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記事がコメントの応答で完成することもある

コメント欄に関する幾つかの記事を拝読して、思っていることを書いてみます。

noteで初めてコメントをいただいた時に、探せど探せど"返信"ボタンがないのにたじろぎました。
一般的にブログサービスでは、各コメントの返信がスレッドで表示されます。

これはどういうことか…
noteは交流を推奨しないのか?

コメント欄が下方にあり開かないと全てを読めず、うっかり見過ごしてしまいそうです。

コメントがあったことはお知らせやメールで送られるので、ずっと気がつかないままでいることは少ないとはいえ。

なぜこんなシステムなのか?
私なりに考えてみました。

たどり着いた考えは、
noteは議論を推奨していないのではないか?
ということです。

長い間(と言っても25年)インターネットをやってきてつくづく思うのは、記事もコメントも、全ての文脈を書き表せないし、読み取れないということです。

このことについて今朝のstand.fm の番組"ことばの灯台"で、長田英史/おさだ てるちか さんが膝を打つ配信をされていました。

もちろん、書き手、読み手のスキルにも左右されますし、先になんらかの感情があって作為的に文脈を無視して読み取られる場合もあります。

悪意ならばバッサリ切り捨てれば良いですが(そうは言っても目にすれば穏やかではいられませんし、自信喪失にもつながりますけど)、そんなつもりじゃなかった!ということが、不幸な結果を招くということもあるように思います。

これまでに、延々と連なるコメント欄のスレを眺めていて、双方の論旨が噛み合っていない、すれ違っていると感じることが少なからずありました。

これは、外側から眺めているから気付けることで、渦中となると気付けないこともあるのです。

恥ずかしながら、その手の失敗を何度か重ねてまいりました。

当然公開されているので、コメント参加者以外になんらかのジャッジを求める格好になり、不毛な議論は方向性を失ったまま続けられます。
引っ込みがつかなくなる、というわけです。

noteは、それを回避しようとしている、と思います。

記事には記事内で言及して意見を述べれば、一旦最初の書き手から離れ言及した方の記事となります。
悪意的でないなら、言及するための記事を書くうちに、読めていなかった文脈に気づいたり、意見を述べる意味、について考える猶予があります。

書く、という行為は自らを見つめることでもあります。

コメント欄で性急に意見を述べたのでは、そういうわけにはいきません。
第一、そこは自分の場所ではありません。

そうは言っても、論文でもあるまいし、脚注だらけの文章を書いても楽しくないし、誰も読みません。

ですから、

そこのところどうぞよろしく!

という暗黙の了解をし合えると、お互いにうまくいくのだろうと思います。

神様でもあるまいしお互いに了解し合えなくても、
全てわかるようには書けていないのだ、
全てわかるように読み込めてはいないのだ、
ということを念頭に置くことが、より良いコミュニケーションを成立させるものと考えています。

正直を言いますと、私の読解力では理解できていない記事も多く読んでいます。
ところどころ分かることもあるから、要は楽しければいいのだ!と思って読みます。

私は現国の成績も惨憺たるモノだったし、作文も苦手だったので、もしかしたらヘンテコな文章を堂々とアップしているかもしれません。
それを推敲してくれる人もないままに公開しています。
勇気ありますよね(笑)

それで、わりと最後までしゃんと書いていないことが多いのですが、いただいたコメントに返信することで、隠れていた、見過ごしていた、気づいていなかった、書き足りていなかったことが補足されて、書き記したかった内容が完成に近づくことがままあります。

そう言うわけで、コメントをいただけるのはとても助かっています。
お礼を申し上げます。


※note画像は シゲク@note生き残り戦略さんよりお借りしています。
ありがとうございます♪


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