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「車でお遍路」第76番札所 金倉寺(智証大師生誕の地、「おかるていさん」に見守られ)

こんにちは、旅いこかです。

四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、76番目のお寺は、

鶏足山けいそくざん 宝憧院ほうどういん 金倉寺こんぞうじ


75番札所の善通寺から約4.5㎞、車で約10分の場所、

第72番札所曼荼羅寺からはじまった大師ゆかりの善通寺市内の札所は、弘法大師の生誕の地善通寺からほど近い第76番札所金倉寺で最後。

その金倉寺は、弘法大師の甥の智証大師ちしょうだいし(円珍)が生まれた地

そして、その智証大師が唐から帰国して先祖の菩提のために御本尊を彫り伽藍を建立したという天台宗の札所(四国霊場で天台宗の札所は、順打ちで第43番札所明石寺に次ぐ2札所目)。因みに、智証大師は貞観10年(868年)より延暦寺5代座主を24年間務めている。

金倉寺は、四国霊場では珍しく、天台宗寺門派そして唯一智証大師を主役とした札所なのです

お遍路では「大師」といえば「弘法大師」を思いますが、金倉寺だけは「智証大師」となります(大師はそもそも18名いらっしゃいますからね)。

では、智証大師が主役の札所「金倉寺」へ参りましょう。

入山大師像(智証大師尊像)
石柱門の左手には「智証大師御誕生之所」 右手には手水舎 鳥居の奥は訶梨帝堂

ご詠歌

まことにも 神仏僧を ひらくれば 真言加持の ふしぎなりけり


お参りする前に知っておいた方が良い知識

歴史

  • 宝亀5年(774年)、円珍(のちの智証大師)の祖父である和気道善わけどうぜんが一堂を建立「自在王堂」と名付け、等身大の如意輪観音像を彫り安置して開基

  • 弘仁5年(814年)円珍(のちの智証大師)は、この地である讃岐国金倉郷佐伯一門として生誕、15歳で比叡山に登り籠山行に入る

  • 承和12年(845年)円珍(のちの智証大師)は、役行者えんのぎょうじゃの後を慕い大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼、修行道の発展に寄与し翌年延暦寺の学頭となる

  • 仁寿元年(851年)、寺号を「道善寺」に改名

  • 仁寿3年(853年)円珍(のちの智証大師)は、唐の天台山国清寺(中国浙江省にある天台宗の中心的寺院、日本の天台宗の開祖最澄が学んだお寺)に滞在して求法に専念

  • 斉衡2年(855年)円珍(のちの智証大師)は、長安(西安)の青龍寺しょうりゅうじを訪れ真言密教を伝授

  • 天安2年(858年)、帰国の途に着いた円珍(のちの智証大師)は、唐の青龍寺しょうりゅうじ模した伽藍造営御本尊薬師如来を彫った

  • 延長5年(927年)円珍は、醍醐天皇より「智証大師」諡号しごうを賜る

  • 延長6年(928年)醍醐天皇の勅命により、寺号を讃岐国金倉郷かなくらごうの金倉を採り「道善寺」から金倉寺こんぞうじ改称

  • その後、広大な境内と132坊を持ち隆盛を極める

  • 南北朝時代や戦国時代には、幾多の兵火により多くの伽藍は焼失したが、唯一智証大師が両親に贈った自画像御本尊免れた

  • 慶長11年(1606年)高松藩主松平頼重公の帰依により再興

  • 慶安4年(1651年)、智証大師御影堂ほかを再建して現在に至る


大師について

大師号は、朝廷から勅賜の形で贈られる尊称、諡号しごう
貞観8年(866年)に日本天台宗の開祖である最澄が伝教大師として賜って以来、明治時代まで18人の大師(18大師)が存在、そのうち5人は讃岐国出身

【讃岐国出身の大師】
・弘法大師(空海)・・・真言宗の開祖
智証大師(円珍)・・・天台宗寺門派の開祖、弘法大師の甥
・道興大師(実慧)・・・弘法大師の高弟、同じ佐伯氏出身
・法光大師(真雅)・・・弘法大師の高弟
・理源大師(聖宝)・・・真言修験道中興の祖

中でも、理源大師を除く4大師は善通寺市の出身。
特に弘法大師と智証大師は、18大師のうち6大師と呼ばれる高僧の2大師。


智証大師の伝説について

智証大師3歳の頃、弘法大師が一目見て「智慧童子」というほど聡明だったという。

5歳の頃、目の前に訶梨帝母かりていも鬼子母神きしもじん)が日本で初めて現れ、「貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りします」と智証大師の守護を誓ってくださったことで、安心して修行を重ね仏法の発展に精進できたという。

訶梨帝母かりていもとは、
500人の子を持つ母であったが、自身の子に栄養を与えるために他人の子供を食べていたことから、多くの人間から恐れられていた。

それを見かねた釈迦は、彼女の最愛の末子を隠したところ、訶梨帝母は半狂乱になって世界中を7日間探し回ったが見つからず、最後には釈迦に救いを求めた。

そのとき釈迦は、訶梨帝母に対して
「貴方は多くの子を持ちながら一人の子を失っただけで嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみがわかるだろうか」と問い、「人々をおびやかすことをやめなさい」と言った。

訶梨帝母は承諾して三宝に帰依すると子供が戻り、
釈迦からは「五戒を守り、施食によって飢えを満たすことなど」
を教わり、仏法の守護神、そして子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護ともされる。

Wikipediaより

因みに、訶梨帝母かりていもは、地元では「おかるてんさん」の愛称で親しまれている。


寺号について

  • 山号について
    ・・・釈迦十大弟子の1人である迦葉尊者かしょうそんじゃが入定した山の名「鶏足山」が由来

  • 院号について

  • 寺号について
    ・・・智証大師の故郷である讃岐国金倉郷の金倉をとり、従来の「道善寺」から「金倉寺」に改称


ご利益

  • 御本尊の薬師如来
    ・・・
    大医王仏だいいおうぶつ医王如来いおうにょらいとも呼ばれ、十二誓願じゅうにせいがん現世利益げんせいりえきの仏さま(病気平癒、他)

  • 訶梨帝堂かりていどう
    ・・・子授け、安産にご利益


御本尊・ご真言

御本尊:薬師如来
ご真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか


見どころ

  • 本堂
    ・・・御本尊に薬師如来(毎年正月三が日御開帳)を祀る

  • 祖師堂(大師堂)
    ・・・もとは金堂(本堂) 中央に智証大師、向かって右側に伝教大師、左側に天台大師、右奥に弘法大師、左奥に神変菩薩役行者えんのぎょうじゃ)を祀る
    四国霊場の中で唯一、中央に弘法大師以外の大師を祀り五祖師を安置

  • 訶梨帝堂かりていどう
    ・・・子供と安産の守り神である訶梨帝母かりていも鬼子母神きしもじん)を祀る。
    この地は、「日本最初訶梨帝母出現之地」とされる。

  • 乃木将軍妻返しの松と遺品展示室
    ・・・昭和天皇の教育係も任された軍人乃木希典のぎまれすけは、明治31年(1898年)から3年間金倉寺に滞在。その時の伝説や遺品を展示している。

  • 入山大師像(智証大師尊像)

  • 巡礼七福神
    ・・・第71番札所弥谷寺から第77番札所道隆寺まで一日でお参りすると四国八十八ヶ所をお参りしたのと同じだけの功徳があるという。
    金倉寺では「弁財天」と「金箔大黒天」(?)

本堂 屋根が伸びやかで美しい佇まいの本堂前には金箔大黒天
可愛らしい「ぽっちゃり地蔵(?)」

写真


次は、第77番札所道隆寺どうりゅうじへ参ります。

2022年8月3日投稿
2022年10月11日改訂

合掌

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