プロジェクトの哲学──第2回「フライヤー」
現代社会ではプロジェクトと無縁で生きていくことはできない。前回の記事では、グロイスの言葉を引きながら、現代社会においてプロジェクトが芸術の自律的な形式として浸透していることを確認した。プロジェクトが芸術の形式になった社会環境では、作品制作とイベントを企画することが、活動としてほとんど区別がつかなくなる。制作と労働の区別が薄まりつつある社会において、芸術や哲学はいかにしてみずからのステータスを保てるのか。
今回は、プロジェクトを遂行する上で、自分たちの活動を世の中に伝えるためのプロダクト「フライヤー」と、そこから派生する問題について考えてみよう。
(1)誇張的宣伝の倫理
フライヤーは、英語では「空を飛ぶ人、飛行家」を意味する。少しだけ「フライヤー」の語源を調べてみると、戦時中に広報物を飛行機からばら撒いていたことから、上空からばら撒かれた広告物をフライヤーと呼ぶようになったらしい。現在広報の場面では、ほとんどチラシと同じ物として扱われている。
今の社会では、催しの多くはほとんどそれを主催する団体や、関わっている個人がそれぞれのメディアで宣伝している。上空からチラシを「ばら撒く」と書いたが、現在でもソーシャルメディアで宣伝することを「ばら撒く」と言ったりもする。
しかし、チラシを現実の空間で不特定多数の人に届けようとする、渡そうとすることと、ソーシャルメディアで「ばら撒」こうとすることには、根本的なちがいがある。単純化を承知で言えば、フライヤーは前者の行為においてはひとつの触覚的なプロダクト、後者では情報伝達のための記号的な媒体、という性質が強くなる。
チラシを直接受け取る、あるいは紙媒体がなくとも直接面と向かって話しをすることにはエフェクトが伴う。こういう雰囲気の人たちがやってるんだな、こういうことを考えてるんだな、ということが言語の外情報としても伝達される。こうしたエフェクトがオンラインだと全く無くなるとは言わない。しかし事実として、オンラインで「流れてきた」宣伝と、人に直接語りかけられた宣伝とでは受け取るものが異なる。
そこには、「身体的な限界」の有無が関係している。身体的な限界は、どちらかと言えば渡す側ではなく、受け取る側の視点を想定している。オンラインの拡散には特定の宛先がない。発信者は、自分のアカウントから永続的な入力を繰り返す。「誰かに届けたい」ということではなく、とにかく長い時間多くの人の目に晒されて欲しい、ということが典型的な狙いになる。そこには、特定の「誰か」を想定した制限がない。「こんなに何回も宣伝したら迷惑かな、うっとうしいかな」という個人や顔の見える相手であれば働くはずの配慮が、バーチャル空間における拡散には欠けている。結果として、配慮やケアが欠けた誇張宣伝的な言葉がたゆたうバーチャル空間には、倫理が欠けて行くことになる。このような、身体的なリミットを度外視した、過剰なビジュアルや言葉が溢れているメディア環境のことを考える時に、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの言葉は示唆的である。
「私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。愚劣さはけっして口をつぐもうとしなかったし、目をとじようともしなかったのです。そこで問題になってくるのは、もはや人びとに考えを述べてもらうことではなく、孤独と沈黙の気泡をととのえてやり、そこではじめて言うべきことが見つかるように手助けしてやることなのです。押さえつけようとする力は、人びとが考えを述べることをさまたげるものではなく、逆に考えを述べることを強要する。いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは言うに値する、もともと稀な、あるいは稀になったものが形成されるための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もわかない文なのです。」(1)
これはドゥルーズが1985年にアントワーヌ・デュロールとクレール・パルネとの対話のなかで残した言葉である。この20年以上前の言葉は、現在のメディア環境においてさらにアクチュアルに響く。
現在は何かと対話や発言の平等ということが強調され、あらゆることに対して自分の意見を持たなければならないというプレッシャーが、メタメッセージとして浮かび上がっている。
人とは対話をし、作品を鑑賞したり食事をしたら感想やビジュアルを投稿し、非倫理的な出来事に遭遇したら不満を公に述べる。こうした言語活動が浸透した世界では、イベントの宣伝を担う言葉もこれらの言葉と並列になる環境で紡がれていくことになる。そこでは、実際に体験する前よりも先に、このイベントにはこのような意義がある、この作品が言いたいのはこういうことだ、というラベルをできるだけシンプルに提示することが求められる。まるでビジネスプランのように。そこで、フライヤーはほとんど瞬時的な記号として扱われる。
そうなれば、なんだかよくわからないけど行ってみよう、実際に体験したらわかることがありそう、といった予感に導かれて出かけて行くことは難しくなる。ドゥルーズが言うような、考えを述べることがまるで強要されているかのような力学が働いている場においては、当然オブジェクトや体験に触れる触覚的なエフェクトよりも、言語的かつ視覚的なメッセージの方が前景化することになり、重心の浮いた言葉によってイベントや作品が括られることになる。
テクノロジーが生み出す磁場によって、即時的に発せられた言葉は果たして本当に交っているだろうか。無意識的にであれ、人の目を引くことが念頭に置かれた即時的な言葉遣いと、孤独と沈黙を通過した上で初めて醸成された言葉の肌理は、区別されなければならないだろう。
(2)「開かれること」の複数性──「液状化した開かれ」と「造形化された開かれ」
フライヤーや宣伝行為は、イベントや作品を外に開くためにある。現在のメディア状況ではたった一回の投稿によってそれらを周知させることができる。しかし、当たり前と言えば当たり前だが、投稿することとその中身が実際に人に届いているかどうかは別の問題である。ここまでフラット化したメディア空間では、人と丁寧な議論を重ねるためにはある程度閉じていなければならないという直感は、ひとつの結論としてあり得る。気の許せるコミュニティ、対話的な人間のみに制限されて初めて話せることもあるし、生存戦略としても必要なことだろう。しかしこうした主張は、「閉じてる」「内輪」ということで批判されることもある。また、公共性や開かれていることを掲げる場合に、そこに参加することに制限を設けるのは、理念に反するのではないか。という思考の帰結もある。
しかしわたしは、制限を設けることに対して、閉鎖性と結びつけるのではなく、もう少し肯定的な見方を充ててみたい。言葉やコミュニティが開かれている状態を「液状化した開かれ」と「造形化された開かれ」の分類を設けてみると、もう少し視界が整理されるのではないだろうか。
液状化した開かれとは、一切の制限を設けずあらゆる人間の参加を許容したり、言葉が行き交う空間のことを指す。そこでは排他性が無いと言えば無いが、数の原理や言語的・視覚的情報が優位になる。
造形化された開かれとは、参加に制限を設けたり、特定のテーマについての考えを深めたり、数よりも親密性の生成を重視するなど、特定の目的を想定し丁寧に造形された空間のことを指している。ここでは、直接的に言語的かつ視覚的な情報よりも、そこに付随する触覚性が重視される。
液状的開かれと造形的開かれでは、スケール感や目的が異なる。全てを受け入れるわけではない空間やコミュニティを、すなわち閉鎖的であると批判したり、卑下するのではなく、各々の目的によって使いわけることが重要なのではないだろうか。
液状化した活動環境では、同時多発的に行われる人間の活動や言論がフラットに可視化される。それゆえに、特定のメンバーにおいて共通言語を構築したり、ひとつとトピックについて丁寧に議論したり、グルーヴ感を共有するためには、「開かれ」をソーシャルメディアを初めとするデジタル技術の設計に委ねるのではなく、意図をもって造形化する必要がある。今回の話はおおよそこのようにまとめられる。
次回は、こうした人工的環境の煽り──多忙化、不可避的なマルチタスク、制作と労働の区別の消滅など──を最も直に受けることになる主体として、「作者」について見ていくことにする。(文:長谷川祐輔)
(1)ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、2007年、260-261頁。
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10月28日トークイベント:「実践することの輪郭を確かめる──哲学プラクティスとアートプロジェクト」