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Tokyoと仕事とワタシ

自然の多様性

新卒として働き始めてはや3ヶ月。早いといえば早いし、ようやく3ヶ月経ったというような気持ちもある。仕事を覚えるのは大変だし、ミスをしない日はないし、できないことがたくさんあるけど、それでも一つ一つ積み重ねて少しずつ少しずつできることが増えてくる。

東京という土地も少しずつだが慣れてきた。完成された街”Tokyo”、足りないものはなく、情報とものが行き交い便利さに裏付けれらた街。
最初は、正直東京に行くことが嫌だった。田舎で暮らしていたからどこにでも人がいることにうんざりするし、満員電車はなおさらだ。
しかし、街は思ったより緑化されている。街路樹もそうだが、ところどころで散歩道や公園が整備され、自然を感じられるような形になっている。

近所の散歩道、東京とは思えないくらい緑化されている

おそらく私のような、田舎っ子が東京にきたときのためにしっかりと整備されているのだろう。

実は東京の木々は、田舎のそれと比べて元気なものが多い。(というように感じる)普通はもっと木々が生存競争をかけて、廃り、淘汰されを繰り返すが東京は適切に間引き、十分な日光を浴びるように設計されているので木々が立派に育つようになっている。

森に行けば雑草が育たないように、普通の自然はもっと過酷で残酷で美しい世界なのだ。

4月の日比谷公園、ネモフィラが綺麗に咲いていた。省庁の目の前なので時々ピクニックに出る

頻繁に自然とはなんなのかということを考える。自然は主に2つの意味で使われる。木々や森を表すようなnatureとありのままというような意味でのnatural的な自然である。

natureを見ると心が安らぐ。おそらく猿だった時代、もしくはそれ以前に刻まれたDNAが自然との共生時代を知り、そのDNAによる記憶が蘇ることがあるのだろう。公園、田園風景、森それぞれをとってもなんだが心が安らぎ、故郷を思い出すような懐かしさを感じることがある。

さて、natureがnaturalかというとそうでもないというのは先述した通りである。森の中に住まう木々は、日光を求めて上へ上へと伸び、なんとか根っこを張り、土に根付くことができたものだけが生き残れる。

街路樹も公園も言ってしまえばとても人工的で、計算し尽くされた形をとっている。日本人は桜が好きなので、ソメイヨシノがそこら中に植えてあるけど、あんなに一種の植物だけが生存していること自体がnaturalなあり方とは程遠い。

naturalはもっと残酷で、数学的である。ダーウィンの進化論のように、自然淘汰という非常にシンプルな仕組みでの中で、時代に取り残されたものは淘汰され、変わり続け、環境に適応できたものが生き残る。強くて大きいものが生き残るのではなく、”変わり続けられるもの”だけが生き残れるのである。これは心に留めておかなければならない。


自然淘汰の仕組みでnaturalにnatureが築かれる。それゆえに、生物は恐ろしいほど多様な種類を育んできた。人だけ見てもこれだけ多様なのに、地球を見れば何百万という種の動植物がいて、そこにはまだ未知の生物もいたりして、わたしたちの土台にはこの生物多様性がある。

多様な生物から生まれる生態系こそが、私たちの生命の循環の根本で、そこから命を頂戴し、少し手を加えることで私たちは生きていける。
これだけ遺伝子工学が進んだ世界でも、私たちは農業をしないといけないし、クローンが作れても、新しく肉や野菜を生成することができない。原子の配分や、組織の働き、構成がわかっていても錬金術は不可能だった。ましてや命あるものを生み出すことは、生命の神秘としか言いようがない。

話が少し逸れたが、生物多様性がこの世界に生きる根本原理に思える。環境省はこの分野も管轄しているので是非とも一度は関わりたいと思っている。

多様性というものを考えたとき、都市というのはある意味多様性を生み出す場所でもある。人が行き交うということは、それだけ多様な人材が集まる。そうするとそれだけ多様な文化も生まれる。

Tokyoという場所は、個性の固まり、多様性の権化だ。日本人口の1割が集まり、東京にないものはない。こうした多様性から生まれる相乗効果が東京を東京たらしめるパワーを生み出しているように思う。

さて、それなのにTokyoという場所は時々ひどくモノトーンに見えてくる。あまりに多様で、特徴を掴むことができず、個性に埋没する。どこに行っても同じようなコンビニ、ビル、建物、ヒト…

田舎であれば、郷土料理はこれ!観光地はこれ!と定めることが容易だが、東京というものを包含するような個性というのは、どうも表現しづらい。

レンズのピントにもよってまた違うのだろう。世界と比較したTokyoだったり、地方と比較した東京、東京の中からみるそれぞれの地域。いろんな東京があって、それが東京の多様性である。

個性とはある意味、多様性を包含したレンズのピントの位置側面で、そうした偏屈な多様性から生まれるのかもしれない。


生命の論理

こういうことを考えていくと、私たちはただただ遺伝子のキャリアなのではないのかと思う。遺伝子の川が流れていて、私たちはただそこに媒介する乗り物に過ぎない。生殖という手段を用いて、川が枝分かれしていき、環境要因によってその道が閉ざされたり、あるいは大きな川の流れに乗っていたりするだけのそういった流れの一つに過ぎないのではないか。

つまり生命というものに大きな意味はなく、ただ、遺伝子を残し伝えるためだけに存在する。こうした無常感に触れることになる。

森は自然淘汰の世界だ

生命が遺伝子のキャリアに過ぎないならば、生命とは一体なんなのか。貧困も戦争もあり、限界ギリギリまで働いている。寿命は伸びるけれど、子供は生まれず。生活は便利になるけれど、地球を汚す。医療は拡大するけれど、健康は保たれない。

日本の人口は、数学的に今後どうなるかがほとんど決まっている。総人口は2030年には1億1,662万人、2060年には8,674万人(2010年人口の32.3%減)にまで減少すると見込まれている。
医療は週末医療に医療費の4割が使われている。
国全体の総予算170兆円のうち、120兆円が社会保障。2017年の教育支出のGDPに占める割合は、日本が2.9%と、OECDで比較可能な38か国中37位という勢い。

死を先伸ばしすることに必死で、新たに生まれてくる生命を大切にしない。これでは日本に未来があるとは到底思えない。

そこで、自然の死生観というものを改めて問い直さないといけない。昔は生まれてくる子供の大半は亡くなって、成人してもせいぜい50まで生きれば良い方だった。それが医療や経済の発達で乳児死亡率はグンと下がり、寿命は80を超えるまでになった。

それはきっといいことなのだろう。いいことだと思い続けてきた。だけど、死というものがあまりに遠い存在になって、死と向き合うことが現代には少なすぎるように思われる。死というものはもっと崇高で、恐ろしく、儚く、美しいものであったのではないか。
死は自然が持つもっとも崇高なシステムの一つだろう。自然淘汰を生み出し、進化を繰り出すためのもっとも大切なシステムだ。

例えば、侍は切腹を命じられたとき、生き恥を晒すより、名誉の死を選んだ。それがいいという訳ではないけれど、ただただ生き延びることが大切というのもまた違うだろう。
死と向き合うことではじめて生と向き合える。
個人のレベルでも、社会的なシステムのレベルでも、もう少し死と向き合って、どのように生を全うするのかを考えないといけないだろう。


どこまでが自然なのか

森はnaturalにnatureだ。というのは多くの人が納得してくれるだろう。人が入らず、ありのままの姿で自然を形成している。

では、人の管理が入った国立公園はどうなのだろうか。確かに、人の手が入ったといえば入っているが、基本的には大自然のあるがままを写しているように思う。

それでは、公園や街路樹はどうなのだろうか。意図的に設計された形で自然の植物を植林している。人工的な自然とでもいうのだろうか。それでも、一つ一つの木々は懸命に生きているし、人の意図が介入しているから人工物とも言えるかもしれない。

そもそも人間は自然なのか人工なのか。
人間という存在が広く、動物の一種と見れば自然の一つかもしれない。私たち人間が特別だという認識があるからこそ、人工という言葉があるのかもしれない。

こういう風に考えていくと自然と人工的なものの境界線が非常に曖昧になってくる。一体どこまでが自然でどこからが人工なのか…

街路樹はnatureなのか

広義で考えていくと、現代は人新生の時代と呼ばれるほど地球そのものに人の影響が及んでいる時代である。気候変動、大気汚染、水質汚濁このような影響が多くの自然に影響を及ぼしている。完全に人の影響が及んでいない自然など存在するのだろうか。

一方で日本の里山のように、人の手を加えることで自然と共生するということもありうる。里山は、完全に自然のままでもなく、また人間が完全に入り込んで管理しているわけでもなく、適度な人間の介入と管理によって動植物が増え豊かな生態系を保持し、生物多様性を保全する“場”として機能している。

そもそも、人に限らず、多くの生命が他の生命を糧にして生きている。例えば、森という環境があるから虫や動物が寄り添い、お互いに食べたり、食べられたりしながら一つの大きな生態系を築き上げている。
人も同じで、人がいるからこそ、野菜や穀物は育つし、家畜も生きていける(逆にいうと、人がいないと生きていけないように仕立て上げてしまった)
そこに生命の倫理観が乏しいのは大きな問題であるけれど、種の拡大ということだけを考えれば、人に選ばれし家畜たちは圧倒的な拡大を見せている。

人もその他の生命もそれぞれが作用し合いながら生きていくわけでそこに自然と人工の境界線もないし、死も自然の一つの循環に過ぎないし、そういうnaturalな生命感に人は逆らうことはできない。
地球46億の歴史の中の文脈では、人類史ですら大したことではないし、人の生き方なんて本当に無に等しい。
それでも、私たちは生きていくし、貧困だろうと、税に刈り取られようと、災害が増えようと時代は流れるし、前を向いて歩かないといけない。

本当にこんな時代において人類はどこを向いて歩いていくのだろうか。


東京とアートと森

東京に来てからよく美術館にいく。東京のいいところは公園がしっかり整備されていることと、美術館が多いところだ。

特段、アートに触れてきた訳ではないけれど、人にはクリエイティビティーが必要だし、そういうアーティスティックな思考を刺激するのはやはり美術館だと思う。

というのは建前であるが、社会人になって土日が暇なのと、かといって旅に出るには短すぎる2日間なので、外に出て何かしたいと思ったときにちょうどいい。

学生時代は平日は勉学と課外活動で手一杯で休日はバイトと遊びの予定が詰まっていたので、夏休みと春休みを除いてはゆっくり時間をとれる日はなかった。

そういう意味では、休日が確実にあり、平日できちんとお金を稼げる社会人というのはとても良いご身分だと思う。なので、この休日の過ごし方がより一層社会人としての成長や充実したライフスタイルに大きな影響を与えるのだろう。

言い換えれば、どんなに平日に身体を酷使しても、きちんと休日も生活習慣を乱さず、自分の優先するべきことに時間を使うことで、より充実した人生を送ることができる。

私は学生時代にやりたくてできなかったことがアートである。まず、美術館は地方はそんなに多くない。(東京に来てからその多さに驚いた)
アートも創作の方であれば良いのだが、そういう意味では文章というものが私の想いや考えを表現する一番の手段であった。

絵画や音楽は、これまでほとんど触れてこなかった分野なので、やはり人並みに知っておきたいし、アートの深く追求する姿勢や気づきを与えてくれるインスピレーションは、感性と思考を磨くのにはうってつけでもある。

そういうわけで、東京に来てからいくつかの美術館を廻った。

藝大の美術館。テーマがまさにすぎて足を運んだ

アートを見る私の目線は、その絵画の抽象的な美しさというよりも、その絵が放つメッセージを読み解くということである。ほとんどの作品は何かしらのメッセージを出している。もちろん、それがひとにとって面白いだったり、美しいと感じさせるということも立派なメッセージだけれど、むしろ、現代資本主義を批判していたり、男女の生き方を映し出していたり、社会の諸問題に一石を投じるようなものが個人的には好きである。

時に、アートが放つメッセージは強烈に一際輝く時がある。特に現代アートはそのあり方を問うてきた時代なのだろう。どこまでがアートでどこからが違うのか…

どこまでが自然でどこからが人工なのか。まるで先ほど投げた問いとそっくりになる。結局アートも、哲学的な問いも類似した側面を持つように思える。


そういえば、森を歩くときも似たようなインスピレーションに出会うことがある。森でなくて街でも良いのだけど、木々の個性や街の設計を観察したり、何にも考えずぼーっと過ごすことで考えが深まってくる。

思うに、思考というのは出し入れが重要なのだろう。インプットして空にしてを繰り返すうちに思考の枠組みが固まり、それがさまざまな点と繋がることで一つの思想に近いものが生まれる。
それを形にするのがアートのプロセスであって、表現するということは、目に見えない思考を可視化する手段でもある。

深く、深く自分の思考に潜り込むという点、細部を観察し気づきを得る点などアートと森の世界はつくづく似ているように思われる。

アートを見る姿勢と森を見る姿勢は似ている


国家公務員の仕事

国家公務員と聞くと、たいそうな仕事をしてそうに思えるけど、おそらく他の公務員とたいして変わらない。(他で働いたことがないからなんともいえないけど)

見てる視点が国家という単位か、地方という単位か、それとも警察だったり消防だったりの特定の分野に関わるかなどの違いはあるけれども、公務を行い、国民の税金をいただいて仕事をしているという点では同じである。

もう一つ国家公務員というのは、噂に聞く通りの激務だった…働き方改革を切に願いますが、ようやく研修(なぜ今の時期?)が入って少し時間ができてきたのでこうして久しぶりに文章を起こしている。


国家を扱うという点で大きくポイントになるのが、法律を所管していること、予算を決めていること、国際問題を大きく扱うという3点だろうか。

法律によって世の中のルールを決め、予算を通してessentialな部分に分配し、日本の顔として諸外国とのやりとりをしていく。

入省して思うのは、やはりスケールの大きさだろうか。特に私自身は国際部署に配属されているので、常に国際会議の話を聞く。そうすると新聞で書かれていることと、やってきたことが一致してくるので、部分的に関わっていた会議などが新聞で記事になっていると、会議の全容が理解でき、そんなものに関わっていたのかと衝撃を受ける。そういうところはやはり入ってよかったなあと思う。

葛西臨海公園:都会と自然の対比が象徴的だ。こんなところで日々仕事をしている

国家公務員のたいていの一年生は窓口業務というのを行う。その名の通り、自分の室の窓になって、他課室からの業務を室内に分配したり、もしくは仕事を他課室にお願いしたり、スケジュールを取ったり、よく言えば室内の秘書みたいな役割で、悪くいえば雑務を押し付けられる。

そういうわけでたいていの1年生はモチベーションの落とし所を見失う。日本をよくしたい!という想いで入っても現実にはひたすらメールを裁き続けることになるからだ。

なので、少なからず目的を見失って退職してしまう人も現れる。


確かにつまらない業務かもしれないが、おそらくほとんど1年目の業務などつまらないものだろう。たとえば、飲食であれば皿洗いやフロアの掃除、こうした雑務が必ずある。

神は細部に宿る。なので細部(雑務)がこなせなければ、本筋もうまくこなせない。会議であれば、そこで話し合うことは、それまでのロジ(段取り)で会議の成功も失敗も決まってくるということだ。

逆に皿洗いや掃除がテキパキとこなせれば、その人は仕事ができるとみなされる。皿洗いができる人というよりも仕事ができる人としてだ。
なので、雑務をいかに丁寧にテキパキとこなせるかは、あらゆる業務の成功につながってくるし、それが自身の成長にも必ず生かされてくる。

そういえば、スキーをやっていた時も、スキー板を履いて練習している時間よりもビデオを見て自分の滑りを研究したり、走り込みをしたり、フィジカルを鍛えたり、そういう地味なこと、スキー以外の時間も淡々とこなせる人が結果を出していたように思う。


とはいえ、木を見て森を見ずの状況に陥りがちで、今の業務がどのように社会につながっていくのがほとんど見えず仕事をしているのは間違いない。多分それは私だけでなく、ほとんどの同期、ほとんどの先輩方、もっといえば多くの社会人が陥ってしまう罠だろう。

社会とのつながりがわかれば、もう少しモチベーションを維持しやすいのだろうか。そういうのがわからないから結局、目に見える昇進欲求とか、昇給欲求に傾くのだろうか。

志があれば、道を違わずに済むかもしれないが、日々の仕事をブーストするモチベーションはどうやったら生み出せるのだろう。しばらくはこの課題と悩みながら、黙々と仕事を進めていくしかないか…




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