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note8 : コタキナバル(2011.4.1)

【連載小説 8/100】

単に出た目の数だけ進むだけなら双六ゲームは退屈なはずで、そこに「○○で1回休み」とか「○○でふたつ前進」、さらには「振り出しに戻る」などの指示が待っているからプレーヤーはスリルと共にゲームを楽しむことができる。

「SUGO6」の旅も同様で、出た目の先に与えられるミッションが旅人の行動をおおいに左右することになるから面白い。
※ 「振り出しに戻る」はないと思うが…

最初に「5」の目が出て東京から香港へ、次が「1」の目でマニラへ移動した僕が3度目の「Dice Roll」で出した目は再び「1」。
ただし、進んだ升には「3つ進む」の追加指示が記されていた。

3月25日にアプリ上で受け取ったメッセージは…

>>>>> Dice Roll ③/2011.3.25-20:00<<<<<
Manila → Kota Kinabalu
【コタキナバル Kota Kinabalu】3番目の訪問地はマレーシア・サバ州(ボルネオ島)のコタキナバル。4/19まで滞在し、コタキナバルを基点にサバ州内の観光拠点を巡ってエコツーリズムの未来について考えた後、3都市進んでシンガポールへ向かう。
>>>>>SUGO6 Support Desk<<<<<

旅人が日々向き合うのはリアルな“事実”の連続であり、そこに虚構は存在しない。
にもかかわらず、旅の時間の中にはどこか浮世離れした非現実的なものを感じることがある。

「事実は小説より奇なり」というが、“事実”を“旅”と置き換えてみると面白い。

「旅は小説より奇なり」。

確かにそうだ。
旅行作家が生業の僕は様々な種類の文章を創作しているが、ルポルタージュやエッセイではなく、小説というジャンルが最も旅に近いと思う。

● 壮大な構想力と入念な準備
● 手探りかつ孤独な作業を貫徹する意志
● サポートしてくれるかけがえのない他者の存在。
● 寄り道や進路変更がもたらす不思議な幸福感
● 完成後に味わう達成感と少しの後悔

これらの要素は見事なまでに旅と小説づくりの双方に当てはまる。
そして、作家であると同時に旅人でもある僕がこのふたつを比べると「旅」の方が「小説」創作より「奇なる」営みであるという実感がある。

それはきっと、当事者である自分を包む“背景”の大きさの違いなのだろう。
物語とは結局のところ作者の体験の中からしか生まれないが、旅は常に自らの外にある「世界」と向き合うからだ。
何やら文学論的な話になってしまったが、脱線ついでに僕の“旅術”を紹介しておくと、フィクションとしての物語を創作するノウハウを活用すれば旅は極めて楽しくなる。

「SUGO6」という世界一周の旅を長編小説ととらえた上で、作者の視点に立ってその魅力を“構造的”に考えてみる。
つまり、旅の路上を歩く主人公を、空から客観的な他者の視点で見守る感じだ。

一歩一歩前進する主人公が見ているのは物語の断片としてのコンテンツ。
それに対して全体を俯瞰できる作者が見るのは物語を貫くコンテキスト(文脈)。

このコンテキストがしっかり見えていると人は道に迷うことはない。
旅の文脈とはすなわち背景の「舞台」であり「環境」であり、複雑な物語の生態系のようなものである。
その有機的な関係性を理解してさえいれば深い森に置かれても恐れるものなくサバイバルできる…

などと難解な環境論文のごとき内容を記したのは、20日間を過ごすボルネオ島がジャングルの島だからである。

昨日到着したここコタキナバルは過去にも来たことがあるが、明日から順に巡るエコツーリズムスポットは全て初訪問の地である。
まずは、サバ州第二の都市サンダカンへ飛んでそこから近いセピロックのオランウータン保護施設を訪れることになっている。
現地にはPASSPOT社の「ATJ」スタッフ2名が既に滞在しており合流する予定だから、そちらも楽しみである。

香港とマニラは東洋と西洋の交差点に近世史を観察する旅だったが、ボルネオ島の旅は深い森の奥に文明と自然の交差点を探す旅になりそうだ。

また、その先に次なる訪問地として指示されたシンガポールという超近代国家との関係性も気になる。

「小説より奇なる旅」は舞台を森に移す。
乞うご期待。


>> to be continued

※この作品はネット小説として2011年4月1日にアップされたものです。

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