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読んだものがあなたをつくる

文章がまるで書けなくなったことが、わたしには何度かある。
最初のそれは、高校のときだった。

本と文章とわたし

子どものころから本が好きだったわたしにとって、文字は仲のよい友だちのようなもので、映像メディアが今ほど身近でなかった時代に、本は手頃な遊び道具だった。
その結果、見よう見まねで文字を連ねて文章らしきものを書いてみたり、紙を束ねて本をつくってみたり、家にある本で本屋さんごっこをするのはごく自然な成り行きだった。

勉強しなくても、なにかの感想を書くことはできるから、学校の作文の時間には、ピアノを買ってもらったことや、動物園に行ったことなどを気楽に書いた。日本の学校で要求されるのはたいてい情緒的な感想文だから、こんな風に感じた、思ったというような、あまり根拠がないものでも、文章が破綻していなければ、それなりに評価される。のちに外国で英語を学ぶようになって、文を書く上での論理構成を鍛えられることになるのだけれど。
実際、国語の教師は作文をほめてくれたし、書いたものが新聞に載ったり、市がまとめている文集の候補になったりもした。

ところが、高校生になったときに、それまでのようには文章が書けなくなった。ひとつには、国語の授業にも論説文が出てくるようになり、自分の意見をもち、その根拠を具体的に述べるスタイルが必要になったからだ。
本で読んだり、ひとに聞いたりしたことは、もちろんわたしにだってあった。けれど、それはオリジナルな意見ではなかった。

でも本当の理由は、ことばに復讐されたのだとわたしは思っている。ほめてもらえる作文がどんなものか、なんとなくわかってしまったわたしは、書くものが、だんだんその道筋からはずれられなくなってしまったのだ。本当に、自分が感じたり、思ったりしていることを置き去りにして。

ことばは、復讐する

心にもないお世辞を言うひとは、他人にほめられても信じることはできないだろう。心にもない追従かもしれない、と思うからだ。
偽りの愛のことばを口にする人も、きっと同じ目に遭う。ささやかれたことばが、相手の本心ではないかもしれない、という疑念から自由になることができないのだ。
なにしろ、現に自分がしているのだから、ほかの人がそうでない保証なんてどこにもない。

誰だって、ほめことばはうれしい。けれど、「ほめられたくて」することは、自然に生まれた感情に基づいたものとは違う。

似たような経験は、Twitter や Facebook でもないだろうか。それを目的にはしていなくても、友だちに「いいね」してもらえるような、好意的にシェアしたりリツイートしてもらえるような記事を書いたり、話題にしたりすることのほうを選ぶ誘惑から、わたしたちは完全に自由だろうか?

明確に意識したわけではなかったけれど、評価が高いのは、おとなが好む「子どもらしさ」を演じた作文だと知ってしまったわたしは、その安直な成功の方程式にはまりこんでしまった。けれど、ひとはいつも子どもでいられるわけではない。たぶんその限界が高校のときに来たのだと思う。

そしてわたしは、「本当に」自分が感じたこと、考えたことがわからなくなっていた。好まれるとか、評価されるとかを離れて、自分の気持を正直に綴ることがうまくできなくなっていた。
もし「本当の気持ち」を書いたら。期待外れだと失望させたり、評価が下がるのではないかという不安にとりつかれるようになった。それだけ自信がなかったのだと思う。

本がわたしを救ってくれた

15歳から読書日記を書き始めたのは、たぶん「自分のことば」を取り戻さなければ、という切実な思いからだろう。誰かに言われたのでも、誰かの文章に影響されたのでもないし、今に至るまで誰にも見せたことがないから、それは完全に自分だけの備忘録だ。

いつ、どんな本を読んだか。どんなことが書いてあって、何を感じたか。それだけを延々とノートに書いた。
わたしは日記はつけない。ただ、年間百冊前後を読むから、読書日記は数日ごとの気まぐれな日記を兼ねたようなところがあり、読んだことを受け止めた、そのときのわたしの心持ちも好き勝手に書いてある。

大学に入って家族と離れて住むようになってからは、自分の時間を自由に使えるようになったから、本の感想は、時には何ページにもわたって書いてある。心に響いたことばや、記憶にとどめておきたい一節を、写経のようにひたすら書き写している日もある。
よくこんなに集中力があったものだと、あとで読んで感心することもあれば、ひとりで家にこもって文章を書く、陽気に人交わりできない孤独な後ろ姿が見えることもある。どちらも、まちがいなくわたし自身だ。

読書日記は、今でも細々と続けている。書きつける対象は、大学ノートからパソコンになったし、忙しくて書名だけ書き残している時期もあるけれど、三十年以上にわたって読んだ三千冊超の本の記憶の備忘録だ。そしてそれは、そのときにその本を手にとった、わたし自身の内面の記録でもある。学校や職場の所属を書いた履歴書では、ひとの内面はわからない。

You are what you eat (食べたものがあなたをつくる)ということわざにならっていうなら、「読んだものがあなたをつくる」だ。
今もわたしが文章にかかわる仕事をしているのは、この読書日記を始めたときに願った、「自分のことば」を取り戻したい思いに支えられているような気がする。


*写真 ベトナムのとあるインターナショナルスクールの図書室

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