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[SS]アジア人外交官の憂鬱

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清朝の終わり、東アジアが近代化を迎えると、私は北京に外交官として赴任した。北京で欧米諸国の中国への植民地化を目の当たりにして、私は日本の国家成立に向けて、明治維新への歩みを見届け…
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私は中国は日本に比べ、近代化に遅れをとるなと思った。日本では改革により新政府が立ち上がり、新しい文明が出来つつある。それに比べて清朝の古い体制が残っている中で、欧米に対抗する力を持てないだろう。日本が国を整備していくと、やがて東アジアの海洋利権を巡って衝突するだろうと踏んでいた。

薩摩と長州が手を組み、薩長連合で討幕を進めた。幕府は討幕の中心である、長州征伐に失敗する。薩長は武力討幕を決意したが、土佐藩は将軍に政権を朝廷に奉還する様に進言、薩長両藩は政局の主導権を握る為、王政復古の大号令を発して、新しい政府を作る。明治政府は強国を作る為に富国強兵を行った。

太平天国は農民のユートピアを建設しようとしました。欧米が持ち込むはずの文化に憧れを抱いたのです。都市の新しいデザインは提案されたのですが、実際にどうやって実現するのか、その行動を説明する事は出来ませんでした。日本では浦賀にペリーが来航して、日本の改革が始まりました。明治維新です。

子供が生まれて中国に戻って外交官として欧米列強の東アジアの植民地化から日中の近代化を朝鮮日報のコラムに投稿した。その間、私も家族と幸せな生活を過ごす事が出来ました。日本では異国船の入港が相次ぎ、外国からの開国を求める声が高まった。中国の農村は疲弊していて、反乱が度々起こりました。

アヘン戦争が起こると、私と妻は日本に帰京しました。父と日本の近代化について問答しながら、頭の中には北京の姿があって、妻と中国について話しました。彼女の仕事、京劇の演出方法や西遊記の孫悟空の姿を一緒に考えたりしました。私は憧れている京劇を女優でもある妻と話せた事に感動していました。

北京の屋台で感じた食文化は中国の歴史そのものでした、妻と私が愛し合う事で、日本と北京を繋いだ、私の外交官としての歩みは、今から綴っていく歴史書のアートを決めるのに十分でした。私と妻の間に子供が生まれるまでの、清とイギリスとの間で結ばれた南京条約までを一区切りにする事に決めました。

北京に来たのも初めて中国を訪れて観た京劇で妻に出逢い、一目惚れして食事に誘い、妻と私を同じ世界に連れて行ってくれた舞台について語り合った事が理由です。2人が感動した唄に愛は世界を繋げてくれるという言葉があります。言葉通りに2人が愛し合う事で、日本と北京を繋げる事が出来たのですね。

食文化は人がその当時好んで食べた物で、牛肉スープも清朝を象徴している。徳川の時代には東京湾の江戸前寿司を皆んなで食べて、新鮮な魚貝類を堪能した。日本人の食文化の一つに鯨がある、その当時は日本の近海でも捕鯨が可能でした。食べ物は他人の生活を想像出来て、私は時代を表現していると思う。

北京も田舎で洗練された都市にはなっておらず、首都で人が密集して、清朝の末期という時代背景もあり、混沌という言葉が正にピッタリとくる姿をしていた。人々が単純に空腹を満たす食べ物に牛肉スープがあって、食事をする時だけは日常の辛さを忘れる事が出来た、そんな食文化に中国のロマンを感じた。

日中の近代を本にする時、妻と初めて北京の屋台で食べた牛肉スープに感動した。北京の食文化に中国のロマンを感じて、妻と私は京劇で演じた世界をお互いが理解する言葉に感情が揺さぶられた。私が観た清朝の終わりは、牛肉スープの味が中国人の歴史を物語っていて、本の印象を決めるのに十分であった。

幕末、各藩は商社の運営を行い莫大な利益を生み、武器を購入して幕府と戦った。亀山社中も薩長同盟の橋渡しや土佐海援隊の結成へと繋がっていく。日本はアジアでも有数の綿花栽培を誇っており、国際的な綿花情勢を掴み、機敏に動いたのが藩立サツマ商社、国内の綿花を通常の五倍の値段で売りさばいた。

明治維新は長州・土佐・薩摩の藩士が中心になって起こした、日本の近代国家への歩みです。世界一強く同じ島国のイギリスの成功を学び、国を立派にした。地方の藩には改革の思想を持つ知識者とそれを実現出来る情熱を持った武士がいた。しかしどの藩も維新を成功させるには財政難を解決する必要がある。

明治維新という大改革は薩摩藩主・島津斉彬の先見性や哲学があって実現されたのではないか。斉彬も英国の強さを分析して、欧米列強の植民地化も予測、明治日本の進路すら予言していた。斉彬の愛弟子が西郷隆盛である、西郷を庭方役に抜擢して集成館の化学工場や造船、反射炉等の建設をスタートさせた。

海舟の持論は攘夷の為の開国、海軍を整備・充実させて日本海軍を創るというものでした。龍馬は自らの進むべき道の具体策を示してくれた海舟と共に歩む事になる。具体的には海舟が徳川家茂に直訴して実現した神戸海軍操練所に隣接した海軍塾である。脱藩郷士・龍馬の次のステップは海軍の創設であった。