清朝の終わり、東アジアが近代化を迎えると、私は北京に外交官として赴任した。北京で欧米諸国の中国への植民地化を目の当たりにして、私は日本の国家成立に向けて、明治維新への歩みを見届け…
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2024年5月の記事一覧
子供が生まれて中国に戻って外交官として欧米列強の東アジアの植民地化から日中の近代化を朝鮮日報のコラムに投稿した。その間、私も家族と幸せな生活を過ごす事が出来ました。日本では異国船の入港が相次ぎ、外国からの開国を求める声が高まった。中国の農村は疲弊していて、反乱が度々起こりました。
北京に来たのも初めて中国を訪れて観た京劇で妻に出逢い、一目惚れして食事に誘い、妻と私を同じ世界に連れて行ってくれた舞台について語り合った事が理由です。2人が感動した唄に愛は世界を繋げてくれるという言葉があります。言葉通りに2人が愛し合う事で、日本と北京を繋げる事が出来たのですね。
北京も田舎で洗練された都市にはなっておらず、首都で人が密集して、清朝の末期という時代背景もあり、混沌という言葉が正にピッタリとくる姿をしていた。人々が単純に空腹を満たす食べ物に牛肉スープがあって、食事をする時だけは日常の辛さを忘れる事が出来た、そんな食文化に中国のロマンを感じた。
日中の近代を本にする時、妻と初めて北京の屋台で食べた牛肉スープに感動した。北京の食文化に中国のロマンを感じて、妻と私は京劇で演じた世界をお互いが理解する言葉に感情が揺さぶられた。私が観た清朝の終わりは、牛肉スープの味が中国人の歴史を物語っていて、本の印象を決めるのに十分であった。
明治維新という大改革は薩摩藩主・島津斉彬の先見性や哲学があって実現されたのではないか。斉彬も英国の強さを分析して、欧米列強の植民地化も予測、明治日本の進路すら予言していた。斉彬の愛弟子が西郷隆盛である、西郷を庭方役に抜擢して集成館の化学工場や造船、反射炉等の建設をスタートさせた。