し、その理由として、審査委員長の棟方冬紀氏失踪の衝撃事実を告げた。その後、引き続き、同席した警視庁責任者による棟方冬紀失踪事件に関する記者会見が行なわれた。
警視庁に対して、マスコミ関係者の質問が集中した。
まず、棟方氏失踪は、本人の意思によるものか、第三者による誘拐・拉致なのか、ということである。
ここで、警視庁は、失踪後の棟方氏の部屋は、書類や本が散乱していただけでなく、ルミノール反応が出たことを発表した。少量だが、棟方氏と同じ血液型(O型)の血痕が発見されたというのである。これで、本人の意思による失踪という線は消えた。その代わり、生命の危機という可能性が浮上してきた。
次に、今回の棟方氏の誘拐・拉致は、金銭目当ての誘拐なのか、怨恨なのか、ということが聞かれた。
警視庁は、今日まで非公開で捜査して来たのは、営利目的の誘拐を危惧してきたからであり、人命の保護のためであると語った。しかし、事件から今日まで身代金を要求する電話がかかってきていないことから、怨恨の線が濃厚であると語った。
マスコミは、怨恨とすると、今回の推理小説推奨賞の選考が絡んでいるのか、批評家棟方冬紀の論敵が絡んでいるのか、と聞いてきた。
警視庁は、捜査機密に関わることであり、現段階では論評できないと言ってきた。
さらに、マスコミは、奇妙な質問をしてきた。棟方冬紀の読者は、誰の読者と競合しているか、という質問であった。質問者はTVではおなじみの芸能レポーターだった。
推理小説研究会の副代表は、憮然として、「それはなんのための質問か」と聞いた。
芸能レポーターは、「棟方さんがいなくなったとして、代わりに売り上げを伸ばす作家が誰か知りたいのです。棟方さんがいなくなっても、高額納税者に名を連ねるような作家の方の売り上げには、まったく影響を与えませんよね。」といった。
この言葉に、会場から「不謹慎だ。」、「帰れ」などのブーイングが起こった。ブーイングの中で「天藤だ。」と叫ぶ声が聞こえたようだったが、すぐに喧騒にかき消された。
私は、あまりのくだらなさにTVのスイッチを切った。
どうやら、現段階で推理小説推奨賞の新人賞部門に応募された「天啓の骸」のことは話題にあがっていない。しかし、時間の問題で週刊誌記者が追いかけてくるのは予想できた。
棟方さんの居所を明らかにして、疑惑をはらすことなどをしないと、自分の身が危ないと思えてきた。
パパラッチか。
自分には無縁と思えた世界が、自分の前で口を開けていた。


「KNIGHT」秘密会員の証言
「……ああ、エリア51襲撃事件ですね。あの映像は、期間限定のレアものですからね。「KNIGHT」のホームページよりダウンロードしましたよ。ええ、ぼくのパソコンにアイコンが残っていますから、いつでも見れますし、なんでしたらメールでお送りしますよ。解凍ソフトで解凍していた
だければ……。よく出来た映像ですよ。ハリウッド顔負けというかんじですね。ええ、あのロバートを演じた役者ですねぇ。どこから見つけてきたんでしょうか。ははっ、仮にも「KNIGHT」の会員が、こんなことを言っちゃ、本当はいけないんですけどね。あの映像は、すべてでっちあげだと思っていますよ。それが、どうしたって言うのですか。要は、面白ければいいのですよ。そう、そう、僕は軟式ですから。軟式の秘密会員。硬派じゃないんですよ。秘密結社の始まりに、嘘八百があるって、よくあるじゃないですか。ゴールデン・ドーンでしたっけ。英国黄金の暁会。あれなんかも、ウェストコット大佐とマクレガー・メイザースが会を設立した際に、もっともらしい権威づけを行なうために、アンナ・シュプレンゲル嬢の手紙を捏造し、さも正統的な独逸薔薇十字系結社の認可を得て設立したかのように見せかけたというじゃありませんか。みんな秘密の首領という言葉に弱いんですよ。……それに、結社のはじまりにSFがあるのも、ロン・ハバードの前例がありますからね。ご存知ない?「バトル・フィールド・アース」というサンリオSF文庫から出ていたヒロイック・ファンタジーの原作者ですよ。彼は『ダイアネティックス』という精神分析もどきの本を書いて、それがサイエントロジーという教団のバイブルになっているのですよ。サイエントロジーというのは、高い受講料を払って、精神分析とかコミュニケーション論とかを学んで、次第に上級のサイエントロジーの指導者になってゆくというシステムなんです。それがね。ひどいんですよ。内容が。彼らは「E・メーター」という世界に一台しかない機械を所持していて、そのメーターで、メンタル・イメージ・ピクチャーがわかるというのです。エングラム(残存記憶)ってやつですね。これで、個人の精神の病理がわかるというんです。で、次に来るのが、その個人を浄化する方法ですね。これは、熱心にサイエントロジーを布教することだというんです。この意味わかりますよね。要するに、インチキ精神分析の仮面をとると、ねずみ講式の集金システムが見出せるというわけです。……そうでした。エリア51襲撃映像の中身です。エリア51というのは、アメリカが宇宙人と密約を取り交わし、UFOを開発しているとうわさされる軍事基地だというのは、ご存知ですよね。ここは、完全に立ち入り禁止地域になっており、近づいて、命を落としても知らないぞという軍の立て看板があるところなんです。で、毎週水曜日の23時過ぎに、プラズマの光のかたまりが浮遊していたり、円盤型の乗り物が浮かんだりするというんですね。「KNIGHT」の問題映像は、レーザー兵器とICBMでこの円盤を撃ち落そうというものなんです。すごく、くだらないエンターテイメントですよね。恥ずかしくて、笑うしかないという……。画像は、ロバート大佐という「KNIGHT」の密命を受けた軍関係者が大陸間弾道弾のスイッチを押すまでを、大写しで映し出します。ロバート大佐は、常にカメラ目線ですね。次に、エリア51の中継映像。時間は、画面右上にデジタル表示されるようになっています。23:25ごろ、基地の一部が開かれ、なにか巨大な物体が浮上してくるのがわかります。物体が全体像を現すと、それは円盤であることが判ります。円盤は、上下左右に移動し、その移動の仕方で、従来われわれが知っている飛行物体とは異なる動きをすることが示されます。ロバート大佐が、大陸間弾道弾のスイッチを押し、その軌道が合衆国の地図の上を赤い線でCG表示されてゆきます。別の基地が映し出され、幹部がこの大陸間弾道弾は、確実にエリア51を向いているとして、直ちに空中で撃ち落せと命令し、すぐさま二つの基地から別のトマホークが打ち出される映像が映ります。三次元CGが示され、後から発射されたミサイルは大きく軌道を外れ、違う地点に向かったことが示されます。そして、再び画面はエリア51に戻り、エリア51付近に止まっていた保護色の車両からレーザー光線が円盤に向けられて発射される光景が映し出されます。ここでテロップが流れ、この車両は立ち入り禁止区域に入っていたが、暗中で保護色をしており、空からの探索で見つけることが困難であったことと、特殊塗料が塗られており、エリア51のレーダーが感知しなかったのであるという説明がなされます。そして、ほぼ同時に届いた大陸間弾道弾が、空飛ぶ円盤を貫通するシーンを描き、大爆発します。この光景を映した映像が、アメリカ軍と、アメリカの政府機関のパソコンに、映し出されるシーンが映し出されます。またも、テロップが流れ、「KNIGHT」の技術力によって、アメリカ政府関係筋に画像が強制的に配信されたが、アメリカ政府は衝撃を覆い隠すために、今日に至るまでこの事実を隠蔽しているという説明がなされます。消防車や救急車、そしてパトカーが出てゆくシーンが映し出され、混乱に陥ってゆきます。場面は変わり、アメリカ食品衛生局の前で、黒いサングラスの男が携帯電話でやりとりする場面が映されます。「ハッキングは開始された。プログラムM317を実行せよ。」という電話の向こうからの呼びかけに、「了解」と黒いサングラスの男が答えます。巨大なキャタピラが、食品衛生局につっこみ、数人の男がマシンガンを乱射します。黒いサングラスの男は、廊下を駆け抜け、「関係者以外立ち入り禁止」とかかれた資料室の前に来ます。そして、「暗証番号の解読は終了。****。」という携帯電話の声に応じて、男は資料室のドアの右側の部分に、ブルーのIDカードをつっこみ、暗証番号を入力します。資料室のドアが開かれ、男は資料室の中に入ってゆきます。そして、数あるファイルの中から、ライヒ関係の極秘文書を探し始めます。警備員が、「そこでなにをしている。」と叫びますが、背後からマシンガンを持った男に狙撃されます。最後に、ライヒの手稿を大写しにして、この映像は終わります。……不審なことに、エリア51襲撃事件も、アメリカ国内にトマホークが2発発射された
ということも、食品衛生局が襲撃されたということも、ニュースでは流れず、ネットでも公式ニュースとして流れていないということです。ちょうど、そのころ、食品衛生局に車が突っ込んで、ブルーのビニール・シートで囲われていたのを映し出したニュース映像がありましたが、ニュースではこれを単なる交通事故として触れていただけです。いくつかのサイトでこれらの事件に触れたものがありましたが、これらのサイトの背後に「KNIGHT」がいるのではないかという疑いはぬぐえません。公式ニュースとして流れないことについて、「KNIGHT」は、MIB、つまり黒服の男によるUFO情報のもみ消しがあったという見解を発表しています。しかし、「KNIGHT」の陰謀史観による説明では、無理があると思うのです。無論、「KNIGHT」会員の中には、この映像を世界の秘密を語った黙示であると受け止めているファナテックな連中もいるわけですが。ただ、ライヒの未発表原稿は本物のようです。ライヒの筆跡について調べてみたのですが、「KNIGHT」の所持している手稿は本物だと確信しています。あの映像が本物ではないとすると、どうやって入手したのか、疑問が発生するのは事実ですが。」


「やはり、なにも起こらないか。」
モニターの中には異常は見当たらない。
また、脳波の異常も見られない。
<力(アンタンシテ)>を持つものならば、右脳と左脳が連動して、温度変化が見られるはずだが、それもない。
一体、「超能力戦争」で棟方が描いてみせた念力放火は、全くのフィクションだったとでもいうのか。
少なくとも、棟方の描き様は、<力(アンタンシテ)>について知っているというより、<力(アンタンシテ)>を持つものとして描いているような印象を持ったのだが。
やはり、嘘の上手な小説家に過ぎなかったか。
怪人Mは、余の真意を知らない。
怪人Mは、余の拉致や撲殺の命令などを、根拠のない戯れで行なっていると勘違いしている。
余は、怪人Mに真意を知らせる必要も感じない。
怪人Mは、汚れ仕事専門の下僕、それでいい。
余は、数年前の「KNIGHT」による精神革命を想い出す。
あの事件は、世界の人々の精神構造を確実に変えた。
その革命は過激すぎるがゆえに、反発を招いた。特に従来の宗教の既得権益に絡んている人には。
しかし、三ツ木によるこの世での永生の証明は、ここ数年間を経て、確実にポディブローのように効いて来た。
三ツ木によれば、宗教を信じるものも、信じないものも、等しく死後、魂がこの世に残存する。
三ツ木の科学的な証明により、既成宗教は確実にダメージを受けた。
統計によれば、どの宗教宗派にも属さない無神論者が、世界中で急増したという。
三ツ木のもたらしたものは、自由であった。しかし、それは、ぞっとするような極限的な自由であった。
宗教の衰退とともに、モラルの崩壊も起こった。
警察によると、無差別殺戮や、発作的な殺人、家庭や学校での殺人の件数が急増した。
三ツ木によれば、道徳的なものも、不道徳なものも、等しく死後、魂がこの世に残存する。
そして、世界には天国も、地獄もなく、神の裁きも、閻魔様による裁判もないという。
こうして、悪に対する歯止めがなくなった。
規範というものがなくなったのである。
人々の大勢は、刹那的な快楽主義生活を送るようになった。
行きずりの殺人や、暴力、略奪が増加した。
こうして、ごく一部の人々が現代から眼をそむけ、極端に禁欲主義的な生活を送るようになる。
それが、極端さは、信頼すべき宗教的・道徳的制度がすでに崩壊し、自己流になったからである。
極端な禁欲生活の果てに、自殺や絶食に至るものも現れた。
余は、三ツ木の行動に、終始同伴していたものだが、三ツ木のもたらした極限的な自由には反対であった。
人間のほとんどは、このような極限的な自由に耐えられない。
人間のほとんどは、神も、理想もない世界で、自分の立法だけに従い生きることなど出来ないのだ。
三ツ木のもたらした世界は、何が善で、何が悪か、自分で決定する世界であった。三ツ木がそう望まなかったにせよ、そういうことだ。
既成宗教の権威を引きずり落とした後で、三ツ木は自らを神格化して、三ツ木による新しい規範を提示して、人々を導くという道が残されていた。
しかし、三ツ木は自らの神格化を拒否した。
それどころか、周りが三ツ木を神格化するのを拒否するために、自分はこの世の永生を証明するために、さまざまなところに分散した知織を、あらゆる手段を使って収集したといい、あらゆる手段には殺人や盗みも含まれるといった。無論、三ツ木は、偽悪人であり、三ツ木が吹聴した犯罪にはフィクションが混じっているのを、余は知っている。
しかし、多くの人は、何が正しく、何がまちがっているかを、自分で判断するということに、耐えられるとは、余は思わない。なぜなら、何が正しく、何がまちがっているかを、自分で判断するとき、その根拠は何もなく、始終暗闇を歩くような不安な感覚に襲われるからだ。
支配的3パーセントという言葉がある。肉食獣でも、何でも、リーダーになる奴は、3パーセントしかいないということだ。
人間においても、何が善で、何が悪か決定できるような強者は、3パーセントしかいない。
残り97パーセントは、三ツ木の用意した神のない極限の自由など、不安で、不安で、耐えられるはずなどないのだ。
余は、三ツ木のもたらした精神革命を、180度改めようと考えた。
極限の自由に変えて、極限の専制である。
97パーセントの奴隷たちに、新しい神を用意することである。
彼らを支配する3パーセントの者は、この神には根拠がないことを知っているが、極限の自由に耐ええる者たちだから問題はない。
余は、新しい神のもとでの統一的な秩序の準備のために、ひとつだけ懸念事項があることがわかった。
それは<力(アンタンシテ)>を持つ者の存在である。
<力(アンタンシテ)>は、ニューオーダーのために役立つものならば良いが、ニューオーダーに反するものならば、排除せねばならない。
神秘は、我々が独占する。
我々の認めない神秘は、抹殺されねばならない。

これが余の判断である。

殲滅という言葉は、余を陶酔させる。我々はニューオーダーに反するものを、ことごとく殲滅するであろう。それが刑法上の殺人という悪だとしてもなんだというのか。余はすでに善悪を超えた存在だ。
余は立法する。ニューオーダーに適合するものが善であり、ニューオーダーに反するものが悪だ。刑法や世間的なモラルがなんだというのか。刑法や世間的なモラルといえども、ニューオーダーに反するものは、悪であり、殲滅の対象だ。
これは、一種の戦争なのである。
戦争という真の意味を、世間の大多数は知らない。戦争というだけで、戦争を知らない世代は、悪であり、断罪せねばならないと説く。だが、自分の行為を善として確信し、自分の行為に陶酔せずに、なぜ何万、何億の人間を殲滅できるというのか。
平和ぼけした連中は、殺人自体が悪なのだから、戦争が悪なのは自明の理なのだという。それは、状況の中にどっぷりと浸かっておらず、傍観者として見ているもののいいぐさだ。
いいか。戦争遂行者は、自分の行為を善にして、聖なるものとして遂行する。戦争遂行者は、自分の虐殺行為に酔いしれ、血を浴びることに、悦楽を感じている。
虐殺行為のさなか、戦争遂行者の脳髄の中を覗いて見るならば、A10神経を脳内麻薬物質ドーパミンが駆け巡っているのを発見するだろう。
虐殺者に、自身が善であることを確信させるものが、言語ウィルスであり、ロジカルなイデオロギーである。
余は、殺人を正当化する言語ウィルス、虐殺行為を神聖視する論理を発明し、提示するであろう。
ニューオーダーこそ、そのロジックの要である。
余の新秩序は、シークレット・ドクトリンの独占と、ハイパーテクノロジーの知の独占によって成り立つ。
このふたつの知をもとに、官僚制(ビューロクラシー)をもとに、権力を隅々まで浸透させる。
官僚制とは、もっとも効率的に、権力を行き渡らせる方式である。
つまり、権力のエコノミーに合致するということだ。
ところで、我々のニューオーダーにとってやっかいな存在は、<力(アンタンシテ)>の所有者である。要するに、超能力者ということだ。彼らの存在は、我々の神秘の独占原則に反し、強いては我々のニューオーダーに反する可能性がある。
この場合でも、ニューオーダーに適合するものは善であり、適合しないか、適合しない可能性があるものは、悪だ。
しかし、棟方は<力(アンタンシテ)>の所持者ではないのか。

棟方は自身の作品「超能力戦争」で、<力(アンタンシテ)>の保持者ではないとわからないような念力放火のスイッチの入れ方を示した。棟方の描写は、我々の秘教的な生命哲学に合致している。
仮に、棟方が本物だとすれば、それは我々の抱えている能力者を超える存在である可能性がある。
我々は、棟方が作品で描いたような能力者の原石が欲しい。
だが、棟方の能力が本物だとしたら、棟方の持つ思想は我々にとって危険なものになる可能性がある。
余は、見極めたい。
棟方が本物かどうかを。
「棟方よ、目覚めよ。」
余は、棟方のヘッドギアにベトナムのハノイの映像と、ヘリから銃が連射される音声を送信することにした。


棟方冬紀の失踪に関して、棟方個人のみの事件ではなく、同時期に<起きた-起きつつある>失踪事件のひとつとして、マクロ的に扱うことは出来ないだろうか。
そのためには、警視庁の膨大なデータベースに潜入して、同時期の失踪者のリストを引き出すことが不可欠になる。「<シンクロナイズド・スイミング>か。まるでノイズみたいじゃないか。」とわかる人にしかわからない符丁をひとりしゃべりしながら、箟祐司は五号館のエレベータに飛び乗った。
箟祐司は、すばやい速度で、停止階のボタンを4つ押した。この番号は、毎日変更になる。解読のためには、本日の日付と乱数表が必要になる。
箟が乗り込んだエレベータは、5階を素通りする。暗証番号を押さないことには、5階には停止しない。
5階は、電算ルームになっており、ここで膨大な成績データが処理される。
しかし、本日はそれが目的ではない。
箟は、誰にも見られなかったことを確認すると、一番奥のブースに入り込んだ。
パソコンを起動させ、外部の回線に秘密裏に繋ぐ。
実は、この電算ルームは外部の回線につながっていない。厳密に言えば、外部の回線に繋ぐこと自体、職務規定違反である。ましてや、ここから警視庁中枢のホストコンピュータにハッキングを試みることなど……。
凄まじい勢いで、キーボードを打ち込んでゆく。
やはり、警視庁中枢だけに、ファイヤー・ウォールは予想以上に手ごわい。
それでも、手を変え品を変え、難攻不落の壁を攻略してゆく。
届くか、届かないか。
あと一歩というところで、画面が異常警告を告げた。
「気づかれたか。」
しかし、壁は突破したはずだ。
あとは、データを落とすのが早いか、シャットダウンが早いか、だ。
膨大な情報量のデータがMTに落とされる。
そのために、ここを使用することにしたのだ。
「次に、こちらのデータとの照合だ。」箟は、MOを取り出した。
今日の日までに、箟は天藤尚巳の最近の行動について調査を進めてきた。
現在のところ、天藤の所在は、誰も知らない。
連載中の「ウロボロス」最新作も、ミステリー図書館の新作も、第二作の漫画も、本格ミステリーベイシックスの仕事も、放棄して、どこかに消えたという。
天道が、棟方の失踪について調査をしているのは、事実だった。
天藤は、棟方の「天啓」シリーズに対抗する「ウロボロス」シリーズを出しているために、今回の事件について、警察によって事情聴取されたらしい。
しかし、天藤が探偵のまねごとをはじめたのは、自分が疑われていると考えたからだけではない。
編集者の美加佐慶介が、棟方の失踪について調べ、それを小説にすればいいとそそのかしたというのだ。
しかし、棟方の失踪に関し、どこからしらべたらいいか判らないという天藤に、美加佐慶介はヒントを与えたという。
「君も、ミステリー作家ならば、<究極の密室>に興味があるよね。棟方はどうも<究極の密室>の所在に気づいたようだ。彼は<究極の密室>の探求に専念した。あらゆる仕事を放棄してね。だが、探求に専念するあまり、触れてはいけない禁忌に触れてしまったようだ。いいかい。<究極の密室>の秘密がわかったら、必ず小説化して、作品を僕のところに届くようにすることだ。それまでは死んではいけないよ。」
すこぶる勝手な要望だが、美加佐は、天藤の生死よりも、天藤の次回作が欲しいようだ。
天藤は怒りを覚えながらも、<究極の密室>という言葉に、食指を動かされた。
それ以来、黒眼鏡に、黒いコートで、探偵を気取りながら、天藤は街を徘徊しているという。
しかし、さすがにミステリー作家だけのことはあり、天藤は早々とある情報をつかんだという。
第一に、棟方はネット上で、<究極の密室>の手がかりをつかんだらしい、ということ。
第二に、棟方は<究極の密室>の秘密を握るある組織に接触を試みたが、逆にその組織に眼をつけられ、追われる身になったということ。
第三に、失踪寸前に、棟方もまた黒眼鏡に、黒いコートという天藤そっくりのいでたちで、謎の組織に逃げまどっていたということである。
天藤は、どうやらある組織に目をつけたようだが、箟はまだその組織を特定出来ていない。
ただ、いくつかの候補はある。
<究極の密室>について触れた膨大なホームページから、箟はいくつかの候補を搾り出した。
そして、ある組織の掲示板に投稿している人のうち、メールアドレスを公開している人にメールを打ってみた。
その結果、驚くべきことがわかった。
高い確率で、本人からのメールの返信がなく、本人の身内からの代わりの返信が来た。
それは、本人は失踪中で、手がかりを探している。本人について、何か知っている人ならば、何でもよいから教えて欲しいというものであった。
箟は、メールを出していない人に関しても、失踪者がいると踏んだ。
そして、IPアドレスなどあらゆる情報をもとに、読み取れる情報を取り出し、失踪者名簿とつきあわせて見ようと考えたのである。
答えは、ビンゴであった。


「吸い込まれそうな青だ。」
三ツ木は、天井のプラネタリウムを見上げた。
「これは?」
「KNIGHT」会員の雛子が尋ねた。
「これはアクアマリン。光っているのはホタルイカだ。ご覧。カメラが近づいてゆく。」
「KNIGHT」本部ビルの最上階は、プラネタリウムになっていて、夜空はもちろん、さまざまな映像を映し出すことが出来る。三ツ木が最上階をプラネタリウムにしたのは、星や、その他自然の映像を見て、人間の意識を宇宙全体に拡大させるためであった。つまり、このプラネタリウムは、メディテーション用であった。
「凄い数ですね。」
「そう、ホタルイカは群れで移動する。この群れ全体で、ひとつの生物と看做すことができる。」
「どういうことですの。」
「それはね。ホタルイカには優れた眼がついている。したがって、かなりの情報量の画像が感覚器から入ってくると考えられる。しかし、それだけの情報を処理するには、一匹のホタルイカの脳はあまりにも小さく、処理できるとは思われない。これは、ライアル・ワトソンの仮説なんだが、一匹のホタルイカは、巨大な脳を形作る脳細胞のひとつであり、群れ全体が巨大な脳であり、ニューロンの代わりに群れ全体で何か情報交換を可能にするコミュニケーションがなされているのではないか、ということだ。」
「興味深い説ですね。その情報交換を可能にするコミュニケーションとは何でしょう。」
「うーん。それがわかれば、この仮説は立証されるのだが……。まだまだわからないことだらけだよ。海の中も、宇宙の果ても、心の中も……。」
三ツ木は、いつしか「KNIGHT」全体のことを考えていた。
「KNIGHT」もまた世界各地に感覚器を張り巡らせている。
感覚器から取り入れられたデータは、三ツ木のところに集結されてくる。
しかし、この恩恵はいつか全世界の人々に贈り返さなければならないだろうと、三ツ木は考えていた。
此岸での永生という観点からみた現在の成果。
第一調査室は、W・ライヒの未発表原稿の入手に成功した。ライヒの未発表原稿は、オルゴン・エネルギーに関する様々な実験データであった。これにより、オルゴン・エネルギー実在説に、また一歩近づくことができた。オルゴン・エネルギーとは、生体エネルギーのことであり、三ツ木の関心はオルゴン・エネルギーが生体を離れて実在するならば、死後生存の可能性が高
くなる。ライヒの実験データは、オルゴン・アキュミュレーターでのオルゴン・エネルギーの採取と保存、クラウトバスターでのオルゴン・エネルギーの転用を可能としており、生体を離れて実在することを暗示していた。また、第一調査室は、ジョン・C・リリーの研究も行い、ビタミンKという
ドラッグを摂取して、アイソレーション・タンクという感覚遮断装置に入ると、最終的にECCO(地球暗号制御局)の実在に行き着くという。このECCOの存在に三ツ木は関心を持った。これは神の実在もしくはハイヤーセルフの実在を暗示していると三ツ木は考えたのである。ティモシー・リアリーはLSDの研究によって、ハーバード大学を追放された人物だが、環境や学習による人間の条件をLSDは解除し、再条件付けを可能にするという。注目すべきことは、ティ
ム・リアリーはLSDを人間の解放に利用しようとしたのに対し、研究成果をティムから奪い、弾圧したアメリカは、その後LSDをCIAの洗脳のツールにしたということだ。ティムは、チベットの死者の書にもサイケデリック解釈を行なっており、チベットのバルド・トゥドルという経典の内容は、ドラッグを摂取した際の幻覚体験と同一という指摘をしている。要するに、ティムがドラッグを使用したのに対し、チベット人は、人が死に、次の生に転生するまでの49日間をノンドラッグのメディテーションで成し遂げたということだ。ティムは、ドラッグを使ったセッションで被験者を導くのに、バルド・トドルを使用している。そして、ロバート・アントン・ウィルソンは、ドラッグとセックスを結びつけることで、人間の解放を極限にまで推し進めようとした。ロバート・アントン・ウィルソンは、グルジェフやクロウリーらのオカルティストのテクストに示し合わせたように出てくるシリウス(犬狼星)に注目した。ロバート・アントン・ウィルソンによると、世界革命を引き起こそうという謀略団体イリュミナティは、シリウスのコントロールを受けているのではないか、という。
三ツ木は、ロバート・アントン・ウィルソンの陰謀史観には、必ずしも組しなかったが、アフリカのマリ共和国に住むドゴン族の古代から伝わる伝承に、シリウスが二連星であるというものがあり、このことは20世紀の天文学により証明されたが、ドゴン族が知っていたことは、シリウスに何かがあることを印象付けた。
第二調査室は、アイルランドに渦巻く妖精譚の採取や、魔女術のバイブル「影の書」のヴァリアント(異文)、ケルト特有の渦巻の文様のある聖書の写本などを送ってきた。ことに、ケルトの音楽は三ツ木を愉しませ、プラネタリウムを見ながら、ケルトの音楽を流すのが日課になった。
第三調査室は、ロシアからN・F・フョードロフ、V・S・ソロヴィヨフ、S・N・ブルガーコフ、K・E・イィオルコフスキイといった知られざる思想家の著作を大量に送ってきた。これらの思想家は、人間の不死、生命の誕生、宇宙の生成などについて触れており、三ツ木を大いに愉しませた。
また、ドストエフスキーの創作ノートの原典からのコピーも送ってきた。ドストエフスキーが晩年に構想していた「大いなる罪びとの生涯」について、実現していたらどんな話になるだろうと想像をたくましくした。ロシアのオカルティストについては、特にグルジェフに魅せられた。グルジェフが世界各地に仲間を派遣し、秘教の伝統を復元しようとした話は、三ツ木自身を連想させた。また、遠隔地からヤクを殺すこともできるといったというエピソードに、三ツ木は強い衝撃をうけた。身体を独立した意志の力の実在を意味するからである。グルジェフについては、ウスペンスキーの知性によって理解を促進される面が大きかった。
第四調査室は、葛洪の『抱朴子』の研究書を数多く送ってきた。『抱朴子』は、不老不死の仙人になるためのテクストであった。不老不死に関して、『抱朴子』は呼吸ということを重視していた。三ツ木は、<気>をオルゴン・エネルギーと同一視していた。
第五調査室は、チベットから虹の身体に関する情報を送ってくれた。中国から侵攻を受けたとき、チベットのラマは、中国兵が踏み込む寸前に、自分の身体から意識を極楽浄土に飛ばして死んだという。ポアとは、このような意識の転移を意味するのであって、人を殺害することを意味するのではない。三ツ木は、日本のカルト教団によって歪められた情報が飛び交うことを苦々しく思っていた。さらに、得を積んだラマは、死ぬとき、自分の身体すら、この世に残さないという。身体は縮み、子供のようになり、やがて消失し、衣類だけ抜け殻のように残るという。
そして芳しい香りが立ち上がり、空には虹がかかるという。ミルチャ・エリアーデは、『ホーニヒベルガー博士の秘密』という幻想文学を書いているが、そのなかでチベットの虹の身体の研究をしている博士を登場させている。博士の研究は嵩じて、やがて実践に至り、博士は鍵のかかる完全な密室で消えるという。衣類だけ抜け殻のように残して。博士の周りには、様々な文献が山積になり、そこには虹の身体になる技法も書かれていたという。実は、このルーマニア人の宗教学者は、チベットで修業体験を持っており、それでこのような物語を書いたのである。
第六調査室は、ユダヤ人大量虐殺に行き着いたナチス=ドイツの選民思想の背後に潜むオカルト文献を大量に送ってきた。「二十世紀の神話」からはじまり、ヴリル協会やトゥーレ協会の発行していた文献であった。チベットのシャンバラに調査団を派遣したり、ロンギヌスの槍の獲得に精を出したアドルフ・ヒットラーは、生粋のオカルティストであり、オカルトの秘儀を独占
するために、やがてオカルト結社の弾圧に乗り出すのである。ルドルフ・シュタイナーのゲーテアヌムの焼き討ちも、ヒットラーのさしがねである可能性が濃厚である。三ツ木は、ヒットラーの最終目的が、強大なドイツ帝国の建設というよりも、一切の総破壊による人間の意識の身体からの開放ではないかと思い至って、ぞっとした。
第七調査室の調査は、英国黄金の暁会に関してであった。黄金の暁会の法具は、必ず自分でつくるという。おそらく、無意識下でその法具を関連づけるためであろう。彼らの儀礼魔術は、無意識下の力を使用して現実を改変する方法であったと三ツ木は思う。
第八調査室は、平田篤胤の「仙境異聞」と「勝五郎再生記聞」に関する研究を報告してきた。
「仙境異聞」は、江戸で天狗小僧と呼ばれていた寅吉(15歳)へのインタビューが基になっている。寅吉は7才の時に天神の前で薬商の老翁に岩間山の神仙界に連れられてゆき、そこで杉山僧正という山人の弟子になったという。また「勝五郎再生記聞」は、文政5年に前世を記憶しているという勝五郎に会い、インタビューをした記録である。「仙境異聞」についていえば、若きルドルフ・シュタイナーが、やはり薬売の男に出会い、時期が来るまで、自分の霊視能力は伏せておいたほうが身のためだと諭されたエピソードを連想させた。かつての薬学は、秘教的知織と結びついていることが多かったのである。また、山中の神仙界ということは、南方熊楠が山に入ると、脳力が高まって、霊を見るようになると語っていたことを連想させる。山が異界であるということ、森林浴で脳が活性化することが関連しているのだろうか。「勝五郎再生記聞」に関しては、ダライ・ラマの死後、生まれ変わりを探し、生まれ変わりが、前世のダライ・ラマ本人しか知り得ないことを覚えていたら、後継者として認定するという話を連想させた。勝五郎もまた、前世の自分が生まれた家や、前世での父母を覚えていて、本人しか知り得ないことを語ったという。


死蝋のように、指先が溶けてゆく。
体中がふやけて、白く透明になり、ぶよぶよになり、溶け出してゆく。
境界とはなんだろう。
自己と非自己の境界とは。
皮膚の境界があいまいになり、周りの溶液がぬるぬる絡まる。
自分はどうしてここにいるのだろう。
そもそも自分とは何だろう。
判らない。少し前までは、時折思い出していた気もするが、いまとなってはどうでもいいことだ。
これが実存しているといえるだろうか。
ハイデッガーのいうザインではない。このようにふやけた液体と固体の中間状態を、ハイデッガーは断じて「覚存」とはいわない。
ただ単にある。
おぞましい生と死の宙吊り状態の中で、単にある。
名前もなく、ぬっぺらぼうな存在として、単にある。
「イ・リ・ア ……」
ふと、イリアという言葉が浮かぶ。
なんだったろう。意味が浮かばない。
以前、それについて、考えていたことがあったような気がするが、はっきりと思い出せない。
「イ・リ・ア ……」という言葉を浮かべるとき、なぜか死体の山を思い浮かべる。
まるで、廃材か、ゴミであるかのように、積み上げられた死体の山。
黒ずんだ穴ぼこの中に、無造作に投げ込まれる死体の山。
死体から皮膚を剥ぎ取り、ランプシェードにした女の写真。
まるで、自分のようじゃないか。
自分の名前が思い出せない。
名前づけられることは、他者と関係付けられることだ。
自分が自分の名前を思い出せないのは、もはやそれが不要だと諦めているからではないのか。
名前を喪うことは、社会性を失うことだ。
うっ。
強烈な赤が、脳の中に映し出される。
とっさのことにそれが何なのか、理解できない。
灼熱の太陽の画像だ。
強烈な光に、街の光景が映し出される。
日本ではない。どこだ。
脳がキリキリと痛む。
何か電気的なパルスで、強制的に神経回路に画像を流し込んでいるのだ。
草むらがみえる。
ヘリの音が聴こえてくる。
すざまじい旋回音だ。
ヘリが連続射撃を加えてくる。ババババーン!
射撃によって、草がちぎれ、吹き飛んだ。
逃げなければ。逃げなければ。
自分はなぜかが画像の中に取り込まれて、だだ逃げるだけの存在に成り代わっている。
自分は誰なのか。
東洋人だ。
なぜか、自分が逃げ惑う姿を、自分は対象化して見ることができる。
痛い。
弾丸が右腕を掠めた。
これは幻想ではない。
逃げなければ、自分が死ぬ。
多分、自分を見ている自分も死ぬ。
全力を出すのだ。全力を。
岩陰がある。
かまわず、岩陰に飛び込む。
岩陰には、ずっと掘られた道があり、ここが射撃をかわすための場所であることがわかる。
ヘリは、射撃を続けながら、自分の上を通過した。
しかし、油断する間もなく、タンクが近づいてくる。
だめだ。敵は自分を追ってくる。
執拗に。執拗に。
ふと、これは自分を追い詰めるためのプログラムではないかと思う。
だが、それを確かめることはできない。確かめるために、銃弾を浴びた瞬間に、本物であれ、ニセの幻影であれ、同じ衝撃でショック死することは確実だった。それは、右腕のいまなお続く激痛が証明している。
確かに長期間の感覚遮断で、自分の世界は、客観的に存在する世界から、自分の夢見る世界にすりかわった。常に、目覚めることのない夢の中を生きなければならないようになってしまった。自分の目にするものは、自分の心の中の妄想が実体化したものになったのだ。
だから、外界からのデータ注入に対し、自分は完全に無防備だ。
おそらく、不十分なイメージデータでも、自分の想像力が、現実と見間違えるほどの世界にしてしまうのだ。<つじつまあわせ>だ。自分の旧友がそう呼んでいたのを思い出した。だが、旧友の名前までは思い出せない。思い出している時間すらない。
ちっ、なんてことだ。
身をかがめながら、全力で右の方に移動してくる。そうこうしている間にも、タンクの音は、間近に迫っている。
堀の中を進んでゆくと、草が生い茂っている場所があり、堀は終わりになっていた。
もうだめか、と思いかけたとき、草の向こうが鍾乳洞になっているのに気づいた。
穴は深い。入り口から、垂直に、相当深く降りている。
だが、躊躇していることはできない。
足場に気をつけながら、鍾乳洞に降りてゆく。
岩がぬれており、足元が滑る。
あっ、危ない。足をかけた岩場が、もろく崩れた。暗闇に堕ちてゆく。
自分は不覚にも気を失った。

全てを還元する……私が私となる前に……全てを還元する……私が名づけられる前に……全てを還元する……<私-私>の呼びかけの対象関係の前に……全てを還元する……<私-あなた>の呼びかけの対称関係の前に……全てを還元する……<私-汝>の呼びかけの対称関係の前に……全てを還元する……偶然にうたれた点をもとに、言語が象徴界を形作る前に……全てを還元する……無意識の奔流が始まる前に……全てを還元する……世界が物質としての世界の形をとる前に……全てを還元する……時が刻み始める前の本然のありように……全てを還元する……そうすれば、うまくいくだろう……そうすれば、苦痛のない世界に。

「リューオー、目覚めろ。<アンタンシテ(力)>を見せてみろ。」
冷たい銃が突きつけられている。
そうか、これは罠だったのか。すべてはここに追い込むための……。
「リューオー、お前に力があるのなら、俺に力を振るってみろ。お前は、念力放火の達人ではないか。」
念力放火?なんのことだ。この男は酷い勘違いをしている。
「直ちに念力放火の力を見せないのなら、この場で俺はおまえの命を断つ。頭の中で、スイッチを入れるのではなかったか。カチリ、カチリと。あるいは、現実を渾身の想いで、蹴るのではなかったか。」
蹴る?カチリ、カチリとスイッチを入れる?
なんとも、馬鹿げたことだが、なんとか命をつなぐためには、この男の妄想に付き合ってやるしかないようだ。
銃を持った男のまなざしをにらみつけながら、私は頭の中で現実を蹴って、蹴って、蹴りまくった。

畜生。なんてことだ。なぜ、楽にさせてくれないんだ。

世界は生の初めに暗く、昏く、冥く、生の途中に、暗く、昏く、冥い。Cry,cry,cry.なんという暗い生なのか。
私は間もなく終わる。終わる。終わる。
私は何なのか。私は私なのか。私は名づけられた私なのか。
私は私の役回りを演ずる。私は私であるかのように、私の役を演ずる。

畜生。蹴って。蹴って。蹴りまくれ。

「うっ。」その瞬間、男が仰け反った。男の額に十文字の傷が出来ていた。
これが現実のことなのか。模造記憶なのか、わからない。
「よくも、おのれ。」逆上した男は、私のこめかみに銃弾を発射した。


木洩れ日が射してくる。
青い空に鋏を入れるように、飛行機が白い線を描いてゆく。
この喫茶店から、自衛隊の基地が近い。飛行機も、自衛隊基地に向かうものだ。
箟は現在、白いブラウスに赤いスカートという服装の22、3歳位の女性と向き合っている。
相手に合わせて、メロン・クリーム・パフェが目の前に置かれているが、夏の日差しのせいで、徐々にアイスクリームが溶けかかっている。
「桜井雛子さんでしたね。生前の三ツ木降輔氏に、最も信頼されていたという……。」
「それほどのことはありませんわ。ただ、あのひとの傍らにいたというだけで、あの人の深淵に触れたわけではない……。」雛子と呼ばれた女性は、はにかんだように微笑んだ。
「今日、あなたと会う約束をしたのは、「KNIGHT」に関してではなく、「KNIGHTS」について伺いたかったからなのです。正確にいえば、「KNIGHTS FOR NEW ORDER」ですね。三ツ木降輔氏は、生前「Zone CORPORATION」の総帥として実業界で知られていましたが、「KNIGHT」という秘密組織については知られていなかった。それは、伏せられた存在だったといえるでしょう。
「KNIGHT」の存在が知られるようになったのは、三ツ木氏の劇的な公開自殺を通じてでした。」
「ええ、あれは私にとっても、衝撃的なことでした。未だに、あのときのことを考えると、黒い闇が目の前に広がるようで、冷静に考えることができないのです。あの人が、あのような奇想を抱いていたということ、しかも、私はかたわらにいながら、それに全く気づかなかったことは、いまでも歯がゆい想いがします。もし、仮に事前に察知していたとしても、あの人の人類への愛に根付く信念を、容易に変えることはできなかったでしょうが。」
「三ツ木氏は、あのような死を選ばなかったとしても、さまざまな病をかかえていたそうですね。」
「ええ、三ツ木は肝臓と脾臓に進行性の癌を患っていました。三ツ木は、自分はもう長くないということを、私に語りました。私は三ツ木と結婚し、いっしょに暮らすことを望んだのですが、三ツ木はもうすぐ死にゆくものを愛してはいけないと、私に指一本触れませんでした。」
「すみません。辛い記憶を想い出させてしまったようで……。」
メロン・クリーム・カフェの中の氷が溶け、音を立てた。
「「KNIGHTS」というのは、恐ろしい組織ですわ。三ツ木の後継者を名乗る笠部尭平という男は、三ツ木のような愛がない。あの男にあるのは、権力への欲望だけなのです。ご存知のように、「KNIGHT」は世間的に知られるようになった時点で、その精神的指導者を無くしていました。しかし、三ツ木の残した膨大な神秘学のデータベースにアクセスする人は、殺到し、「KNIGHT」の正会員は急激に膨れ上がりました。三ツ木は、「KNIGHT」の教義を宗教ではないとし、他の宗教・宗派の人が「KNIGHT」の準会員として重複所属することを認めましたから、準会員を含めると、「KNIGHT」は世界最大の会員数を持つ結社となりました。「Zone CORPORATION」と「KNIGHT」の後を継いだのは、笠部という男ですが、生前三ツ木は私に「笠部は指導者としては有能だが、スターリンとなる可能性があるから、「KNIGHT」の民主的な決議システムだけは維持しないといけない。」と語りました。三ツ木の不安は的中し、笠部は「KNIGHT」の内実をすっかり変えてしまいました。組織名を「KNIGHTS FOR NEW ORDER」と改称し、世界各国の「KNIGHT」を新秩序の名のもとに統合するのだと主張し、新組織の綱領を制定しました。旧「KNIGHT」の幹部は、強制的に除名させられ、笠部の独裁体制が出来ました。
あの男の武器は、「Zone CORPORATION」が持つ第四世代プロトコルの独占的権利と、三ツ木が収集した膨大な隠された知の体系なのです。今日では、第四世代プロトコルに支えられたコンピュータ・ネットワークなしに、人々は一日たりとも生活できないし、隠れた知の体系なしに、安らぎに満ちた精神生活を送ることもできない。このふたつを掌握することは、全世界を跪かせたも同然なのです。笠部は、「KNIGHTS FOR NEW ORDER」に、徹底した官僚制を敷き、全世界に彼の意思が伝わるようにしたのです。」
箟は、桜井の前に、リストを出した。
「これは、ここ数ヶ月で「KNIGHTS FOR NEW ORDER」のホームページにアクセスし、その掲示板に投稿した人のリストです。ハンドル・ネームの人もいますが、そうでない人もいます。
「KNIGHTS FOR NEW ORDER」には、会員登録フォームもあって、この掲示板に投稿した人の多くも、会員になっているようです。自分のハンドル・ネームの後ろに、@を入れ、その後八桁の英数字を入れていますが、これが会員番号です。会員登録フォームには、氏名・郵便番号・住所・電話番号・携帯電話番号・メール・アドレス・生年月日といった基本事項以外に、「KNIGHTS FOR NEW ORDER」に関するアンケートがあり、登録者の関心・趣味・嗜好・能力といったことを聞いています。例えば、「KNIGHTS」にどのような知を求めるか、といった項目があり、超能力・UFO・未確認生物といった事項が並んでいます。会員登録データは完全に保護されており、見ることはできないようになっています。私は、掲示板投稿者にメールを送り、高い頻度で投稿者が失踪していることを発見しました。そこで、掲示板投稿者は、同一のハンドル・ネームで他の掲示板に投稿しているケースも多く、検索に検索を重ね、投稿者のIPアドレスやメール・アドレスなどを解読しました。これを警視庁の失踪者リストの情報とマッチングをさせ、失踪者と断定できた人に、マーカーをしました。無論、解読は不十分で、これ以上に失踪者はいると考えられますが、それにしても32人の失踪が確認できたことになります。つまり、私はこの失踪の影に「KNIGHTS FOR NEW ORDER」が関与していると考えます。」
桜井は、大きく目を見開いた。瞳の奥には、明らかに怯えの感情が伺われた。
「十分ありえることですわ。十分……。しかし、なにゆえに。」
「おそらく、会員登録のアンケートから、ある種のタイプを搾り出しているのですよ。失踪者の多くは、警察の捜査によって、事件性が確認されている。強制的に連行されている形跡があるのです。つまり、組織にとって、望ましくないタイプの人間を排除するために、強制的に拉致されているのです。飯尾さんは、棟方冬紀という作家をご存知ですか。」
「ええ、最近、ワイドショーでとりあげている……。」
棟方失踪事件は、連日、ワイドショーの話題となっていた。短期間のうちに、棟方の名前は、日本中を駆け巡ったのである。
さらに、週刊誌は棟方失踪直前に、推理小説の新人賞をめぐって、原口武雄が天藤直己の名前で応募した作品の怪について伝えていた。天藤直己は、棟方のライバル作家天藤直巳をもじったペンネームであり、やはり天藤直巳の「ウロボロス」シリーズという連作をパロった「ウロボロスIV」という作品で応募してきたのである。「ウロボロスIV」は、第一次選考を通過したが、
今度は天藤直己の代理人と称する男が、第二次選考前に加筆・訂正を行いたいと、審査員のもとから原稿を回収して回ったという。そして、再度、加筆・訂正したと称して、原稿と審査員分の原稿コピーが棟方の下に届いたのだが、これは「ウロボロスIV」とは、似ても似つかぬもので、全く別の作品であった。作品名は「天啓の骸」といい、明らかに棟方の「天啓」シリーズという連作をパロった内容であった。しかも、内容は、棟方のバリ時代のスキャンダルに触れたという悪意に満ちたものであった。スキャンダルは、棟方がバリ時代に、3人の殺人を行っているのではないか、というもので、週刊誌各誌は、その裏づけにパリに取材に向かい、登場人物のモデル探しを始めたのである。
ワイドショーは、週刊誌の内容を取り上げ、棟方失踪の影に、原口という謎の新人作家ありとの報道を繰り返した。
原口がバリから帰国後借りたマンションにも、レポーターが詰め掛けたが、そこはもぬけのからであった。
そこで、TVは、「真犯人ゆえの逃亡か」と報じ、パリ取材によって入手した原口の写真を放送したのである。
「実は、棟方冬紀も、掲示板に投稿した一人でしてね。棟方のハンドル・ネームは<かばたん>です。」

究極の密室を求めて
投稿者:かばたん   ××月××日××時××分××秒  
どうも。はじめまして。かばたんです。
究極の密室を求めて、このホームページにたどり着きました。
<虹の身体>というのは、本当にあるのでしょうか。あるとすれば、密室のための万能トリックですよね。
実は、かばたんはミステリー作家です。
ミステリー作家というのは、究極のミステリーにあこがれます。
誰もやっていない、誰にも解けない奇抜なやつですね。
ノックスの十戒というのがあって、ミステリーにはうさんくさい宗教的解決とか持ち込めないのですが、もしも誰に対しても<虹の身体>が実在すると説得できるのならば、持ち込んでもかまわないと思っています。
生涯10作のミステリーを書くと明言しているのですが、このへんであっと驚くようなすごいやつをやらないと、だめになるような気がしていて悩んでいるのです。(現代人の煩悶というやつですね。)
どうか<虹の身体>の秘密を教えてください。
いまさら、チベット密教に詳しいニューアカにも聞けないですしね。
その代わり、パリで拾ってきた<飛翔する巻物>を差し上げてもいいです。エノク語って、天使語らしいですね。こんな言葉で書かれたものなんて、ぼくには解読不能ですから。

「どうも、名前が変わると文体がかわるようですが、間違いなく、あの棟方氏です。棟方氏は、かつて『ユートピアの電光石火』で、自分を<かば>と呼んでいます。また、ミステリー作家で10作書くと宣言しているのも、棟方氏です。チベット密教に詳しいニューアカというのは、棟方氏が『スキー型思考』で、殺人カルト宗教の同伴知識人として批判した仲澤晋一氏のことだと思います。実は、仲澤氏の『虹の階段』同様に、棟方氏の『吸血鬼戦争』も、殺人カルト宗教の出家信者が読んでいたのですが、その事実に煙幕を張るために、仲澤氏を攻撃しているのです。
また、<飛翔する巻物>というのは、今話題のルナールさんのところからの盗品です。問題は、作家の天藤直巳氏が棟方氏を追って、行方不明になっていたことですが、これについては先ほど私の知人の原口武雄さんに電話したところ所在の確認がとれました。」

少し前、岐阜の金華山でロープウェイに乗って、原口は山頂にたどり着いた。
解決の糸口もなく、このまま逃避行を続けなければならないのか。
原口は空を見上げた。
初夏の太陽はぎらつき、原口は額の汗をハンカチでぬぐった。
「原口さんですね。」不意に声をかけられ、原口はどきりとした。眼の前には、どこかで見覚えのある顔があったが、すぐに名前が出てこない。
「天藤です。本物のほうの。」
「ええっー。」原口は慌てて、恭しく頭を下げた。
「その様子をみると、どうやらニセモノゆえの罪悪感はあるようですね。」
天藤は編集者の美加佐にそそのかされて、棟方の失踪に関して調査をしていたという。本音をいえば、<究極の密室>の秘密を、棟方から横取りできないかという下心のせいで、そそのかされたふりを演じていただけだという。その結果、「KNIGHTS FOR NEW ORDER」という団体に気づいたという。しかし、その団体は、あまりにうさんくさく、あまりに危険なにおいがした。天藤は、自分は探偵には適任だが、ハードボイルドはジャンルちがいだと考えたという。そこで、棟方の救出は、早々と諦め、警察に任せたという。
「で、ここで何をしているのです。まさか、このあたりに「KNIGHTS FOR NEW ORDER」の隠れアジトがあるとか。」「「KNIGHTS FOR NEW ORDER」の本拠地は、ここではありませんよ。それは、愛知県。ないつを漢字にして、訓読みにすれば地名が出てきます。岐阜県多治見市の甘原の近くです。峠があり、神社があって、奥の院があって、奥に採石場とか、アスファルトの再利用工場があるところ。なんでも、採石場の川を隔てた荒地に、数年前から巨大な建造物が立ち並び始め、そこがその隠れアジトらしいのですが、最近、採石場と、アスファルトの再利用工場の社員が、サリン・ソマン・タブンとおぼしき毒ガスで全員死亡したという事件が起き、棟方さんの件がなくとも立ち入り検査をする予定だとか。ですから、もうすぐ全て明らかになりますよ。棟方さんの生死も含めて。まぁ、これは作家の盛博司さんから仕入れたネタなんですが。彼はあのあたりに土地カンがあって、しかもコンクリートの専門家ですから。今日は、棟方さんが手に入れようとした<究極の密室>ではなくて、別のルートからアイデアをいただけないかと。
その……つまり、この金華山というのは、超魔術で有名なサイキック・エンターテイナーの出身地ですよね。」
どうも、天藤は棟方の生死よりも、超魔術の方に興味が勝ったらしい。
天藤の生死よりも、次回作の原稿を優先する編集者といい、ミステリー業界はどうなっているのか。
原口は、天藤の表情からその真意を読み取ることができなかった。

事件は急展開を見せた。
天藤が予測したとおり、岐阜県との県境に近い愛知県の某町で、「KNIGHTS FOR NEW ORDER」の秘密アジトの一斉捜索が行われた。
大勢の捜査員が、秘密アジトに向かって行進してゆく光景は、異様な印象を与えた。
捜査員の先頭は、カナリアの鳥かごを持っていた。この組織が毒ガスをはじめとする化学兵器の研究に着手している疑いがあったからである。
しかし、秘密アジトの中身は、予想をはるかに上回るおぞましい世界であった。
化学兵器の開発は勿論、人間採集室なる異常極まる部屋があり、磔・拷問にさらされ、眼や腕をもぎ取られたり、火あぶりにされた死体があったかとおもうと、薬漬けにされたり、陰毛を焼かれた大勢の裸の女たちが発見されたりした。
極めつけは、巨大なドーム型の水槽であった。開封手段がなく、捜査陣は長時間かかって、何重もの金属板をプラズマガスを使って切断した。
その結果、水槽内部から、棟方冬紀氏と思われる腐乱死体が発見された。
顔の肉付きも、ぶよぶよに剥がれ落ち、本人との確認が難しいほどであった。
あまりにも痛ましい事件に、この擬似宗教団体への非難が最高潮に高まった。
棟方の死後、彼の部屋からルナールのモデル人物が書いたものとおぼしい「青い塔の惨劇」というミステリー小説が発見されたという。
棟方がパリ在住時に、政治運動家から作家に変貌を遂げた影には、ルナールのモデル人物の影響があるのではないか、との批評が、ミステリー専門誌に載ったのは、それから数ヵ月後のことであった。


選択の余地は無い様に思われた。
此岸での永生の証明は、ほぼ出来ていた。しかし、それが<実在する>と断定するためには、もう一押しが必要だった。
やはり、生贄男は必要なのか。
三ツ木は、つぶやいた。
刻々と、世界中から情報が集められ、巨大なテレスクリーンに映し出されてゆく。
オルゴン・エネルギーの検証データも、次々と映し出されてゆく。
クラウド・バスターの実験の再検証データも、次々と映し出されてゆく。
生体エネルギーは、普段、生体の<内>にあり、生体内を循環することで、精神物理的有機体としての生体の健康を作り出す。しかし、オルゴン・エネルギーの実験は、生体の<外>に、生体エネルギーは放出されることを意味している。つまり、生体エネルギーは、生体の<外>でも、独立して存在しうる。
さらに、調査部は前世記憶を有する人々のデータも、数多く収集することに成功していた。
これらの人々は、退行催眠を使って、前世の記憶を引き出され、その中に、本人しか知り得ない情報が含まれているものだけが、検証に値する情報として残される。そして、前世の記憶の中身について、他から情報を入手するルートがなかったかどうか検証され、少しでも疑いのある事例があるものは削られる。
三ツ木は、出来うる限り、科学的な方法で、此岸での永生を証明したかった。
古今のあらゆる宗教、たとえばユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教が、魂の不滅を説いていた。
しかし、それらは究極のところ<信じよ>ということを、要求していた。
無批判の教義の受容は、地上での権力を認め、宗教の制度化を肯定することにつながる。
だから、三ツ木は宗教を終わらせたかった。あらゆる宗教を終わらせたかったのである。
三ツ木の夢は、此岸の永生を科学的に証明することであり、その証明とともに、<信>を基にした地上の宗教を終わらせることだった。
三ツ木は、ハード・オカルトに足を突っ込んでいたが、その一方で、「精神世界」といわれるソフト・オカルトを毛嫌いしていた。
ニュー・サイエンスやトランスパーソナル心理学の科学的なツメの甘さを毛嫌いしていたのである。
たとえば、原子核構造について、道教の陰陽のアナロジーで語るニュー・サイエンティストを、三ツ木は侮蔑していたのである。
科学的な検証を最後まで貫徹せずに、全体を語ってしまうとき、そこにも<信>を基にした地上の権力が発生するのであると。
三ツ木は、以前から暖めていた構想を実行に移すことにした。
これは、眼もくらむような命がけの飛躍を要請するものであった。
しょせん、自分の命は長くはない。この命を神から自由を奪還するために投げ出してもいいのではないか。
しかし……と三ツ木は思う。以前から考えてきたことなのに、なおも生に執着し、死を怯えるのはなぜなのか。
死への怯え自体も、自分が自分を所有するという権力に根ざしている。
自分は、自分が自分を所有するという権力すらも、徹底的に解体したかったのではなかったか。
此岸での永生という観念は、初めは自分が救われたいという希求から生まれた。
だが、最終段階では自分が救われたいという欲望からも、自由にならないといけないのではないか。
私は、最後の救い主になるのだ。

三ツ木のアイデアは、殺人カルト集団が事件を起こした直後、作家荒又廣が責任編集して出した雑誌「ザ・ボーダー」の小さなコラムに端を発していた。
そこでは、小さなハツカネズミの魂の重量に関する実験結果が載っていた。
ハツカネズミの生きているときの重量と、死んだ後の重量を、世界一の精度を持つはかりで測定したところ、ごくわずかであるが、重量が軽くなったという。
三ツ木は、これを読みながら、では人間ならばどうなのか、と考えた。
人間についても、これと同じ実験をして、重量の変化が認められれば、魂の実在が証明され、人間は死の恐怖なしに死ぬことができるのではないか。
死の恐怖からの解放とは、究極の解放を意味する。
そして、幸福な死を意味する。
幸福な死は、カミュを待つまでも無く、幸福な生を約束してくれるはずだ。
しかし、万人に幸福な生をもたらすために、一人の人間の死が必要になる。
この一人の人間の死の後では、人々は幸福な死を迎えることができるが、この一人の人間が死を迎えるときには、これは証明前であり、その人は恐ろしい不安と絶望が襲われるに違いない。
だが、万人を救うために、極限の不安と絶望にひとり耐えた人間こそ、救い主にふさわしいのではないか。

三ツ木は、想いを寄せてくれる桜井にも黙って、「KNIGHT」本部の一室を大幅に改装していた。
その部屋には、世界一の精度を誇る重量計が設置され、デジタル表示されるようになっていた。
そして、実験があらゆる角度から完全録画され、ダイレクトにインターネット配信されるように機材がセットされた。
塵ひとつない部屋の中央のいすに、三ツ木は座り、静かに眼を閉じた。
これまでの「KNIGHT」の行ってきた調査活動が思い出された。
大丈夫だ。これ以上、調べようのないほどに世界のシークレット・ドクトリンは収集された。
世界中から集められたジグソー・パズルのピースは、三ツ木によって再構成され、ほぼ完成に近い状態になった。
そのジグソー・パズルは、三ツ木に魂の不滅という真実を示唆していた。
たが、それはまだ確定情報とはいえない。
三ツ木の死によって最後のピースが埋められるまでは。
三ツ木は、チベットからの情報で、自分の意思で身体から魂を引き抜き、極楽浄土に転移させるポアの技術をマスターしていた。
しかし、今、ここでポアの技術を使えば、チベット密教の奥義を知らない人間に、この実験がいかさまではないかという疑念をいだかせることになるだろう。
だから、三ツ木は最後まで魂を身体から引き抜かない覚悟を決めた。たとえ、そのことで、未来永劫、地獄に堕ちるとしても。
三ツ木の眼の前に、ピストルの自動発射装置がある。
無論、弾丸の重量も事前に測定してあるし、発射後の飛び散った三ツ木の脳漿の重量も精密に測定されるように手配がすんでいる。
「Zone CORPORATION」からの緊急告知として、指定したURLにアクセスすると、今晩何かが起こることは全世界にメール配信されている。
あとは、三ツ木がリモコンのスイッチを押すだけでよい。
これは、全世界へのプレゼントなのだ。
最初は、衝撃と反発を、人々は抱くだろう。悪趣味だと非難するかもしれない。
しかし、三ツ木が命をかけて示した、生きているときと死んだときの重量の差の意味は、ロングスパンで人々に伝わるだろう。
これは、宗教の最終形態であり、非-宗教の前触れなのだ。
三ツ木は、最後に大きく深呼吸をすると、リモコンのスイッチを押した。

あとがき
こうして、事件は終息するかにみえた。
しかし、警察の必死の捜査にもかかわらず、「KNIGHTS FOR  NEW  ORDER」の秘密アジトから、首謀者の笠部尭平を見つけ出すことは出来なかったのである。
笠部尭平は、「Zone CORPORATION」のテクノロジーを使用して、警察間の通信を完全に傍受していたのである。もうひとり、怪人Mといわれる謎の人物については、どうなのか。
怪人Mは、幸い逮捕され、護送車の中に乗せたところである。
しかし、武藤刑事は、先ほどからおそろしい疑惑に取り付かれている。自分の後ろの席に手錠でつながれたこの男は、さきほどから仮面の下よりクククと笑い声を漏らしているのである。
「おい、武藤。まだ、この男の仮面を剥がしていないのか。逮捕の際に、同一人物の特定を怠ると、あとでやっかいなことになるぞ。」佐々木警部から、罵声が飛んだ。
大勢のレイプ被害者から、この男が仮面の下に身の毛もよだつような顔貌を有している事を聞いていた。だから、仮面を剥がすのは、ぞっとしたのだが、確かに仮面の下の顔を確認しておくのは、不可欠なことだった。
「仮面を取るぞ。いいな。」武藤刑事は、怪人Mから有無をいわせず、仮面をむしりとった。厳密にいえば、本人が拒否するのに、無理に仮面をむしりとる行為も、後で裁判の際に問題になりかねない要素をはらんでいる。
しかし、その下から現れた顔は……。
「しまった。逃げられた。」
武藤刑事は叫んだ。
護送車の中には、顔に傷ひとつ無い若い男が、手錠をかけられて居るだけである。若い男は、
ニタニタ笑っている。
「怪人Mは、どこに消えたんだ。答えろ。答えるんだ。」武藤刑事は、若い男のむなぐらをつか
んで、怒鳴ったが、男はニタニタ笑いを止めず、知っていても話す気がないのが見て取れる。
数日後、笠部尭平から、警視庁に、次なる犯行声明が届いた。

警察ハ、既成宗教団体ノ反動的イデオロギーニ組シテ、我々ヲ弾圧スルコトニシタ。
我々ハ、コレニ抗議シテ、反撃ヲ開始スル。
既成宗教ト、ソノ反動的イデオロギーニ加担スル物理的暴力的抑圧装置ハ、片ッ端カラ37564ダ。
ソシテ、今回、警察ニ入レ知恵シタ、天藤直巳他ミステリー作家モ37564ダ。
以下ハ、我々ノ暗殺リスト。
(以下略)

笠部尭平の犯行声明につけられた暗殺リストには、「新本格」ないし「第3の波(一部、2.5波)」といわれる人たちが網羅されていた。
新たな闘いの火蓋がきられたのである。
笠部尭平とは何者か。それは知と権力に取り憑かれた怪物(モンスター)である。
怪人Mとは何者か。それは性欲に取り憑かれた怪物(モンスター)であり、極端な「エロス-タナトス」原理を突き進む猛者である。
このふたつの怪物は、決して死ぬことが無い。
「天啓の骸」の続編としての「制外者の調書」は終了するが、このふたつの怪物が暴れ続けるかぎり、「制外者の調書」の続きは何度でも書かれるであろう。
制外者とは、とどのつまり、何人もの怪物を内部に棲まわせている作者自身のことであるから。

(注)この小説は、竹本健治ファンによる創作専用掲示板「破壊者の幻想譜」に、黒樹龍思名義で初回掲載された作品です。本小説の著作権は、原田忠男にあります。本小説の無断複写(コピー)・複製・転載は、著作権法上の例外を除き、禁止されています。

記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。読者様からの反応が、書く事の励みになります。