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力と交換様式

『力と交換様式』  柄谷行人 2022年

タイトルの図、SINIC理論は、オムロン創始者・立石一真が1970年国際未来学会で発表した未来予測理論です。2025年には自律社会となり、その後自然社会となると表しています。
今回読んだ『力と交換様式』に書かれていた人と自然との関係性は、私がずっと以前から抱いていた人と自然との関係性への疑問のひとつの答えとなるように思いました。自然を支配するのではなく自分と同じように尊重できる生き方。
自律社会、自然社会への続く時には、人が自由の価値を捉えて「自由の相互承認」、「自律」、「助け合い」、「共存」の生き方へ変わっていきます。この先が楽しみです。
以下、本文からの引用を載せます。

>私は、社会構成体の歴史が経済的ベースによって決定されているということに反対ではないが、ただ、そのベースは生産様式だけではなく、むしろ交換様式にあると考えたのである。交換様式には次の四つがある。
A 互酬(贈与と返礼)
B 服従と保護(略取と再分配)
C 商品交換(貨幣と商品)
D Aの高次元での回復

>アウグスティヌスの考えでは、「地の国」と「神の国」が異なるのは、この世かあの世かということではない。前者が自己愛に立脚する社会であるのに対して、「神の国」は神への愛と隣人愛によって成立する社会だ、ということである。そして、この二つの「国」は重なり混じりあいながら、存在する。神の国は地の国に隷属することもなければ、依存することもない。現実に諸国家(地の国)が存在するのだが、神の国は、それらと重なりあいながら存在し、それに徐々に浸透していくのだ。

>あらためていうと、狩猟社会や氏族社会では、人間と自然の関係は、人間と人間の関係から特に区別されなかった。明瞭な区別が生じたのは、国家による大規模な灌漑・開発がなされるようになって以後である。それによって、自然に対する人間の態度が根本的に変わった。が、そこにはまだ、人間と自然の関係を「交換」として見るアニミズムの観念が濃厚に残った。それは、人間の社会そのものに交換様式Aが濃厚に残っていたからである。
したがって、アニミズムが急激に消滅していったのは、産業資本の下で産業革命が始まった 時期以後、つまり、石炭や石油のような化石燃料を使うようになって以来である。いいかえれば、人間と自然の間に「交通」を見る視点が消滅したのは、交換様式Cが支配的になったときだといってよい。それとともに、アニミズムも消えた。以来、自然は人間にとって、たんに操作される、または操作されるべき物となった。こうして、人間と自然の「交通」が無視されるようになったのである。このとき物神崇拝がアニミズムにとってかわったといってもよい。
たとえば、われわれが今日見出す環境危機は、気候変動のような問題に還元されるべきではない。環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る。それによって、それまで“他者”として見られていた自然が、単なる物的対象と化した。こうして、交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず、人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである。さらにそれが、人間と人間の関係を歪めるものとなる。すなわち、それはネーション=国家の間の対立を各地にもたらす。つまり、戦争の危機をもたらすのである。

>マルクス以前にも、それを考えた者がいた。カントである。彼は社会の歴史を、自然の「隠微な計画」として見た。つまりそこに、人間でも神でもない何かの働きを見出したのである。そして、彼はそれを自然と呼んだ。だが、そこに謎が残ったままであった。
私の考えでは自然の「隠微な計画」とは交換様式Dの働きをする。たとえば、カントが『永遠平和のために』で提起した「世界共和国」の構想は、人間が考案したものにすぎないように見える。その意味で、交換様式Aと類似する。したがって、無力である。ゆえに彼の提案した国際連合は、以来二世紀にわたって、常に軽視されてきた。しかしそれは、消えることなく回帰してきた。今後にもあらためて回帰するだろう。そして、そのときそれは、Aと言うよりもDとして現れる、といってよい。
 そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、“Aの高次元での回復”としてのDが必ず到来する、と。

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