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短編集『月明かりと常夜灯』

《本作を読む前に》



歯を磨きましたか?
目覚まし時計はセットしましたか?

深呼吸をして下さい。
なるべく深くゆっくりと。

次におぼろげな光を探しましょう。
本作を読むにあたり眩い光はそぐわないかも。





準備は整いましたか?



多少の長短はありますが1エピソードは【3分/1400文字】を基本としています。それくらいなら読めると思いませんか?

しかし全て読み切ると3万文字になるので活字が苦手だと思い込んでいたあなたも読了をもって立派な読書愛好家です。





準備は整いましたか?


さぁ小さな旅の始まりです。











01『マニラのモデル』



2009年11月 フィリピン・マニラ

『勝っても負けてもがっかりした表情で帰りなよ。』タクシーでマニラのカジノに乗りつけた瞬間、銃を持った警備員の男性にこう忠告された。

治安の悪いマニラの中でもカジノは外国人観光客がよく狙われる場所で大金を手にし浮かれた連中は飲みに行く道中で襲われるらしい。

以前遊びに行ったフィリピンのセブ島も所々危険を感じたものだがマニラのそれとは比べ物にならない。

川沿いの遊歩道を歩いていると前にいた歩行者が皆きびすを返した。何かと思えば銃を手にした薬物中毒者があれこれ叫びながらこっちへやってくる!

海外では絶対に物理的距離を詰めてはいけない人間というのがいてまさにその人物と対峙しそうになった。

今までも治安の悪い都市を訪れる機会はあったがマニラという都市は他に比べて加害者、被害者、両方の命が安いように感じられる。スラムも多いしそこに属せない人達はホームレスとして散り散りに路上生活を送っておりその中には子連れも多い印象だ。

私が通り掛ると手で食べ物を口に運ぶジェスチャーをして物乞いをするがそのそぞろ目の先に希望は感じられない。まるで生まれ変わるまでの時間潰しでもしているかの様だ。

いつでもタクシーで帰れるようにホテルの住所が書かれたカードを手に当てもなく歩くのが好きだがマニラでそれをしていると不安が付き纏う。

「既に陽も落ちているしこの治安だ。いつもの様な行いは命取りになるかもな...」そう感じた私はホテルに帰る事にしたがいつまで経ってもタクシーが見付からないので来た道を引き返すがうろ覚えで自信は持てない。

その時、先程物乞いをしてきた母子と再び目が合った。また機械的に手で食べ物を口に運ぶジェスチャーを向けてきたので私は自分のホテルがある地域の方角を母親に尋ねた。

彼女は親切に教えてくれ...  何も要求しなかった。

私は不思議に思った。先程まで頻繁に物乞いをしていた母親は道に迷っている旅行者を助けた訳でここぞとばかりに金銭を要求しても良さそうなものだ。しかし彼女はその後も私と他愛もない話を続けている。もしかすると彼女は自分が存在している事を誰かに認めてほしかったのか...

私は彼女に仕事の提案をしてみる。

『私はプロのカメラマンでも何でもないがみんなが撮るだろうマニラの歴史ある建物の写真なんかよりあなたを撮りたいんだ。撮影のモデルになってくれませんか?』

最初こそ戸惑っている様子を見せたが彼女は喜んで引き受けてくれ身だしなみを整え始めた。私はそのままを撮りたい気持ちもあったが女性だし一番綺麗な状態で写りたいと思うのは自然の事だろうからただ静かに彼女の準備が整うのを待った。

私がカメラを向けると本来明らかに容姿端麗なその女性は恥ずかしそうに微笑んでくれた。それを見た瞬間、彼女の艶やかな瞳に吸い込まれそうになり、自分とこの人がそれぞれの人生に願う事に大した差異はないと確信する。

たまたま運が良かった、悪かった、それだけの事。私は彼女とその子供のモデル料を払いその場を離れた。

旅の記録を残す人もいるが私は忘れそうな事は忘れればいいと考えている。1000年前の荘厳な遺跡を修復するのもいいが朽ち果て苔むしジャングルに埋もれた残骸を見るのも悪くない。それが1000年前の建造物の正しい姿だから。

そんなのを見ていると私は忘れる事に抗わなくてもいいと思ってしまう。それでも心に残っている事だけに留めないと仕舞い込む場所ももうないから。

マニラの想い出はあの母子との撮影会だけで十分だ。










02『躾(しつけ)』



2017年12月 カンボジア・コンポントム州

この国を自転車で旅していると声が枯れる。その乾燥した大地と砂塵も喉には良くないが一番の原因は挨拶疲れだ。

道行く子供達は自転車で旅をする東洋人が珍しいのもあってか漏れなく全員挨拶をしてくれるのでその全てに挨拶を返していると自然と喉が潰れていく。

子供達の通学時に走っていると大変な事になるので敢えてその時間帯を外したりもしてみたが、学校に行かず自宅の農作業を手伝っている子供達も少なからずいるのでやはり声は枯れる。

あまりに暑過ぎて辛い旅ではあったが子供達の澄んだ瞳に随分癒されたものだ。純一無雑を絵に描いた様な子供達が沢山いてカンボジアという国の未来は明るい様に思われるが一つだけ旅中気になった事がある。

彼らはゴミのポイ捨てを厭わない。

道端はゴミだらけで牧歌的風景に潜むそれらによって情緒は損なわれている。何度か『ゴミを捨てずに持って帰った方がいいよ。』と声を掛けてみたが、言語的に私の言っている事が分からない、もしくは何故ゴミをその辺りに捨ててはいけないのかが分かっていない、そんな様子だった。

仕方がない。恐らくそういった教育を受けていないのだから。そこに罪悪感があって初めて人間は葛藤するのだろうが、彼らは自分達の行いに何一つ悪を感じていないのだ。

これだけ純真な子供達を育んだ国なのだから教育面が充実すればより未来は明るい様に思われるがそこまで教育が行き届かない現状こそ目下の課題かも知れない。

日本の釣り場に行くと老齢の男性や自然に生かされているはずの漁師が海にタバコを投げ捨てる光景をよく見掛ける。我々も見掛ければ注意するしインターネット等を通じて美化意識向上を訴えている人は多い。

ただそんな忠告など意に介する様子もなく彼らは今日も海にタバコを投げ捨てる。長年そうしてきたしそれが悪であるという教育を受けた事がない、もしくは躾けられた事がないのだから話は難しい。

カンボジアの子供達も常識のアップグレードがなされないまま育っていけば彼らと同じ人間になっていくのだろうしその人達が子を持ったとしてもやはり正しい教育を施す事はできない。

残念な親に生まれた子が残念とは限らないが、街や海の美化を考える際、人の心を美しく保とうと心掛けるのが一番で教育の重要性を感じる。

そんな風に思いながら「躾(しつけ)」という字を改めて見てみると面白い。










03『キャンディの老婆』



2019年1月 スリランカ・キャンディ

スリランカ仏教の聖地・キャンディの中でも仏歯寺には国中から敬虔な仏教徒が集まる。しかし同時に観光地としても有名でダンブッラやシギリヤと並んでこの国の外貨獲得拠点となっている様子だ。

私は2019年のスリランカ自転車旅の最中にキャンディに立ち寄ったので仏歯寺観光をしてみる事にしたが、ここでの経験が転機となりその後宗教施設に身を置く事はなくなった。

寺中に白装束の信者がいて黄金色のトンネルを潜り抜けるとそこは大渋滞していた。まるで縁日や花火大会の様で他人の腕の汗が付着して気持ち悪い。

その滞留の中しばらく何をする事もできず前方を眺めていたが、次第に流れ始めついに本堂の様なところに辿り着く。

スリランカ人信者はその場に座り込み懸命に何かを祈って唇を動かしており、中には五体投地で体の前面を全て床に密着させている人もいる。

信仰心が薄い人が多い日本という国に育った私からするとどうしても“異様”に感じてしまうのだが、世界を旅すれば“信仰”は当たり前であって何かを信じていない人など信じられないというのが一般的な考えだ。

私は場違いなところに来てしまったと後悔したが時既に遅し。また流れに乗って退室しようにもその先が渋滞していて本堂から身動きが取れない。

困ってしまった私はその場に立ち尽くし何気なく辺りを見渡した。すると数メートル先で五体投地している一人の老婆と目が合ってしまい蛇に睨まれた蛙の様に全身が固まるのを感じた。

老婆の目は敵意に満ちており明らかな異教徒がもの珍しさだけを追ってスリランカ人の聖地に足を踏み入れている事がどうにも許せない、そんな感じだ。

私は渋滞を掻き分け出口に向かい慌てて靴を履いて境内の外まで逃げた。老婆の巨眼の奥に鬱積し続ける不満は我々異教徒観光客が創り上げるもので「一刻も早くこの場から立ち去れ!」と言われているように感じた。そして私も自分がこの様な場所に来た事を後悔していたので自然と身体が動き出していた。

仏歯寺は観光客に開放されておりスリランカ政府も訪れるべき観光地として世界に発信している。ただそこは宗教施設であって信者への配慮のため服装や行いには細心の注意を払わないといけない。

さすがにそのくらいの事は弁えているが、この仏歯寺で、信者の中には異教徒が立ち入る事を容認していない人もいるという事実を体感し、今まで訪れた世界中の宗教施設でも敬虔な信者を傷付けてきたのではないかとの疑念が湧き、私個人は今後その様な施設には一切立ち入らない事を決めた。

以前当たり前の様にチベットの鳥葬を見に行く日本人バックパッカーを痛烈に批判する人と出会った事がある。

日本人の感覚と同じかは分からないが自分の身内が亡くなって葬式をしている最中に外国人が、半袖、短パン、サンダル姿でコーヒー片手に見物に来たら気が狂うほどに怒り一刻も早く排除しようとするだろう。

同じ感覚ではないにしても“葬儀を見物しに行く”という発想に一ミリの疑問も抱かない人は人の気持ちを慮る発想より好奇心が勝ってしまっている。

私もきっと沢山の人を傷付けつつ旅をしてきたのだろうがもうそこまでして世界を知りたいとは思わない。

世界には見に行かない方がいい場所、そっとしておいてほしい人がいるという事を知った。










04『スラム街のアーユルベーダ』



2008年7月 インド・ニューデリー

世界には色々な価値観や常識があってそれを知る事も旅の楽しみの一つかも知れないが、自分のそれとあまりに乖離がある人達が暮らす国へ行くと、旅をしている充実感と共に極度の疲労を感じる。

友人と到着したばかりのニューデリーを歩いているとみんな気さくに話し掛けてくれるが隙あらば友人の帽子やカメラを盗ろうとしている事に驚いた。

インドは色々あるとは聞いていたがいきなり滅茶苦茶じゃないか。

リクシャーに『〇〇デパートまで行って下さい。』と頼んだが明らかに違う場所に連れて来たので『ここはどこだ?!』と問い質すと真顔で『買い物がしたいんだろ?この店の方が安くて色々揃っているぞ。』と答える。きっと外国人観光客を連れて行けば紹介料がもらえるのだろう。

『お前は頼んでもない場所に連れて来たから金は払わない!』と怒りを露にすると「人の親切を無にするなんて信じられない...!」といった悲しそうな瞳でこちらを見詰め、去り行く我々を軽蔑の眼差しで見送った。

アーユルベーダ体験を薦められたので『ラグジュアリーかつ清潔な空間で楽しめるのであれば...』と注文を付けたが、スラム街の廃墟でネパール人が経営する店に連れて行かれたのも衝撃だった。

友人と二人で案内されたシャワールームに行ってみると映画『Saw』の監禁部屋を思わせる不気味な雰囲気で、低い位置からシンプルな蛇口が突き出ており桶が一つ置かれていた。

「これのどこがラグジュアリーなんだ!」と思いつつ水を出したがいつまで経っても冷水しか出てこない。

その後、それぞれの施術室に向かうとマッサージ師が一人座っており聞いてもいないのに『自分はゲイだ。』と伝えてきた。その上で『全て脱ぎなさーい!』と指示するので仕方なく言われた通り服を脱いでいると頬杖をついてその様子を凝視している。

マッサージ師は際どいところを攻めてくるので緊張感が物凄い上、友人がいる隣の部屋からは『だからそこは触るなって言ってるだろ!!』という日本語の怒声が漏れ聞こえる...

友人と二人、何か大切なものを失ったような気分でホテルに帰ってきたが我々をその店に斡旋した男が引き続き客引きをしていたので文句を言おうと近付くと『どうだった?リラックスできただろう?また明日も行ってみるか?』なんて笑顔で話すのでそれ以上何も言えなくなってしまった。

全てがあまりに違うインド。それに惚れ込んでか長期に亘ってインドを周遊したりしばらく住んでしまう人も沢山いる様だが私はまだ修行が足りないらしい。結局あれから13年以上経つがインドにもう一度行こうと思った事は一度もなく再訪は実現していない。

ではもう一生行かないのか?実はそうは考えていなくて私はまたインドという国を訪れると確信している。何故なら自分の価値観や常識もどんどん変化しているからだ。

世の中には沢山の価値観や常識があってその全てを受け入れる事はできないが、手に取るところまでは沢山経験した方がいい。

インド旅のエピソードは強烈過ぎて決して忘れる事ができないのだが、もしかするとこれを“トラウマ”と言うのかも知れない。










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