現代日本思想の基本書を読む

◆浅田彰著『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房、1983)
 本書は、現代思想(現象学/実存主義~構造主義~記号論~ポスト構造主義)の流れをチャート化し、各人がこれを実践的に応用できるように書かれている。
 まず、第一ラウンドは、「現象学/実存主義」批判である。ソシュールの構造言語学を、文化人類学のトーテミズム等の解明に応用したクロード・レヴィ=ストロースの「構造主義」が取り上げられ、「構造主義」と「現象学/実存主義」の差異が明らかになる。「構造主義」は、事物を関係のネットワークで見ようとする関係論であり、全体を実体視するホーリズムや、部分を実体視するアトミズムを否定する。「現象学/実存主義」は、コギトと
いう部分を実体視するアトミズムである。「現象学/実存主義」の立場からの歴史論としては、サルトルの『弁証法的理性批判』があるが、これは諸個人のプラクシスによっていかようにも歴史を作り変えることができるというものである。これに対し、レヴィ=ストロースは『野生の思考』第9章「歴史と弁証法」で、個人を規定している構造の存在を指摘し、サルトル的コギトの限界性を指摘する。(浅田のホーリズム批判については、後に『脳を考える脳』で全面展開されることになる。浅田は、全体を実体視するニューサイエイスを、アルチュセールのイデオロギー批判を慣用しながら、擬似科学であるとして批判する。)
 浅田は、人間をビュシス(自然)からズレたホモ・デメンス(錯乱したヒト)とし、ネオテニー説や早産説をその理由とする。そして、ホモ・デメンスとしての人間が生きるためには、文化=象徴秩序という人工的自然を作る必要があったと考える。この象徴秩序こそが「構造」であり、シニフィアン(意味スルモノ)とシニフィエ(意味サレルモノ)の恣意性、シニフィアン間の差異性、シーニュ(記号)の体系の共時性を特徴としているというのである。
 第二ラウンドは、「記号論」である。ここで取り上げられているのは、『呪われた部分』のジョルジュ・バタイユであり、『詩的文化の革命』のジュリア・クリステヴァである。これらは、レヴィ=ストロース流の「構造主義」が、歴史的変動を説明せず、<冷たい社会>しか解明してこなかったことから、注目された思想であった。<冷たい社会>とは、熱力学の比喩を使ったもので、歴史的変動が少ない文化システムを指している。
 第三ラウンドは、この「記号論」を「ポスト構造主義」の立場から撃つということが主題となってくる。本書の副題が「記号論を超えて」とあるのは、この第三ラウンドが最重要であることを指し示している。「記号論」の代表格としてバタイユが取り上げられているのは、当時バタイユを経済人類学に取り入れ、『幻想としての経済』『パンツをはいたサル』などの著作を出していた栗本慎一郎がいたからである。
(『構造と力』刊行後、このバタイユ批判に反撃しようとしたのが『テロルの現象学』の笠井潔であった。笠井潔は、栗本との対談『闇の都市、血と交換~経済人類学講義』を出したり、栗本の『鉄の処女~血も凍る「現代思想」の総批評』の執筆を手伝うなどの協力をしている。だが、人間主義的・現象学/実存主義パラダイムの笠井を、浅田は完全に黙殺する。)
 浅田が、栗本の過剰-蕩尽理論を始末するために持ち出してきたのが、資本主義のクラインの壷モデルであった。栗本の過剰-蕩尽理論によれば、あらゆる社会システムは、太陽エネルギーの過剰によってもたらされた生命力の爆発=蕩尽によって変革することが可能ということになる。しかし、浅田の持ち出したクラインの壷は、そういった文化の周縁からの侵犯をなしくずしにし、周縁の持つシステムに対する質的差異を、貨幣という量的差異に変換し、エクスプロイット(開発=利用=搾取)するというものである。(ク
ラインの壷においては、外部/内部の二項対立が消滅する。つまり、外部からの侵犯も、内部に巻き込むということである。この点が、京都大学アヴァンギャルディズム研究会が発行した藤田一・高浜雅士著『会報2号 スキゾ・ナルシストの冒険~浅田彰の死亡診断書』では、捉えられていない。また、山形浩生の『山形道場』もまた『スキゾ・ナルシストの冒険』と同じミス・リーディングをやってしまっていることには、愕然とするしかない。この点に関しては、浅田彰による「『山形道場』の迷妄に喝!」 http://www.
kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html を見よ!)過激に見えるバタイユの世界ですら、資本主義の商業システムに載れば、商品としての価値に変わり、消費されつくすのだというのである。
 では、クラインの壷の持つ一定方向の生成から逃れるすべはないのだろうか。そこで要請されるのは、ドゥルーズ=ガタリのノマドロジーであり、革命的戦争機械の思想である。この中身については、本書と『逃走論~スキゾ・キッズの冒険』、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』と『ミル・プラトー』を読んでいただくしかない。

◆浅田彰著『逃走論―スギゾ・キッズの冒険』(筑摩書房、1984)

『逃走論』は、浅田彰による<家出のすすめ(寺山修司)>である。冒頭、浅田彰は「逃走する文明」という挑発的なエッセイを書いている。そこで、「<パラノ人間>から<スキゾ人間>へ、<住む文明>から<逃げる文明>へ」とアジテーションを展開するのだが、彼の言う<逃走>とは決まりきった固定観念から逸脱することであり、これは寺山の言う<家出>と共通項を持っている。
 ちなみに、浅田は「逃走を続けながら機敏に遊撃をくりかえす」といっており、彼の<逃走>は、<闘争>の一形態であることがわかる。
 ただ、浅田彰においては、身体性や土着性といった過去へのノスタルジーがないのであり、彼の志向は未来だけに向いているのである。
 浅田彰は、『逃走論』を1984年3月に上梓し、同年6月に『GS・たのしい知識』の創刊に、編集委員として関わる。この雑誌に載せられている「『GS・たのしい知識』刊行について」によると、<たのしい知識>の由来は、十二世紀のトルバドールの作詩術la gaya scienzaと、フリードリヒ・ニーチェの警句集『悦ばしき知識』とジャン=リュック・ゴダールの五月革命直後の映画「楽しい知識」によるということだが、『逃走論』に収録されている「ゲイ・サイエンス」は、さらにもうひとつの意味合いを示唆している。すなわち、固定的な性役割から自由なトランスセクシュアリティの考え方である。
 本書の主要部分は、<逃走>概念を打ち出したドゥルーズ=ガタリと、彼らの思想の源流であるマルクスをテーマなされた浅田を含む討議となっている。討議とはいっても、これをもとに論文を数本書けるほどのデータ量である。
 ドゥルーズ=ガタリは、ポスト構造主義の立場にあり、これは構造主義→記号論の後に続くものであるが、もうひとつ、エピクロス→スピノザ→マルクス→アルチュセールという唯物論の系譜にも繋がる考え方をしているのである。
 ドゥルーズ=ガタリは、抑圧的国家装置に対しては革命的戦争機械を、モナドロジー(単子論)的予定調和のヴィジョンに対しては、ノマドロジー(遊牧論)的逃走線を引こうとする。また、ミクロの権力をも射程におさめ、分子革命のヴィジョンを打ち出す。浅田の『逃走論』は、こうしたドゥルーズ=ガタリの<闘争>の延長戦にある考え方なのである。
 本書の後半部では、浅田の学問的バックボーンをうかがわせる書物の紹介と、書評が載せられている。浅田は、テクストの神聖視や権威付けには反対する一方で、構造主義→記号論→ポスト構造主義という思想史を押さえ、現代の様々な抑圧からの<逃走>のための視線を鍛えることを薦めるのである。
 『逃走論』と、同時期に刊行された思想誌『GS・たのしい知識』には、深い相関関係がある。『GS・たのしい知識』は、膨大な原稿量の雑誌である。(4号の戦争機械特集号に到っては、712ページもある。)
 読者は、この膨大なテクストの中から、必要な道具=武器を探し出し、各人の闘いのために利用せよ、ということなのである。
 本書のメッセージをひとことで表現すると、こうなる。
 <勝手に逃げろ(ゴダール)>

◆笠井潔著『テロルの現象学―観念批判論序説』(ちくま学芸文庫、1993)

笠井潔は、『テロルの現象学―観念批判論序説』を、自分が「連合赤軍事件に対して有責であるという思い」から書いたという。有責であるというのは、かつて黒木龍思というペンネームで「拠点」「情況」「構造」「革命の武装」といった新左翼系理論誌で評論を書き、党派活動に関与していたためである。笠井は、マルクス主義は論理必然的に連合赤軍事件のようなテロリズムを生み出すという認識に到達し、戸田徹・小阪修平らとともに「マ
ルクス葬送派」を標榜するようになる。
 日本の「マルクス葬送派」は、フランスにおける「新哲学派」に対応している。フランス思想史を概観すると、実存主義-構造主義-記号論-ポスト構造主義という流れの後に浮上してきたのが、「新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ)」である。アンドレ・グリュックスマンの『料理女と人喰い(邦訳名:『現代ヨーロッパの崩壊』新潮社)と『指導者=思想家たち(メートル・パンスール)(邦訳名:『思想の首領たち』中央公論社)』、ベルナール=アンリ・レヴィの『人間の顔をした野蛮』(早川書房)、ギュイ・ラルドロオ&クリスチャン・ジャンベ『天使。革命の存在論』、モーリス・クラヴェル『私の信ずるもの』、ジャン=ポール・ドレ『快楽への到達路』、ジャン=マリ・プロワの『マルクスは死んだ』……これらの共通点は、ソルジェニーツィンの『収容所群島』(新潮文庫)を契機に転向した元パリ五月
革命の闘士たちであるということである。彼らは、マルクス主義は論理必然的に収容所(ラーゲリ)を生み出すとするのである。
 笠井潔は、連合赤軍事件を契機に新左翼系セクトから離脱し、パリで本書と『バイバイ、エンジェル』を書いた。『バイバイ、エンジェル』は、矢吹駆という現象学を駆使する推理方法を取る主人公が登場する本格ミステリである。本書と『バイバイ、エンジェル』は、主題的に重複しており、笠井は『バイバイ、エンジェル』をドストエフスキーばりの観念小説にする意欲を隠そうとはしていない。哲学・思想分野と文学分野の双方で活躍する笠井
は、『存在と無』と同時に『嘔吐』を書いたサルトルへの憧れがあったのではないか。
 『テロルの現象学―観念批判論序説』は、一見哲学書の体裁をとっているが、詳細に見ていくと主題に沿った文芸作品を批評することで成り立っていることがわかる。つまり、本書は文芸批評のジャンルに属しているということだ。
 笠井の理論の枠組みは、まず共同観念(これは吉本隆明の共同幻想と同義である。)があり、この共同観念から逸脱するものが自己観念を形成する。この自己観念をもった者同士が結びつき、党派観念を形成する。党派観念はエスカレートしてゆくと、肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪の果てに、際限のないテロリズムへの無限肯定に至る。この共同観念を内部から喰い破るものとして、笠井は集合観念を措定するというものである。
 それでは、本書でとりあげられる主な文学作品をリストアップしてみよう。

序章 観念の廃墟(埴谷雄高『幻視のなかの政治』、高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」)
1 自己観念
 第一章 観念の発生(高橋和巳『我が心は石にあらず』、二葉亭四迷『浮雲』)
 第二章 観念の欺瞞(サルトル『悪魔と神』、ドストエフスキー『地下生活者の手記』)
 第三章 観念の背理(カミュ『正義の人々』)
2 共同観念
 第四章 観念の矛盾(田川建三『イエスという男』)
 第五章 観念の逆説(ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』、三島由紀夫『憂国』)
 第六章 観念の倒錯(東アジア反日武装戦線パンフレット『腹腹時計』)
3 集合観念
 第七章 観念の対抗(エドガール・モラン『人間と死』、ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』)
 第八章 観念の転変(ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』)
 第九章 観念の遍歴(ジェフロワ『幽閉者―ブランキ伝』)
4 党派観念
 第十章 観念の顛倒(ドストエフスキー『悪霊』、ネチャーエフ『革命家の教義問答』)
 第十一章 観念の簒奪(エンゲルス『フランスにおける階級闘争』序文)
 第十二章 観念の自壊(ソルジェニーツィン『収容所群島』)
終章 観念の自壊(ヴァンター・ベンヤミン『暴力批判論』、モーリス・メルロ=ポンティ「ソ連と収容所」)

 マルクス主義とテロリズムの問題については、アルベール・カミュの『反抗的人間』、モーリス・メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』、埴谷雄高の『内ゲバの論理~テロリズムとは何か』などが取り上げてきたが、本書はその流れを汲むものであるといえよう。
 『テロルの現象学』という名称には、ヘーゲルの『精神現象学』を批判するという意味合いがある。笠井潔は、マルクス主義がテロリズムに転化するのは、マルクス主義のなかにヘーゲルに由来する弁証法が組み込まれているからだとし、本書より後に柄谷行人となされた対談『<現在>との対話1 ポスト・モダニズム批判/拠点から虚点へ』(作品社、38頁)では、マルクス主義を「弁証法的テロル」もしくは「ガイスト的テロル」に分類する。
 こうして、ヘーゲルの現象学を排除する一方で、フッサールおよびハイデッガーの現象学に依拠し、ここからマルクス主義の弁証法的権力を「観念の倒錯」として批判しようとするのである。なお、笠井は評論の上では『外部の思考・思考の外部』(作品社)に収められた「飛沫の実存イメージ(エマニュエル・レヴィナス論)」において、創作においては『哲学者の密室』(創元推理文庫)において、ナチズムと共犯関係にあるハイデッガーを排除
し、レヴィナスに依拠するように軌道修正を行っている。
 もっとも、笠井の現象学は、フッサールの現象学とは異なるところがある。フッサールは、視覚を中心に、現象学的還元を思考するが、笠井は、触覚(特に痛感)を中心に、現象学的思考を展開する。
 極めて大雑把にいえば、一般的・科学的な知の立場からすると、吸血鬼は存在しない。が、『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫)のような状況に置かれたら、吸血鬼が実在するものとして行動するということである。吸血鬼は存在しないという知には、ドクサが紛れ込んでいる。一方、吸血鬼の実在問題は、自身の生存に関わる。一般的な知の正誤問題は、この際かっこにくくり、吸血鬼はあるとして行動したほうがいい、ということである。
 笠井のいう「現象学」には、吉本隆明の『心的現象論序説』(角川文庫)の「現象」のニュアンスがあるように思われる。『テロルの現象学』においても、吉本の『書物の解体学』(中公文庫)などの言及が多数見られる。吉本は、『書物の解体学』で人間の考える観念がどのように生成し、推移してゆくかを追究し、その立ち現れる現象を、そのまま記述していこうとしているのである。この姿勢は、本書の方法論に近いと思われる。(吉本との差異は、マルクス主義の問題を、吉本は弁証法にあるとは考えず、「アジア的」という歴史的段階概念を用いて、それのせいにする点である。)
 笠井は、マルクス主義は、旧左翼・新左翼を問わず、最終的に論理必然性を持って、スターリン主義的な血の粛清、「絶滅=労働収容所」群島の形成に行き着き、無差別テロリズムに到達するという立場を取る。そして、このマルクス主義的な権力知を覆すために、フッサール的現象学のなかに、バタイユの思想を埋め込もうとする。
 ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』で、普遍経済学を唱え、人間には太陽エネルギーに起因する過剰な力があり、この過剰な力を蕩尽しなければならないとした。この「過剰-蕩尽」理論は、バタイユの盟友・岡本太郎のほか、経済人類学者の栗本慎一郎らに影響を与えたが、笠井もそのひとりである。(『薔薇の女』、映画『嵐が丘』のノベライズには、バタイユの影響が顕著である。)本書においては、バタイユ的蕩尽(あるいは岡本のように爆発といった方が判りやすいかもしれない)が、「集合観念」という概念で捉えられている。「集合観念」という観念は、笠井のなかでクロンシュタットの民衆叛乱と重ねあわされている。「絶滅=労働収容所」群島という絶望的な状況下にあっても、人間はなおも圧制に抗して爆発できるのだということである。
 後の『秘儀としての文学―テクストの現象学へ』(作品社)に収録されたコリン・ウィルソンの対談で、笠井は集団的な至高体験の存在可能性に言及している。至高体験とは、絶頂体験とも訳されるマズローの心理学およびそれに依拠するコリン・ウイルソンの思想における術語で、自己実現に到達した人間の喜悦に満ちた体験を指す。コリン・ウィルソンにおいては、個人的に捉えられていた至高体験だが、笠井は集団的にも至高体験はあるのではないかという。集団的な至高体験は、本書における「集合観念」と対応してい
ることは言うまでもない。
 「集合観念」は、観念でありながら、「共同観念-自己観念-党派観念」を内部から打ち壊すものとして捉えられている。つまり、「集合観念」は、観念の外部ではなく、観念の内部において形式化をラディカルに突き詰めていった果てに見出される反観念なのである。「集合観念」という概念を、自らの体系のなかに位置づける際に、笠井は『隠喩としての建築』の柄谷行人や、『根源の彼方に グラマトロジーについて』のジャック・デリダを意識したようである。なぜ、このような設定をしたのかといえば、テロリストに、テロルの悲惨という事実を指摘しても、それは彼らの理論の想定内であり、外部にはないえないのであるから、彼らの理論体系をゆるがせることはできないからである。理論体系が論理必然的に陥る自己矛盾をしめすことが、強力な批判となるのである。
 とはいえ、笠井の現象学に対する態度は、デリダと一致しない。デリダは、フッサールの現象学にロゴス中心主義・音声文字中心主義を見出し、これを脱構築(ディコンストラクト)しようとするが、笠井は「人間」や「生活世界」といった現象学の前提に対しては、自明のこととして疑いを挟むことはないのである。
 本書が「観念批判論序説」とされていたのは、本書のあとに、芸術論(テクストの現象学)、エロティシズム論(エロスの現象学)、革命論(ユートピアの現象学)が予定されていたからである。続編が書かれなかったのは、ソ連邦が崩壊し、マルクス主義の凋落が始まったからである。
笠井潔の『テロルの現象学―観念批判論序説』で問題となるのは、ジョルジュ・バタイユの位置づけである。本書は浅田彰の『構造と力―記号論をこえて』の後に書かれており、『構造と力』におけるバタイユを「終局=目的なき弁証法」と看做す解釈に、笠井は異論を展開している。笠井によれば、バタイユは「グリュントゲーエンする廃滅の反・弁証法」だとし、バタイユの核となっている連続と非連続は対概念ではない、とする。こうして笠井は、バタイユを、山口昌男やヴィクター・タナーに見られるような<コスモスとカオスの弁証法>ではない、とするのである。
 しかしながら、バタイユのねらいがどうであれ、現実のなかでバタイユ理論がいかに機能するのかが問われる必要がある。『構造と力』は、資本主義というシステムの解体そのものをシステム化したクラインの壷から、いかに逃走できるかというプロブレマティックの上に成り立っており、制限された脱コード化社会を、制限なき多方面への生成を肯定したリゾーム(根茎)にいかに変えてゆくかを問題にしていた。一方、笠井の『テロルの現象学』は、ソヴィエト型の専制社会、言い換えれば超コード化された社会をいかに転覆させるかを問題にしていた。果たして、バタイユの思想が、資本主義にダイレクトに有効なのかという疑問が浮上する。なぜなら、資本主義はバタイユすら商品化して、消費し尽くしてしまう怪物的システムだからである。プレ・モダンな専制社会に対するバタイユの叛逆は、顛倒すべき主体(大文字のS)なき資本主義社会において、逆説的に超コード化された絶対者を招き寄せる危険性すら持っている。笠井理論では、こういった社会システム論
への目配りが完全に欠如している。
 また、本書はマルクス主義へのアンチ・テーゼであるが、それ自体としてのポジティヴな思想を打ち出すことに成功していない。本書は、テロリズムに対し「集合観念」を対置させるが、テロリズムの発生原因となっている状況にまで遡り、原因を根絶させるものではない。本書は、テロリズムに帰結しない別な変革のヴィジョンを打ち出すものではないのである。その結果、テロリズムの発生原因となっている現状を、追認するイデオロギーに転化する可能性を持ってしまっている。
 本書にこめられたメッセージの価値は、ソ連邦の崩壊後、相対的に下降した。マルクス葬送派の系統に属する本書の価値は、東西の冷戦構造が支えていたのだといえる。それは、バタイユの叛逆が、西欧のクリテンツーム(キリスト教教条)があって、初めて成り立つのと同じである。
 東浩紀との往復書簡『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』(集英社新書)で、9・11という試金石に晒され、笠井潔は、東からすると旧世代に属する典型的な全共闘世代のイデオローグとしての限界を露呈してしまっている。
 無論、イスラム原理主義に基づくテロリストたちにも、左翼系テロリストと同様に、肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪がある。だから、本書の人間理解は、今日においても十分に通用する。しかしながら、世界中のいたるところにネットワークを張り巡らし、一般市民に溶け込み、見えない軍隊となった新しいテロリストたちに対抗するためには、「集合観念」ではなく、スピロヘータか、バクテリオファージのような、相手の思考システムに深く侵食
し、内部から腐蝕させるような別な闘争を描く必要があるだろう。笠井的なマルクス主義へのアンチ・テーゼが、いまなおインパクトを持つのは、北朝鮮や一部の過激セクトに対してのみである。
 とはいえ、本書はアンチ・マルクス主義の立場の人は勿論、ポスト・マルクス主義の立場の人にとっても、笠井潔が好きな人も、笠井潔葬送派の人にとっても、必読書である。というのは、無限の自由を求めて出発した高邁な思想が、やがて無限の専制に帰結するというパラドックスを考え抜くことなしに、新たな解放の理論を構築することなど出来ないからである。本書は、次なる思想を胚胎するために、読み継がれるべき書物なのである。

◆中沢新一著『はじまりのレーニン』(岩波現代文庫、2005)

 ふたりの中沢新一がいる。
 中沢新一I は、癒し志向で、ソフトな予定調和のヴィジョンを求めている。
 もうひとりの中沢新一II は、破壊的で、想像界の向こう側にあるリアルに到達しようとするマテリアリストである。
 『チベットのモーツァルト』の中沢新一は、構造主義→記号論→ポスト構造主義という浅田彰が『構造と力』で示した三段階図式を踏襲していた。例えば「丸石の教え」で中沢は、丸石について共同体の「内と外という存在論的二元論」はないとし、「自己生成する非=中心化システム」であると説く。これは、記号論に特徴的な二元論を超えることを示している。
 ところが『雪片曲線論』では、レヴィ=ストロースの解明した「野生の思考」を擁護する立場が示される。三段階図式ならば、ポスト構造主義と構造主義の共存はありえないのだが、予定調和のヴィジョンを志向する中沢新一I が、そうさせているのである。
 中沢新一Ⅰ は、部分の中に全体の設計図を織り込んだ密教の曼荼羅を擁護し、『観光』では自然発生的な神道を愉しみ、『森のバロック』では南方熊楠の<南方マンダラ>に、日本思想の可能性の中心を見出し、『ポケットの中の野生』ではポケモンに「野生の思考」を見出し、河合隼雄に接近しユングの心理学を肯定し、『アースダイバー』では皇居をアジールを守るものとして評価するのである。
 しかし、中沢新一II は、『imago 総特集 オウム真理教の深層』に収められた「「尊師」のニヒリズム」で、「マンダラを裂く」ことを説いた浅田彰に共感を示し、『リアルであること』では想像界の向こう側のリアルに到達することを説き、『三万年の死の教え』では『チベットの死者の書(バルドゥ・トゥドル)』の説く死の側から、今日の死を隠蔽した文化状況を裂こうとし、本書『はじまりのレーニン』や『文藝1994春季号 特集毛沢東、百年の孤独』に収められた「造反有理」では共産主義の側から資本主義というシステムに解体の刃をつきつけようとするのである。
 中沢新一II は、その破壊衝動ゆえに、反宇宙的二元論に傾きやすく、グノーシス主義的になっている。しかしながら、グノーシス主義的な善悪二元論は、記号論のパラダイムに属するものであって、二元論を超えようとするポスト構造主義とのあいだで論理的不整合を生じる危険性がある。
 例えば、中沢新一は、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』の解説で、グノーシスが「「物語」への衝動を引き寄せていた」(河出文庫、296頁)と書いている。この「物語」とは、「未出現の、あるいは隠されてある「真実」や「宝物」への探求へと、むかおう」(同、296頁)とするものであるとし、ポスト構造主義的視点から、蓮實重彦の「物語」批判に賛意を示すのである。つまり、この文庫解説では、中沢新一はグノーシス批判の立場だが、『リアル
であること』や『はじまりのレーニン』ではグノーシス擁護なのである。これは、理論的不整合ではないのか。
 『東方的』でロシアの四次元思想に接近したのも、『哲学の東北』で宮澤賢治を媒介にしながら、魂の東北を志向したのも、中沢新一IIのグノーシス的破壊衝動のためである。ロシアや日本の東北の過酷な自然状況が、リアルな自己を覚醒させてくれるという直感があったに違いない。
 本書『はじまりのレーニン』は、中沢新一II による独自のレーニン像を提出している。中沢は、レーニンは笑う人であったと指摘する。レーニンは、釣りや猫を触るときなど、体を震わせて、全身で波打つように笑ったという。これは、リアルなものとの接触から生じる笑いであるというのが、中沢の読みである。ここから、初期の論文『唯物論と経験批判論』の解釈に移る。この論文は、関係論的な見方をするマッハ主義を攻撃するためのものである(ここで中沢は、関係論的な見方をする現代思想を重ね合わせている)。マッハ主義では、想像界の外側のマテリアルというリアルに接触できない。これでは、笑えない!というのが、レーニンの批判の要点であると中沢は考える。 しかし、『哲学ノート』の段階になると、レーニンの視点は、さらに移動し、ヘーゲルの弁証法を相当評価するようになっていると、中沢は考える。ヘーゲルの絶対弁証法というものは、リアルに接近しようとする精神の運動を示しており、ここから唯物弁証法はあと一歩であるという。
 こうして、レーニン像を刷新した中沢新一は、レーニンの思想の源流が、古代唯物論、グノーシス主義、東方的三位一体論であるという。
 さて、ここまで中沢の思考を追ってきたわけだが、様々な疑問が起きる。
 なるほど、『精神現象学』で示されたヘーゲルの弁証法は、リアルなものを露呈させることによって、人間に絶対的な自由をもたらそうとするものであったかもしれない。しかし、ヘーゲルの弁証法というものは、完成とともに無限の専制の肯定で終わるのではなかったか。
 また、レーニンの党は、発端として東方的なグノーシス主義傾向を持っていたかも知れないが、党がもたらした帰結は、収容所群島(ソルジェニーツィン)ではなかったか、ということである。
 このように『はじまりのレーニン』には、疑問点が多いのだが、中沢新一II の破壊的な面が如実に出ており、これを基に、さまざまな問題を考えることが出来ることは間違いない。
 ちなみに、私はこうした矛盾や理論的不整合を承知の上で、中沢新一を高く評価している。こういった矛盾や理論的不整合は、現代思想の抱えている困難さの現われなのである。未来の哲学の扉を開くためには、こういった矛盾や理論的不整合の問題をさらに考えぬくことから、始めるしかないのである。

◆東浩紀著『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998)

『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』は、『アクロイド殺し』(アガサ・クリスティ)である。
デリダの著作は、前期と後期に分けることができる。
(1)前期。独立したテクストとして読める「論文」や「著作」としての体裁を保っていた時期。フッサールの『幾何学の起源』の序説から始まり、『声と現象』『グラマトロジーについて(邦題:根源の彼方に)』『エクリチュールと差異』を経て、『余白』に至るまでの著作が書かれた時期。
(2)後期。別のテクストの引用が入り乱れ、論述する意味内容の断片化・重層化が飽和に達し、造語・新概念が増殖し、巨大な暗号群と化してゆく時期。『散種』『弔鐘』『絵画における真実』『葉書』といった著作が書かれた時期。
(蛇足を加えれば、後期デリダには法と政治、歴史と倫理的責任を問う著作群、たとえば『他の岬』『法の力』などが存在する。)
ここで、プロブレマティックが為される。前期デリダと後期デリダの間の切断は、なにゆえか。また、後期デリダは、どうして錯綜したテクスト群を書いたのか。
 これはミステリである。最初に謎があって、語り手=探偵の東浩紀が、その謎の解明に取り組むという筋立てである。
 東探偵は、まず「脱構築」のロジックを展開した前期デリダに注目し、これを柄谷行人が行った『隠喩としての建築』等の「形式化」を突き詰め、システムを自壊させる戦略に似ているとして、前期デリダを柄谷の仕事に見立てる。この時期のデリダは、「脱構築」を唱えるために、「構築」に依存していた。ある「構築」に対し、否定神学的にしか、「脱構築」を表現できないでいた。
 次に後期デリダに分析を進め、ここで「存在論的脱構築」と「郵便的脱構築」という概念を提出し、後期デリダは、それまでの「存在論的脱構築」を否定神学として葬り、新しく「郵便的脱構築」を打ちたてようとしたのだと、推理する。
 ポスト構造主義を、このように二段階に分けたのは注目される。例えば、浅田彰の『構造と力―記号論を超えて』では、現象学・実存主義(実体論)パラダイム、構造主義(関係論)パラダイム、記号論パラダイム、ポスト構造主義(生成論)パラダイムの概念を打ち出し、ポスト構造主義の方向性に立ってシステムからの逃走を呼びかけていた。東浩紀は、浅田の打ち出したポスト構造主義(生成論)パラダイムを、「存在論的脱構築」と「郵便的脱構築」にニ分類し、後期デリダの「郵便的脱構築」を支持するのである。
 こうして、物語は東探偵による推理の大詰めを迎える。後期デリダが、あのような造語や新概念がひしめき合い、他のテクストの引用や言及を多用し、駄洒落などの言葉遊びを展開し、錯綜とした重層的な意味合いを持つテクストを練り上げたのか。
 それは、「郵便的脱構築」の実践としてであったというのが、本書の最終的解決である。
 「郵便的脱構築」は、本書に続く第二作『郵便的不安たち』で、電脳世界における電子メール送信になぞられる。送信者から受信者に、確実に郵便(メール)というメッセージが届くというのは、ロゴス中心主義的な無誤謬主義に過ぎず、郵便には常に誤配や遅延、配達不能などの事故がつきまとうということである。
 初期デリダは、難解ではあるが、努力すれば判る書き方をしていた。しかし、後期デリダは、いくら時間をかけても、完全に判りきるということがない書き方をしていた。つまり、メッセージが正しく確実に遅延なく届くという根拠なき信仰を粉砕しようとしたというのである。
 しかし、本当のミステリは、本書を読み終えた段階から始まる。後期デリダは、読者に一義的な意味がダイレクトに伝わらないように、あのように判りにくい書き方をした。それを、判りやすく、明晰なものにしてしまった本書は、後期デリダにとって何か。この物語の進行過程で、ひそかに殺害されていたのは、後期デリダその人ではなかったか。こうして、読者は本書の再読を開始せねばならない。後期デリダ殺害事件の謎を解くために。
 東浩紀は、本書の後『郵便的不安たち(文庫版は「郵便的不安たち#」と改題)』『不過視なものの世界(対談集)』『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ(編著)』『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評(笠井潔との往復書簡)』『自由を考える―9・11以降の現代思想(大澤真幸との対談)』などの著作、『「動物化するポストモダン」とその後』などのDVD-ROM、『波状言論』の発行などを行ってゆくことになる。
 本書に続く『郵便的不安たち』では、主として世代間や(アニメと現代思想など)ジャンル間のギャップを、批評という共通言語で埋めようとするものであった。ただし、本書で打ち出された概念装置なしに、これらは主張できるものだと考えられる。
 理論的な進展が見られるのは、『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』である。ここでは、ジャン・ボードリヤールの記号消費(『象徴交換と死』)、大塚英志の物語消費(『物語消費論』)を進展させ、データベース型消費という概念を編み出している。これは、トレーディング・カードの消費などに見られる新しい消費形態である。また、浅田彰の唱えた資本主義文化の行き着く方向が幼児化という説に対し、動物化という概念を提出した点でも注目される。

◆千葉雅也著『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013)

・関連URL
東浩紀×千葉雅也 新著『動きすぎてはいけない』をめぐるやりとり
http://togetter.com/li/584338
 ツイッターで、私が「千葉雅也氏の『動きすぎてはいけない』の帯に、東浩紀氏が「本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に生まれた存在論的継承者だ。」と書いているのですが、郵便的継承者ではなく、存在論的継承者としているのが引っかかります。いや、なに、あの本では郵便的の方が肯定的な意味を持たされていたので。」と書いたことから始まった東浩紀氏と千葉雅也氏の対話の記録。

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(上)――自分が楽しいということを譲らない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012032100011.html

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(中)―― 技術と思想は一体でなければいけない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012032800002.html

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(下)―― まっとうであることを引き受けすぎない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012040600013.html?iref=webronza

◆1◆ 概論
 浅田彰『構造と力』(1983)は、構造主義(実体論批判と関係論へのパラダイム・シフト)-文化記号論(構造とその外部の弁証法)-ポスト構造主義(構造から機械・装置へ)と、三段階でドゥルーズ=ガタリの哲学に至る道を示したのに対し、東浩紀『存在論的、郵便的』(1998)は、ポスト構造主義を、論理的・存在論的脱構築(ハイデッガー・ゲーデル)と郵便的脱構築(フロイト・デリダ)に峻別し、前者の否定神学システムを批判すると同時に、後者が切り開く複数的超越論性に着目するものだった。
 では、千葉雅也『動きすぎてはいけない』(2013)は、いかなるバースペクティヴを開示するのか。『動きすぎてはいけない』は、従来のジル・ドゥルーズ解釈が、アンリ・ベルクソン由来の差異や連続性、そして接続を重視する解釈に偏っていたとし、デイヴィッド・ヒューム由来の切断の哲学の面もあるのだと修正を加える。(ドゥルーズのベルクソン論としては『差異について』『ベルクソンの哲学』があり、ヒューム論としては『ヒューム』『経験論と主体性』がある。)『動きすぎてはいけない』は、浅田の『構造と力』と同様、ドゥルーズ派の著作である。但し、『構造と力』の後、東の否定神学システム批判があり、バディウの存在論的ファシズム批判があった。千葉は、それらの批判を受け止めた上で、切断の哲学を強調することで、批判の当て嵌まらないドゥルーズ哲学の可能性の中心を示し、<ポスト・ポスト構造主義>の領域を切り開こうとする。
 本書の導きの糸となっているのは、ドゥルーズの「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という言葉である。動きすぎで接続過剰となり、諸関係に絡め取られて、逆に動けなくなるのではなく、何かと何かを接続したり、切断したりする「と(et、and)」のあり方を変えてゆくことによって、セルフエンジョイメントに至る生き生きとした動的世界が始まるのである。

◆2◆ 詳論
 第1章では、関係束を分析=分離することによって分子的レベルで組み変わりを起こし、生成変化を可能にする事が追及され、スピノザ的な心身平行論を基に関係の外在性が説く。
 第2章はドゥルーズのデイヴィッド・ヒューム論『経験論と主体性』が論じられる。人間の主体は、アプリオリにあるのではなく、経験から得られた情報の連合によって捏造される。この時、問題となるのは関係の外在性であり、関係を構成する項と項の接続あるいは/もしくは切断によって、アレンジメントの再編成が起き、主体が変容する。さらにクァンタン・メイヤスー(Q・メイヤスー、黒木萬代訳「潜勢力と潜在性」が『現代思想2014.vol.42-1現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ』に収録されている)によって極端化されたヒューム主義的偶然性の哲学についても考察される。ドゥルーズは、ベルクソンを基に差異の存在論を打ち立てたが、それは生気論的ホーリズムであり、アラン・バディウに言わせると、ドゥルーズは存在論的ファシズムを潜在させている
 第3章のテーマは、アラン・バディウ、東浩紀らの批判を踏まえた上でのドゥルーズの可能性の中心は何か、である。生気論的ホーリズムは、ヒューム的な「と」の哲学で対抗できるが、そこには構造主義的ホーリズムという別の陥穽がある。構造主義的精神分析学者ジャック・ラカンは、ポーの『盗まれた手紙』を論じながら「手紙はつねに宛先に届く」とするが(ラカン、佐々木孝次訳 「<盗まれた手紙>についてのゼミナール」は『エクリ1』弘文堂に収録)、デリダは「真実の配達人」(『絵葉書』に収録)でそのような根拠のない特権性の信仰を批判した。『アンチ・オイディプス』で、フェリックス・ガタリは、複数の対象-機械aという概念を創造することで、欠如に従属した構造主義的ホーリズムから逸脱しようとする。システムの全体性の欠如を表象するシニフィアンさえもが、唯一の単一性を持つならば、否定神学的な神として超越性の光芒を放つだろう。しかし、複数的な差異の哲学と、変態化する個体の哲学を兼ね備えたドゥルーズ=ガタリの哲学は、そうした否定神学システムに収まりまらない怪物性を持っているのではないか、というのが本書の筋道である。
 第4章では『ニーチェと哲学』が取り上げられ、『スピノザと表現の問題』の延長線上にある肯定を肯定する哲学を、ニーチェ特有の結婚のメタファーで読み解こうとする。ここで課題となるのは樫村晴香の「ドゥルーズのどこが間違っているか?」である。樫村はニーチェは自身の体験・実感に基づいて哲学を語っているのに、ドゥルーズはニーチェの言説に魅惑され、ニーチェの病の体験を収集しているだけだとする。樫村の批判を受けながら、千葉はドゥルーズが多なる差異についてのひとつの存在論に向かう傾向があったと認め、ドゥルーズの結婚存在論に、ヘテロの愛による相互承認による共-存在を是認する前提を読み取るが、それと同時にドゥルーズのうちに、婚礼の鏡を器官なき身体で破壊する単独者・独身者の哲学に向かう可能性があるとする。
 第5章は本書全体の狙いを明らかにする。接続を重視する関係主義的ドゥルーズ読解は、生気論的/構造主義的ホーリズムに陥ってしまう。ゆえに、切断を重視し、関係づけの過剰をセーブし、複数的多元論を取り、「個体化」を促進させる。第5章ではドゥルーズが『差異と反復』において、一旦はイロニー的潜在性に向かいつつも、くそまじめに逆超越的な彼岸に釘付けにされることを嫌い、ユーモア的個体化に向かったとし、ドゥルーズの思考そのものに、動きすぎを回避する節約のエコノミーが働いていたとする。
 『意味の論理学』を扱う第6章では、ドゥルーズ哲学における「器官なき身体」の位置づけが問題となる。『意味の論理学』の前半部分は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』等の作品が論じられる。前半部分は、ラカン的なシニフィアン(意味するもの)の哲学であり、表層の論理である。これに対し、後半はアントナン・アルトーの『神の裁きと訣別するため』に出てくる「器官なき身体」が浮上し、シニフィアンを失った身体性、表層が崩壊し深層が露呈した状態が追及される。
 表層における言葉遊びは、様々な生成変化の可能性を露呈させる。それは、表層の裂け目であり、ルイス・キャロルの世界では裂け目が駆け巡ることにおいて、かろうじて世界が維持される。キャロルは倒錯者であり、さらに裂け目が大きくなり、深層に墜ちるならばアルトーのように、スキゾフレニーになるだろう。
 精神分析では、超自我/自我/エス、ラカン派では、さらに象徴界/想像界/現実界という三層構造を考えるが、身体性を伴った発達段階という観点から考えると、エスから超自我に向けて、肛門的→尿道的→性器的という対応を取る。千葉は第6章で、部分対象を肛門的に、器官なき身体を尿道的に対応させる。この対応関係は、接続/切断の切り替えを可能にするヒューム的な「と」と同じポジシオンを、精神分析学および身体論において器官なき身体に与えようとする戦略である。
 ここで私見を述べると、アルトーの「器官なき身体」は、ラジオドラマ『神の裁きと訣別するため』を聴くと、組織化(オルガナイズ)された身体の反対の意味を持つことが判る。アルトーの世界観では、われわれの身体の中身にまで、権力が浸透しているのであり、わたしたちは資本主義や全体主義といったシステムのなかに組み込まれており、アルトーの詩は身体の中にまで浸透した権力を駆逐しようとする呪詛の言葉だと判る。従って、「器官なき身体」は、組織化に抗し、自らを削ぎ落とし個体化に向かう意志のベクトルとして読み解くべきだと思う。
 第7章では、ドゥルーズが論じた文学者ということで、米国の作家ルイス・ウルフソンが取り上げられる。ここでウルフソンが取り上げられるのは、その半端さ、中間性においてである。本書のタイトルは『動きすぎてはいけない』であり、ウルフソンはアルトーのように行き過ぎるのでもなく、器官なき身体を形成する途中で、中途半端に留まっていることによって、逆説的に評価されるのである。(『ドゥルーズの思想』でも、ドゥルーズは英米文学の優位を語っていた。)
 ここで連想するのは、中沢新一の「孤独な鳥の条件」(『チベットのモーツァルト』に収録)である。カスタネダの『イクストランへの旅』を論じながら、呪術師ドン・ファンの言葉に中沢は注目する。
呪術師ドン・ファン曰く「見ることのない呪術師なら、同じように信じるだろう。だが、見る者は、それを信じることが呪術師の領域に釘づけにされちまうことを知っとる。」(カルロス・カスタネダ『イクストランへの旅』341頁)
カスタネダは、呪術師によって幻覚植物や世界を止めるテクニックによって、この世界とは異なる別のリアリティーがあることを経験するが、それはこの世界に釘づけにされた状態を解体するためであった。しかし、そのために別の世界が本物だと、新たに釘づけにされたら意味がない。呪術師ドン・ファンが連れていこうとしているのは、何ものにも捉われない世界、仏教で言い換えると「空性」を自覚した境地なのだから。
このことは、カスタネダの作品が虚構の部分が含まれているにせよ、なにがしかの真実を含んでいると思われる。
 第8章は、画家のフランシス・ベーコンを論じた『感覚の論理』と、文学者マゾッホを論じた『ザッヘル=マゾッホ紹介(邦題:マゾッホとサド)』を取り上げる。ドゥルーズは、フランシス・ベーコンの絵画は、歪曲された形象を扱いつつも、輪郭が維持されていることに着目する。ドゥルーズにおいては、フランシス・ベーコンを論じつつも、その背景には「法」と「マゾヒズム」がある。それゆえに、『マゾッホ紹介』は、ドゥルーズ哲学の背景となる主題を探る上で重要である。
 『マゾッホ紹介』の重要な論点。 千葉は、『マゾッホ紹介』はマゾヒズム一元論ではないが、サディズムは思弁を急ぎすぎるがゆえに、ドゥルーズ哲学では脇役に追いやられていると解する。急ぎすぎてはいけないということは、動きすぎてはいけないということに繋がる。フランシス・ベーコンのように、フィギュールを維持しつつ、急ぎ過ぎず、生きながらの死を味い、別の仕方の関係束に生成変化させるのである。
 第9章は、動物への生成変化がテーマであり、ドゥルーズが哲学的な単純な生物と考えたダニについての考察が展開される。ドゥルーズ哲学の源泉のひとつにスピノザがいるが、その後継者は「環世界」という概念を提示した動物行動学者ユクスキュルというのが、ドゥルーズの見立てである。ダニは、光と哺乳類の臭いと体温しか感じず、それらに変化があった時だけ動く。接続/切断のスイッチのオンとオフを重視したドゥルーズにとって、ダニはシンプルに必要最小限度のことをやっており、動きすぎない理想と合致したのだろう。
 こうして『動きすぎてはいけない』は、従来のドゥルーズ解釈の「接続」-関係主義的読解の偏向を、「切断」を強調することによって修正しつつ、最後、ドゥルーズが論評を書いたミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の世界に向かう。そこでは、無人島でのロビンソンの変容が、あたかもドゥルーズ哲学を展開するかのように描かれる。

◆3◆ 結語
 『動きすぎてはいけない』を読むことの快楽は、どこから来るのか。
 本書を読みながら連想したのは、浅田彰+坂本龍一編集のカセットブック『休業[水牛楽団]』(本本堂)であった。高橋悠治による水牛楽団による音楽や、高橋悠治と如月小春による言葉遊びを収録したカセットに、2冊のブックレットがついていて、そのうち一冊が浅田彰と坂本龍一の対話である。そこで、浅田彰は、ゴダールについても語っていて、ゴダールには「映画ファンの神経を逆なでするようなザラザラした異物感がある」とした上で、それに対し、坂本龍一が「蓮實重彦の場合は、そこはわかっているが書かないという戦略」だと語っている。
 ヒューム的「切断」を強調する本書を読む際にも、「切断」効果がもたらした「ザラザラとした異物感」があり、アナログ的な滑らかな時間とは違う隙間感やジグザグ感があり、心地よい。
 本書では、生成変化やアレンジメント、器官なき身体が登場したが、願わくば革命的戦争機械と抑圧的国家装置といったテーマ、つまり権力論的観点からのドゥルーズについても、いつか書いて欲しいと思う。

記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。読者様からの反応が、書く事の励みになります。