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note10 : キナバタンガン川(2011.4.10)

【連載小説 10/100】

変化と安定。
開発と保存。
破壊と創造。

世界は常に相反するパワーの駆け引きとバランスによって成り立っている。

旅についても同じ。
航空技術の進化は僕たちに世界中を旅するチャンスを与えてくれたが、短縮された時間の分、目的地に至るプロセスの旅情は相対的に少なくなった。

英語とドルさえあれば、たいていの国で何とか過ごせる利便性は整ったが、グローバルスタンダードはそれぞれの国家が積み重ねてきた歴史や文化の独自性を見えにくいものとしてしまう。

どちらがよくて、どちらが悪いという単純な問題ではない。
相容れない主張や立場の微妙な駆け引きによって、少しずつ変化するのが社会であり世界なのだ。

そして、僕たちの思考や発想にも同様の関係が存在する。

内向と外向。
保守と革新。
悲観と楽観。

ヒトは皆、その心と頭脳の中に相反する価値観を闘わせながら生きている。


昨日、セピロックで出会ったRM君とSK君と共にマレーシアで2番目に長いキナバタンガン川下流域のスカウへやってきた。

彼らとは毎日のようにエコツーリズムについて語り合っているが、このふたりのポジションが対照的で面白い。

例えば、東南アジア各地で絶えない熱帯雨林の不法伐採や動植物の密猟に関して

「ルールを守らない伐採者や密猟者は、国際的な組織と監視体制をつくって厳しく取り締まるべきだよ。日本もODAの予算をそういったソフト面に多くまわして環境問題の解決分野で世界のリーダーシップをとるべきなんだ」

とRM君が持論を展開するとSK君がこう返す。

「無理無理。熱帯雨林は広すぎて完璧な取り締まりなんてできっこないよ。日本の途上国支援だって道路や橋をつくってこそ日本企業が儲かる仕組みになってるらしいから、欧米に比べて環境意識の低い日本にリーダーシップなんて期待できないよ。それより、こんな素晴らしい施設のことを僕らがもっとみんなに知らせるアクションが必要だ」

では、どうやってボルネオのエコツーリズムを日本の人々に伝えるべきか?と僕が問いかけると

「観光局や旅行業界団体が“ボルネオへ旅して、森を守る活動に参加しよう”みたいな啓蒙キャンペーンをマスコミと連携して展開したらいいと思う。旅を通じて自然界の実情を知る機会を提供することが先決だ」

とRM君。
これに対してSK君は

「そんなトップダウン方式はダメダメ。薄利多売の旅行業界では市場規模の小さい分野の旅行商品は表に出てこないんだ。僕らがSNSで紹介してクチコミでツーリストを増やす方が効果的さ。本当に価値のわかる人のネットワークはボトムアップ方式でつくるべきだよ」

対照的なキャラクターのふたりの会話は、決して相手の主張を非難する論争にはならないのだが、常に「理想と現実」を巡る対立軸で進むところが興味深い。

いつも最後は僕がふたりの主張のいい部分を整理して終わる流れになるのだが、結論めいたものが出るわけではなく「足して2で割っても割り切れないのがエコツーリズム」というのが正直なところだ


さて、僕たちが滞在するスカウのリゾートロッジは、キナバタンガン川流域がサンクチュアリに指定されたことで熱帯雨林の伐採や開発が禁止となり、エコツーリズムの地として注目を集めるようになった場所だが、かつてはプランテーション開発により環境破壊を受けた時期があったらしい。

川岸にやってくる野生動物達を見るチャンスが多いリバークルーズがエコツーリズムメニューとして人気なのだが、実はその背景には川からは見えない森の奥地が伐採され、住む場所のせまくなった動物達が川の側に追われてきたという皮肉な事情もあるという。

そもそもエコツアーという観光行動はその中に構造矛盾を内包している。
希少動物に会えるか否かが参加者の満足に直結するが、その目的を達成できないことも含めて自然が守られていくことが本来の目指すところなのだ。

「人為が加わっていないもの」という定義から見れば、ヒトがその足を一歩踏み入れた段階で自然は本来の“自然”ではなくなるという考え方がある。

一方で「ヒトという“種”も他の生命種と並んで自然界の構成要素である」との立場から言えば、森を荒らした人類がその回復を願うというエコツーリズムは「自ら然るべき姿」という“自然”の語源に通じるような気もする。

「エコツーリズムの未来を考える」というミッションが、僕の中で「自然とは何か」という根源的な命題へと変わってきた。

きっと、熱帯雨林に抱かれる日々を重ねているからだ。

>> to be continued

※この作品はネット小説として2011年4月10日にアップされたものです。


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