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遠い夕暮れの日


私には子供の頃から言えない言葉がある。
大人になった今もその言葉を口に出す事は、
出来ない。

それを口に出すことは、
一生懸命に苦労しながら私を育ててくれた母にとって、
とても残酷な言葉なような気がするからだ。


私は祖父母と同居の家で育った。
近所には叔母も住んでおりいつも家に来ていた。

母が祖父母や叔母の関係性に悩んでる姿や、
些細な争い事を子供の私は目の当たりに
見てきた。


私は習い事が多い子供だった。
小学校の3年生には進学塾にも入り、
平日学校帰りはすべて塾や習い事だった。

仕事をしている父母に代わり、
送り迎えはすべて祖父だった。

習い事の帰りにはいつも、
アイスやジュースを買ってくれた。

塾の近くに「モスバーガー」ができたときは、
真っ先に連れていってくれた。
私は初めて食べた「モスのライスバーガー」の
おいしさに感動したことを話すと、
祖父は嬉しそうによく「モスいくか?」と
いつも連れていってくれた。

その時間を味わえるのは、
兄弟、従兄弟達でもなく塾通いしている
私だけだった。


こう話せば良い祖父だと思われるが…
私はおじぃちゃんが大キライだった。

「おじぃちゃんはお母さんをいじめている。」
いつもそう思っていた。
子供心に母が祖父母に気を遣い疲れている姿や、
母が母らしく笑っていないことが
私はなによりも辛かった。


夏休みの旅行も祖父母が一緒にくることを聞くと、
本当は嬉しくて子供ながらに興奮した。
でも隣でため息をつく母を見ると、
とてもそんな事はいえなかった。

小学校で敬老参観日が行われた時も、
おじぃちゃん、おばぁちゃん大好き!と
周りが手紙を読みあげた中でも、
私はいつまでも元気でいてね…。と、
これが精一杯の祖父への言葉だった。


祖父は93歳で永眠した。
最後は施設だった。

介護が必要となった祖父を母は仕事を辞め
世話をした。
金が盗まれた!と騒ぎ出し近所に迷惑をかけ、
深夜俳諧、下の世話、母も疲れきっていた。

施設に入ればもともと色男だった祖父は、
若い女性の介護士さんの身体を触りまくり、
「お触り清士さん」とあだ名をつけられ、
菓子折を持って謝り行くのは母の役目。

「うちの施設では面倒みれません…」と、
2つの施設から断られ追い出された。
その度に新しい施設を母は探した。

祖父が永眠するまで母は苦労をした。


最後は笑顔だったと聞いた。
私が知ってる祖父は多趣味で、
カラオケ好きで、カラオケの機械を家に導入し、
私がこの歌を聴きたい!と言えば、
当時、流行りのJ-popを練習し披露してくれた。
それはとてつもなく下手くそだった。
「すごいだろ?」と笑っていた。
おもしろい人だった。





私は葬儀でも涙を流すことはできなかった。
両親や兄弟、親戚がいるなかでは。


お通夜が終わった後、
父が葬儀の朝まで線香の番をすると聞き、
私は父の身体を気遣うように番の交代制を
申し込んだ。


部屋には私と祖父、ふたりとなった。

久しぶりに見たおじぃちゃんは、
びっくりするほど痩せ、まるまるした顔でもなく
別人のような気がした。


子供の頃から
仏壇のお水お花を変え「般若心経」を挙げる
祖父の毎朝の日課を見てきた。

覚えたつもりはなかったが、
自然と子供の頃から私は「般若心経」を
唱えることが出来た。

今、思えばそれは、
祖父が私に残してくれたものだった気がした。

忘れるはずがない「般若心経」が、
この日はどうしても唱えることが出来ず、
ひたすら写経をした。
子供の頃から何ひとつ祖父に伝えることが
出来なかった素直な想いが込み上げてきて、
なんだか、泣けた…。






夕方、そっちゃんと一緒に散歩に出た。

夕暮れの優しい光が
私とそっちゃんの顔を照らす。


この夕暮れを光を見ると、
ど〜しても、この景色が目に浮かぶ。

いつも水やりをしていたうちの庭。


椿の木や桜の木…
私がうまれた時に祖父が植えた「たかこの木」
遠くまで届くようにホースで水をかけた。
子供の私はその時間がとても好きだった。


大人になった今でも夕暮れの光と共に
鮮やかにその記憶は蘇る。

顔にかかる水しぶきの心地良さや、
水がかかった芝生の匂い…
庭の花や木々たちが生々とするような感覚。

ぜんぶ、ぜんぶ、ちゃんと覚えている。

そしてそれは…
私が祖父と毎日一緒に見ていた庭の景色、
私が1日のなかで1番大好きな夕暮れの時間。

あったかい優しい光のなかで、
「同じとこばっか水かけるな、今度はあっち!」と、
遠い記憶の祖父が隣で指差をさす。
その横顔はまるまるした顔で、
やっぱり笑っていた。



夕暮れのひかりのなかで…                 tacco


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