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第3話 満月

 赤鼠のはなしを、妓夫達から聞き始めたのはその頃だ。

 なんでも、江戸の街で大きな御店ばかりを狙う盗賊の、大悪党だという。

「うちは、大丈夫かな」

 若い妓夫がそう言って、身体を震わせるけど、少し年のいった妓夫が「吉原まで来ても赤鼠が狙うのは大店(おおだな)だけだ。うちは、ちいさい、ちいさい」と笑って、お袋様に叱られた。


「佐平から、お前の姐(ねえ)さんに」

 あたしとカオナシが話したのは、赤鼠の話を聞いてから、随分と経った頃だった。

 カオナシはぶっきらぼうにあたしになにかの紙を渡す。それは、とても綺麗な綸子(りんず)に包まれた、お守りのようなものだった。

「佐平?」

 聞き慣れたその名前に、あたしの頬が引きつる。

 江戸の薬問屋、越後屋佐平。

 あたしを育ててくれた姐さんの愛人だ。

 そいつの金であたしは住む家にも困らず、食べる物にも困らず、書や琴を嗜みながら姐さんと二人で暮らしていたから、佐平はあたしにとっても恩人ではあるんだろう。

 だけど、母親や女将さんに姐さんの存在も告げられないような甲斐性なしで、姐さんが咳の病を患って以来、家には来なくなった、薄情者だ。

「佐平なんて、知らない」

「知らなくても良い。お前の姐さんに用があるんだ、これを受け取れ」

 カオナシはそう言って、あたしの手に、そのお守りを押しつける。

「なに、これ」

「お前の姐さんの薬だよ。俺の娘も飲んでる」

 ……娘……

 あたしはカオナシを見つめる。

 死に別れたのか離縁したのかは知らないけど、カオナシに奥方はいない。だけど、年の割には大きな子どもがいるという話は、妓夫の誰かから聞いていた。

 だけど、それが娘だとは知らなかった。

 カオナシ本人から初めて「娘」の存在を知らされて……あたしの心は、なんだか大きな穴がぽっかりと空いたような気がした。

「お華はこれで、だいぶ良くなったんだ。お前の姐さんにも、飲ませてやれよ」

 そう言って、カオナシは、薬袋を握ったあたしの手を両手でぐっと握って、そのまま立ち去って行った。



 許可を貰って、禿(かむろ)と妓夫(ぎう)を一人ずつ連れて、あたしは「故郷」である姐さんの家に行く。

 里下がりと言っても同じ吉原のずっと隅っこの長屋の一つだったし、姐さんはもともと桃源楼から年季明けで佐平に妾として身請けされていった人だったから、親父様もイヤな顔ひとつせずに「姐さんに」と、お酒やお菓子のお土産を持たせてくれた。

 久しぶりにあたしの顔を見た姐さんは、満面の笑顔であたしを受けいれてくれた。だけど、その顔は酷く痩せていた。

「姐さん。世話する人、いないんじゃないの?」

 あたしが尋ねると、姐さんが「そんなことはどうでも良い」と言って、あたしと禿を家に上げる。妓夫は「おなごの家には入れぬ」と、家の前で待っていてくれた。

 とりとめのない世間話をしながら、姐さんはあたしがあげた薬を、目の前で飲んでくれる。そして……「佐平に」と言って、あたしに一通の手紙をさしだしてきた。

「なに? 恋文?」

「ちがうわよ。佐平さんに、お手紙を渡してほしいと言う方が居て……男の方よ」

「隠さなくていいよ」

 からかうと、照れて「違う違う」とあたしを叩く、姐さんが可愛い。




 桃源楼に帰ったあたしは、姐さんから渡された恋文を、カオナシに渡した。

「へえ。姐さんから佐平に恋文かぁ。三十路を超えた男女の惚れた腫れたというのも、粋なもんだねえ」

 自分は好きだと言われればすぐに床に入ってしまうなんて冗談を言いながら、カオナシはその恋文を懐にしまう。

「ねえ。カオナシ」

「なんだ」

 カオナシが、振り向いた。

 だけど、遠くからほの香姐さんに呼ばれたカオナシは、すぐにそっちに振り向いて行ってしまった。

 薬問屋 越後屋の佐平から、ウチの姐さんへの、病気の薬。

 姐さんの、薬の御礼の手紙。

 その受け渡しは、毎月の決まり事になった。

 それは何故か決まって満月の夜だったけど、なぜそうなのかは、カオナシにも分からないようだった。ただ、満月の前の日に佐平に呼び出されるからそうなのだと言った。

「姐さんの具合はどうだい」

 カオナシに姐さんの容体を聞かれても……あたしは、首を振るしかなかった。

「もう……ながくない」

 姐さんは、自分の死ぬ時期を知っている。

 だからこそ、あたしをこの郭(くるわ)に預けた。あとのことは頼むと親父様に懇願しながら……。姐さんは、あたしを手放した。

 姐さんは、縁もゆかりもない、ただ、夜鷹の里で目があっただけのあたしを拾って育ててくれた人だった。

 あたしが桃源楼に引き取られ、花魁になると決まったとき……姐さんはその細い身体で飛び上がるほどの勢いで喜んでくれた。

 姐さんを喜ばせたい……。花魁になると決まるまで、必死で頑張ったのは、そのためだ。姐さんに、あたしの花魁道中を見せてあげたい。それが、あたしの小さな望み。

 ただもうひとつ……姐さんにずっと生きていて欲しいと思うことが……出来た。



 あの日から相変わらず、カオナシはあたしと話してくれることはほとんどない。ほの香姐さんや千代菊姐さんのついでくらいな話し方。

 だけど、この、薬の受け渡しの日だけは違う。

 ほんの短いやりとりだけど、カオナシはちゃんとあたしだけを見て、あたしだけに笑いかけて、あたしだけに話しかけてくれる。



 このまま、この時間がずっと続けば良いのに……。

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