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【考察】『ライブの記憶を文章として残すこととは』についての僕なりの考察や気持ち

はじめに

 どうしてnoteにライブレポートを書こうと思ったのか。端的に言ってしまえば、実際のライブが終わった後も何度もそのライブをもっと楽しみたい!噛みしめたい!これなんだと思う。同時に、それを誰かと共有したいと思っているから。

 あれ、書くことが終わってしまった。Twitterで呟くのであればこのボリュームでいいんだけれど、せっかくのnoteという場なので以下にもう少し掘り下げたものを書いていければと思っています。どうぞお付き合いください。

ライブレポートをnoteに書く目的とは

 第一に上述のとおり、自らが体験してきたライブを文章で残すことで何度もそのライブを追体験したいということだ。そして、その為にはなるべく鮮度が落ちないうちに文字にして記録を残しておく必要がある。

 ライブの現場で体験したことを言語化するのが難しい場面や情景、気持ちなども多々あるけれど、それを多少無理にでも言語化してみると自分自身でも気が付かなかった、ちょっとした自身の気持ちの変化や感情に気が付くということも分かった。

またおいで


 こんな面倒なことなんてせずに、毎現場毎現場その瞬間瞬間をひたすら享受して、ある程度盲目的に対象のアイドルを推し続けていた方が幸せなのかもしれない。

 少し横道に逸れたが、第二の理由としてそもそも僕は昔から文章を書くという行為が割と好きということです。自身の気持ちや感情を表出するツールとして文章を書くことが、他の表現方法と比較して一番マシだったから。
 

 第三に僕の観測範囲内において、それなりの体裁と文章量を投じてライブレポを書いている人が総じて少ないと感じているからです。
 この原因がそもそも他のアイドルコンテンツなど(地上アイドルや声優アイドル)と比べてライブアイドル(地下アイドル)ファン人口の少なさによるものなのか、もしくは年齢層や時代(テキストサイト文化やBlog文化からTwitterや動画SNS等への変遷など)によるものなのかについてはまた別の機会に考察してもいいかなとも思う。

 そういったいまの状況を横目で見つつ、もっともっと色んなライブレポを読んでみたいという期待と自分が書かないと文章として記録として残らない。というある種の使命感が僕を駆り立てているともいえる。


 繰り返しになるが、もちろん僕もTwitterの140文字で収まりそうなインスタントな感想などはそちらで投稿しているが、twitterではとても書ききれないようなパッションや感想を文字で記録しておきたかったことが動機としてある。

 加えて、客観的なライブのデータならばそれこそTwitterを少し検索すれば拾えるし、更にある程度有名なグループだったら、音楽系のネット記事としてちゃんとした体裁で上がっているのも見かける。
だがしかし僕自身がその日その場で感じたことをある程度新鮮な状態で残しておくには何より自らがキーボードを叩くしかない

 僕が足繁く通っているアンスリュームのライブのセットリストをメモってTwitterに上げているのも、そうした妙な使命感から湧き出たりしている(こうして僕が上げているセトリを誰かが参考にしてくれてTwitterに感想を書いたりnoteでレポを書いてくれたら普通に嬉しい)。

 MCのたびにポケットから携帯を取り出してセトリをメモってるんですけど、その度に一瞬ステージから意識と目線が外れるんですね。どうしても。
こうしてセトリの記録を取ることと、一瞬だけステージから目を離してしまう、もしかしたらその瞬間に推しがこちらを見ているかもしれない。というリスクをいわば天秤に掛けてメモを取っているわけです。

見つかっちゃった

読者層をある程度限定できる

 次に、Twitterを見るというルートよりも読みに来るハードルを一段上げておきたかったという狙いがあります。その狙いとしては、僕が『伝えたいこと』と読み手に『伝わること』のギャップを極力無くしたいという気持ちが働いています。

 おこがましい事なのかもしれないけれど、不特定多数が容易にアクセスできるTwitterよりも多少は公開範囲を絞ることができるnoteというプラットフォームに書くことでハードルをちょっとだけ上げて予防線を張っているというのは僕がnoteに物を書くという意味の1つとしてあるのです。

 そうでもしないと、書き手として安心して表現の幅を気持ちよく広げられないからです。僕は少し過剰に読み手の心配ばかりしてしまう。そうやって窮屈な気持ちで書かれた文章というのはやはり何か奥歯に物が挟まったような窮屈な文章に仕上がってしまう気がして、そういったことからも一定程度読みに来るハードル設定はやはり必要と考えています(noteのWEBページに飛び一定量で書かれている文をその前後の文脈も含め文面通りに読み取れる読解力があるかどうかをふるいに掛けておきたいという狙い)。

 たとえば書き上げたnote記事のリンクを僕がTwitterに載せて、それを見てnoet記事のページに飛んだ人がいたとします。当記事のように長ったらしい文章がずら~っと出てきたらそっ閉じして引き返す人は割と多いと思う。

 もしくは、長そうだなと感じて所々掻い摘んで流し読みしたり、結論っぽい事が書いてある箇所だけを読むとか。読みたい情報が書かれている段落だけを読むとか。恐らく今回のこの記事はちゃんと上から下まで読む人の割合というのは1割以下ぐらいかなという目測だし、でもそれでいいと思って書いています。

3名様限定

 そもそもTwitterの短い文字数で読み手に誤解を与えない様に言葉をチョイスして書くというのは僕には難易度が高いと思っている(もっと数をこなしてゆくうちに上達する可能性はあるにせよ)し、読み手に誤解を与えるリスクは極力避けたいという気持ちが余計にブレーキを踏む。
 これについては、既述のとおり記事を理想の形に仕上げていく際に余計な心配をなるべく排除した環境で書きたいという想いからです。

 加えて1つの記事に対して一定以上の文章量を確保しようとするのも、過不足なく読み手に伝えたい事が伝わるようにという狙いと共に、日頃から活字やテキストを読むことに慣れている人をターゲットにしたいという気持ちからです。
 恐らくですが、普段から140文字で制限され、表現された文章に慣れてしまっていると、僕が書く様な最初の数行読んだだけでは着地点や言いたい事が全く見通せない冗長な文章が目の前に展開されると、それだけで拒否反応が出る人が多いんじゃないだろうかとも思うのです。

 それも少なからず狙いではあって、日々散見される140文字の世界でのミスリードによるレスバトルなんかがTLで流れてくると、思いもしない角度から被弾したくないなという気持ちがどうしても強くなってしまう。

 アルファツイッタラーの方々のようにTwitter上での感情のやりとりに長けた人たちですらそうなのだから、僕みたいに文章のセンスが無い人間からすればそれは恐怖でしかないわけです。
 表現の場において要らないリスクは当然避けたくなるし、わざわざそのリスクを取る必要もないのです(他にいくらでも書く場所が用意されているのだから)。
 

書かずにはいられないという病

 最後にもう1つだけ付け加えておきたい僕の性癖みたいなことについてのトピック。これについてはライブレポに限った話ではなく、WEBに文章を書くこと全般についてでもあります。

 時々無性に書かずにはいられなくなったり、既述のとおりこのトピックは僕が文章にしておかなければならない!といった妙な使命感から、自分自身にプレッシャーを掛けて書いているというパターンもある。
 特に、note上に一番最初に書き上げたこちらの記事はライブレポートではないものの、僕が書いてまとめないと世界中の誰もやらないだろうという気持ちが原動力になっている。

 上記のこの記事に取り掛かる前に、ネット上に当該曲(SNH48の『时间的个』)について僕と似た様な事をしている記事が無いかどうかというのは一通り検索しており、誰も完璧に探り当ててネット上にまとめていないということが判明したときに、僕のやる気スイッチがばちんっ!と入った。

 だからこそ終始かなり高い熱量で書き切ることが出来たし、それがこの記事の約8万文字という文章量にも大きく投影されていると思う。書き上げたあとは、「これでもくらいやがれ!」という気持ちで公開のボタンを押したことを今もよくおぼえている。

 上記の話しはある一定の使命感から「書かなきゃ!」という原動力が沸きあがったわかりやすい例です。
 ですが、日々生活していて気が付かないうちにちょっとずつ、本当にちょっとずつ少しずつあたまの中に滓のように得体のしれない感情が溜まっていったものが溢れ出てしまって、「書かなきゃ!」となってしまうことの方が断然多いのです。
 何かモヤっとしたものがどんどん頭の片隅に溜まってきているのは分っているんだけれど、他人に話しても理解されないだろうしな~。かといってこのまま溜め込んでいったらどうにかなっちゃうんじゃないかなっていう不安。そうしたもにょもにょした気持ちを「書いてスッキリしたい!」なのです。

 無性に書かずにいられなくなってしまう。というのは結構困ったもので、どんなに疲れていても気が乗らなくても、今その胸の内側にある感情を言語として吐き出さないとどうにも気になって気持ちが落ち着かなくなる。そして根底にはその吐き出した文字をもちろん誰かに読んで欲しい。たとえリアクションが無くても読んで共感して欲しいし、褒めて欲しい

 「書かなければどうにかなってしまいそう!」という切迫感と「誰かに読んで欲しい!」という欲求が車の両輪の様にして駆動し始めると、とんでもないスピードで記事が仕上がる。そして、書き上げた後は体力的に疲れているハズなのに、脳内をデトックスしたみたいにとてもスッキリする。

 そうして僕の脳内から飛び出し記事という形で具現化したそれを、改めて自らが読むことによってデフラグされたような状態で綺麗に脳内に収まる。記事を書く前は時系列があやふやだったり、断片的だった細かい事柄が記事にすることで整理され文字通りデフラグされた状態で綺麗に収まる。
 綺麗に収まるし、記事が外部記憶としてちゃんと脳とリンクするという感覚もある。

会話と文章それぞれの良さ


 どちらかと言うと僕は口下手ナイトメールな方なので、他人と情報や感情の共有をしようとしたとき、リアルタイムに顔と顔を突き合わせてするっていう作業が苦手っちゃ苦手(相手との相性によってだいぶそのハードルの高さや、伝わり方の容易さは上下はするものの)だ。あくまで情報伝達における得手不得手のはなしであって嫌いではない(ここ大事)。

 確かに、会話はインタラクティブかつリアルタイムに情報伝達が出来るという点で魅了的なのはわかっている。話し手の伝えたい事がある程度正確に聞き手に伝わり即時的にそのレスポンスが返ってくるというような、会話が持つプリミティブな楽しさは、会話という情報伝達手段が苦手な僕でもちゃんと感じているところではある。

 それはまさに普段僕がライブ後の特典会に参加していて、推しと短い会話を何度も何度もループしながら楽しめているということが証明しているんじゃないかなって。

会話のキャッチボール楽しいね

 文章という伝達手段と、会話という伝達手段を比べた場合、どうしても顔を突き合わせての会話という手段を取ったときに余計な情報が双方向に多く流れるというのが邪魔になってしまうことも多々ある。所謂ノンバーバルな感情表現というやつだ。
 度々例に出してしまうが、特典会で推しと会話をしていて今日はいつもより表情が優れないなとか、今日はいつもより声のトーンが高くて楽しそうにしているなとか、メイクがいつもと違うなあとかそいういうちょっとした変化に気が付いてしまって会話のペースが乱されるとか、会話が上の空になってしまったり、続かなくなってしまうなんてことが僕は他の人より多いかもしれない。


 その場で感じたことを伝えたい相手にほぼリアルタイムに共有できるという即効性は確かに捨てがたいものもあるのだが、一旦少しでも時間を置くことによって、目の前で起こった出来事や自分自身が感じたことをある程度俯瞰して評価した上で文字情報として形式を整えて、読み手に伝わりやすいフォーマットに構成し直して送り出せるという利点は僕にとってはすごく魅力的な作業で、僕はそういったことが好きだ。

 換言すれば、それが僕が無性に文章を書きたくなる原動力ともなっている。要するにその場の会話と時間を置いた文章には相互補完的な役割があって、僕はその比重が文章に残すという方に大きく傾いていることが多い。
 だから僕は特典会で推しと会話をするのも好きだし、一旦ライブから帰宅してある程度日にちが経ったあとに、特典会で埋められなかった想いをファンレターに書いて後日渡すというプロセスもとても楽しくてやめられない。


いろんなひとがいるよね

そうやってリアルタイムの情報伝達方法と比較して意図的にタイムラグを作るというのは新聞や雑誌などのマスメディアとネットメディアとの対比にも少し似ているところがあると思う。
 かといってTwitterのように文字数に限りがある中で僕自身が感じたことを満足のいく形で表現しきれるのかというと、僕にはそれ(140文字)に適応させる作業が重い足枷となってしまい、書くという行為そのものが面倒になってしまう一面もある。
 つまりそれ(140文字)に適応的になるぐらいならそれ以外の表現の場を(選択肢が残されている限り自由に)選択した方が窮屈ではないということです。

 
 繰り返しになりますが、かといって情報を発信したり感情を表出するうえでTwitterが全然使えないプラットフォームと言っているわけではない。手軽にいつでもフォローフォロワーを問わず界隈に広く情報を発信・拡散できるこのツールはやはりなくてはならないものですよねえ。適材適所、ツールの長短を見極めて自分なりに気持ちの良い使い方で上手に使っていこうと常々思っているところではあります。

ライブレポを書くうえで伝えたいこと

 こだわりとして比較的強く意識しているのが、僕のフィルター(主観)を通して見たライブの景色やそこで感じたものをレポートに乗せるということです。
 僕はデータがしっかりしたレポというのは書いていて作業感を感じてしまうので、あまりかっちりとデータを収集し成型して乗せたりというのは必要最小限に留めておきたい(データが揃っていないと記事として成立しないようなものは別として)と常々念頭に置いている。
 というか、始めのうちはそれでも手が動くのですが徐々に面倒臭さ(作業感)が勝ってしまい手が止まってしまいがちになる。

 仕事の資料作りにどこか通じる匂いを感じた時点で、僕は徐々にその記事に対する熱量や興味を失っていってしまう。要は、記事の完成形が脳内では見えているのに、データ作りに時間を掛けているともどかしくなってしまう。ながーい一直線でもうマラソンのゴールが見えているのに、実際の距離はまだまだ残っていてなかなかそこにたどり着かずジレンマを感じてしまうのと似ている。
 それでも無理矢理記事を仕上げようとすると、主観としてどうしても上辺だけのつまらない仕上がりになっていってしまう。僕の堪え性の無さや飽き性が如実に出てしまいます。

 どちらかというと、最初のうちはデータを揃えて順序良くちゃんと書いているんだけれど、書き手の情熱が溢れてきてしまって途中から脱線し始めるような文体が僕は好きだ。なぜならその書き手の人となりや、感動のバロメーターがそこに現れているような気がするから(本文から脱線するほどノッていると思えるから)です。

ゴールはどこ?

 綺麗なライブレポはデータさえ集めて時間さえかければ基本的に誰でも書けてしまう。なぜなら、お手本になる本当に完成された綺麗なフォーマットのレポはいくらでも見つかるし。それこそそのライブに出ていたアーティストのTwitterやHPを漁ればそういったものの類はいくらでも見つけられる。
 だが、書き手となる人が直に体験したフィルターを通した現場の色彩というのはその人にしか覚知できていないわけで、僕はそこに情報としての価値をとても強く感じる

 更には、自分が観てきたものと他の人が観てきた視点両方の情報が合わさる事でより深く追体験ができてしまう。それはレポートの数だけ可能といえます。

 だからこそ、僕もレポを書くときはそこを目指しているといえる。僕自身書き手であると同時に他の人が書かれたレポを読む読み手でもあるわけで、そうした場合お行儀の良いレポよりは、多少表現や文体が乱雑・乱暴(あまりにも目に余るような文章は避けるし、記事全体を見通してクオリティの最低ラインはもちろんあるし、目に余るほど公序良俗や品性に欠ける文体も一目散に避けるが・・・)であっても独自の視点や感想がふんだんに盛り込まれたレポートを読んでいる時の方が僕はワクワクするのです。

 そして、ワクワクした文章を見つけたとき、その記事そのものを飛び越えて書き手の人のファンになるということが往々にしてあります。

 極端な話し、レポートとしてはデータの欠落があちこちにあったとしても、読み進めていく毎に興味をそそられる文章が好きだし、読み終わった後に読んで良かったなという感想を抱くのはそうした記事に対してより強く感じます僕は。

 ライブレポを通してそのライブの空気感を追体験したり、そのアーティストに興味が出て実際にライブに足を運ぶということは実に素晴らしいことですが、僕はどうやらその奥にある書き手の人がどういう人なのかなっていうことの方にどうしても興味が移りがちだと思う事がある。

どんな人なんだろう?


 たとえば、最初はよくあるライブレポの形式を採っていて、読み進めていくんだけれど、いつの間にか書き手のプライベートな話しや横道に脱線していって、レポートの影も形も無くなっている。
 けれど、読後感はというと妙に良い記事を読んだなあという感想を持つ。そんな文章ってシンプルに読んでいて楽しい。その文章から得られるライブの情報というのは限りなく少なかったとしてもだ。
 そのライブの情報を摂取するという意味に於いては良質な記事ではないのだろうけれど、ただ情報を摂取するだけなら既述のとおりTwitterで事足りてしまうことが現状では多いと思う。
 ならば、せっかくある程度のボリュームの文章を読んでくれている読み手に対し、何か気持ちの上で残ったり引っ掛かりを感じてくれるような文章を書きたい。そこから浮かび上がる書き手の人物を想像して欲しい。と、いうのを僕はある程度考えながら構成を練ったりしている。

 さいごに、もっとみんなライブレポ書こう!と僕は強く言いたいです。
これは何もファンのみならず、演者さんにも強く言いたいです。演者さん側の視点でどういう風にその日のステージを捉えているのかというのを知ることが出来る機会って限られているじゃないですか。
 日々のスケジュールの合間を縫ってテキストを書くっていうのはなかなか難しいと思います。ですが、アイドルさんがあの日何を思い感じながらステージに立っていたのかというのを、きちんとまとめられた文章であれ、散文的なものであれ知りたいと思うファンは多いと思います。

ライブレポは千差万別で良いし偏っていても良い。


 日頃noteで色々なライブレポを漁っていて、むしろ千差万別であって欲しいし大いに偏っていて欲しいとさえ思います。逆に変に公正・公平さ正確性を出そうとすると面白みを減退させてしまうとも思う。
 これは何も他の人のレポをを読んで思ったというわけでもなく、実体験として記事を書いていて推しているグループや推している子のことばかり書いているなと感じて、変にバランスを取ろうとすると確かに公平さは出てくるんだけれど、途端に文章のパンチが弱くなる。
 そこにはやはり自分自身の興味が色濃く反映されていて、上手く繕おうとしてもちゃんと文章のノリというかリズムみたいなものに出てきてしまう。


 特にそういう風に思ったきっかけがライブ中にあって、大きいフェスや対バンに顔を出すと普段主催やワンマンで見知った顔ぶれとはまた違ったオタクの人たちをフロアで観察する機会がある。
 本当にみんな色々な楽しみ方をしている人がいて、それを横目で眺めつつ同じステージを視界に捉えていながらもきっとこの人は僕とは違う目的であったり違う楽しみや感動を感じていて、だからこそその目に映る景色はきっと僕のそれとは全く違うのだろうなと率直に感じたわけです。

 僕は今の制限された会場レギュレーションの下では振りコピや推しジャンが好きだからとにかく振り振りしてぴょんぴょんして身体全体で楽しむスタイルだ。
 かと思えば、ずっと席に座っていたり、立ち位置から動かずにじーっとステージを真剣な面持ちで見ている人、各グループの情報を印刷した紙の束をファイリングしてそこに何かをずっとメモしている人だったり、何十万円もしそうな大きなレンズのついた一眼でステージ上のアイドルをファインダー越しに見つめながらシャッターをひたすら切っている人。フロアの一番後方でずっと寝ている人。本当に色んな楽しみ方、参加の仕方があるなって。

 だったら、それをレポートに書くことだって十人十色であるはずなんだ。僕はあのグループのこの曲は振りコピが楽しいとか、あの曲はノれるといった感想を割と書きがちなのだが、前述のフロアの一番後方で眠りこけている人は絶対僕の様な感想にはならない。なるはずがないし、なりようがない。

 このグループのあの曲は睡眠を取るのにはもってこいだとか、あの箱は重低音が効きすぎていて眠りが浅くなるとかそういう感想を書くのかもしれない。
 最前マサイが好きな人は、あの箱は柵がしっかりしていてジャンプしやすいとか、柵の高さが丁度いいとかそういうことを強く思っているかもしれない。

斬新な柵ジャン

 そういうそれぞれの楽しみ方の違いに目を向けていくとどうだろうか、僕と同じように振りコピが好きな人が振りコピを主としている人が書いているレポートを読むよりも、むしろ会場でひたすら寝ている人のレポートや写真専門の人のレポートの方に興味が惹かれるんじゃないだろうか。

 そして繰り返しになるが、そこからその書き手の人のバックボーンについて僕は気になってしまう。普段どういう仕事をしているのかとか、どんな変遷を辿って地下アイドル界隈に降りてきたのかだったり、どういうジャンルの音楽が好きなのかなとか。

 他方共感を得る為だけだったら、Twitterのような短文に納めておいてその枠組みの中でいいねのやり取りをした方が効率的でもあるし、わざわざnoteというプラットフォームを選択して、ある程度の文量をある程度の時間を費やして書き上げる労力を考慮するとTwitter上でふぁぼを集めた方がインスタントで楽だし気持ちが良いんじゃないかなとも思う。

今回のまとめ

 ライブレポをここnoteに書き始めたのは、その時1回限りのライブという生ものを僕自身のその五感で感じ、体感した感情を鮮度の高いうちに(自身で記憶をあまり改変しないうちに)切り取ってその記憶と感情の断面を押し花の様に残しておきたかったから。
 そうして集めた押し花のファイルを開く度にまたあの日の感動を噛みしめる事が出来る。
 押し花という表現が適切かどうかあまり自信がないので、もう1つ例を出すとするとその1回限りのライブを見て感じた色を僕なりのえのぐで真っ白なキャンバスに書きなぐる。という例えでもよいかもしれません。

 そういう意味では特典会で撮るチェキも似た様な意味合いを持っているかもしれません。撮り終わったチェキを眺めていると僕はその日に推しと話した内容であったり、その時感じた僕の感情や推しの表情をも追体験することができる。
 この場合、チェキも押し花と同じように時間の一断面を切り取ってフィルムに丸ごと(その時の服装や表情のみならず外部記憶としての機能も持ち合わせている)焼き付けていると言えるのではないでしょうか。

瞬間を切り取る

 脳みそはとても都合が良くて、時間の経過とともに記憶を結構いい様に、いい加減に書き換えていってしまう。それは見たもの聴いたもののみならず、その時に感じた自分自身の感情すらも時間の移ろいとともに上書きして勝手に変化させてしまう。
 たとえば朝抱いていた気持ちが夜には正反対の評価にクルっと変わっているなんてことは、日々の生活の中を覗いてみてもいくらでも見つけられる。

 だからこそ、一断面を切り取ってそこに文章と言う形で残しておくと、何日後何か月後、何年後かに自らが振り返った時に「そうか、あの時僕はこういう風にライブを見ていてこんな感情を抱いていたんだ」ということが後々客観的に見て取れるわけです。
 

 そうやって当時と現在の自分の気持ちを見比べて何がしたいのか。冒頭にも書きましたが、そのライブを繰り返し繰り返しもっと楽しみたい!噛みしめたい!これなんだと思う。しつこいですけど、やっぱりこれなんだと思います。

 だからこそお行儀の良いありきたりなライブレポではなく、情熱をそのまま叩きつけたような文章を書きたい。
 けれど、それをWEB上に上げるということは少なくとも他人に読まれ評価されるということ。自意識と承認欲求がグラデーションになった状態の気持ちと常に葛藤しながらこうして文章をひねり出しているのがいまの僕です。

 ここは僕の記事の書き方の問題点がよく表れている部分でもあり、今後の改善点の1つでもあります。
 つまり、ここまでこれだけ公平性や公正性を排除した偏ったライブレポが望ましいと散々言っておきながらも、僕自身他人に読まれ評価されるということに意識が向きすぎてしまうきらいがあるということです。
そのせいで、文章全体でバランスを取ろう取ろうという力が働き過ぎてしまっているのは書いている僕自身がよくわかっている。

 そう、文章の中身のバランスをとって体裁を整え、そういう意識で推敲していくと読み手に優しいとは思うんだけれど、あまりにもそこを重視してしまうとそれって形式化されたビジネス文書やビジネスメールに近くなっていって、読んでいて面白い文章からはどんどん遠ざかっていってしまう気がするんです。そうなってくると、それはもう単純に情報を素早く正確に得るためだけの文章と化してしまう。

 その辺のせめぎ合いと葛藤から生み出されているのが、今僕が思い立ったかのようにときどき書きなぐっているライブレポを始めとするnote記事です。

 物を書く上で公序良俗の範囲であったり、権利関係や個人のプライバシーを遵守するのは言うまでもないけれど、どこまで勢いで書いて良いのか、はたまたその勢いを少しセーブしてどこまで推敲し読みやすさや内容のバランスを意識するのか、どの加減まで公平さや客観性を出せばよいのか、いやホント考えれば考える程に筆が遅くなってしまうジレンマ。やれやれとほほだよ。

権利関係はしっかりと

うーん、表題から微妙に脱線して着地した感は否めないが今日はここまで。
なにぶんいつも勢い任せで書いているもので少々お見苦しい点やへんてこりんな箇所もあったかと思います。

ですが、お陰様でだいぶあたまの中がクリアになりましたので、更にアルコールでしっかり消毒してから寝ようと思います。

いつも最後までお読みいただきありがとうございます。

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