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記憶のなかの、ふるさとの風景

吸い込まれるような広い空。季節ごとに違う表情を見せる一面の田んぼ。
「ふるさとの風景」という題を見て思い浮かべたのは、そういう、なつかしく、慕わしいふるさとの面影だ。

でも、わたしがこれから書こうとしているのは、ある日消えてしまった町のことだ。そういう「ふるさと」があることも書いておきたい。

わたしは、東北の地方都市で育った。生まれたのは両親の出身地の三陸海岸で、親の転勤でその都市へ移り住んだ。引っ越したのがまだ小さかったから、海沿いに住んでいたころの記憶はほとんどない。

ただ、記憶は再構成される部分もあって、小さい頃の写真や、どんなにむずがるときでも海を見せられば泣き止んだとか、繰り返される、周りの思い出話もわたしと「ふるさと」をつなぐ記憶になっている。

子どものころには、夏休みに一家で三陸に出かけるのがならわしだった。遠浅で波の穏やかな海岸で、いとこたちと遊び、夜はふとんを並べて眠った。いっとき大家族のように、にぎやかに過ごすのは愉快だった。


あの日、2011年3月11日、その穏やかな海が牙をむき、大津波が三陸海岸沿いの町を襲った。わたし自身は東京にいて、大きな揺れに遭っただけだった。3日後にようやく両親と連絡がとれて無事を確認したが、何度かけても三陸の親戚に電話がつながらない。不安は、時間が経つにつれて、不吉な予感に変わっていった。

海辺からはかなり離れていたはずなのに、おじとおばの家は、川を上ってきてあふれた津波に流された。ふたりのいとこのうち、ひとりは幼児を連れて山を駆け上がって難を逃れたが、おじ・おばと、高齢のふたりの避難を助けていた、もうひとりのいとこの行方がわからなくなっていた。

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家の残骸は、何キロも離れたところで見つかった。最初におじが、次におばが亡くなっているのが見つかったが、もうひとりのいとこの行方は、なかなか見つからず、震災からひと月以上経ってから、亡骸が発見された。

わたしはインターネットのあちこちの掲示板に探し人の書き込みをしていたので、心配してくれていた友人に、電話でその報告をしようと思った。
「いとこが、……やっと見つかったの」「そう、よかったわね!」
「……ちがうの。それが、もう……生きてはいなかったの……」と言いながら、わたしは嗚咽をこらえることができなかった。

どうして友人の勘違いを責められよう。戦時でもないのに、こんなに通信の発達した時代に1か月も連絡が取れないこと自体、無事ではなかったことを意味するなんて、被災地の外では考えもしないだろう。
帰らない人を待ち続けている人が大勢いて、遺体が見つかったこと自体、まだしも「幸運」だったことも、次第にわかってくる。

しばらくしてから両親が参加した地元の同窓会は、再会の喜び以上に、悲しみの色が濃かったという。欠席した同級生の中には、もちろん被災の後始末で多忙だったり、家族を支えなければならなかった人もいたが、すでに死亡が確認されたか、行方がわからない人も多かった。「よく生きていたねえ」と抱き合う、運よく災厄を免れた人にしても、身内を亡くしたり、家が損壊したりとそれぞれに傷を負っていた。

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ずいぶん経ってからわたしが行く機会を得たときには、被災地域では大きながれきはもう取り除かれていた。港を過ぎて山を越えると、道路脇には奇妙にだだっ広い地面が広がっていた。土地を知らない人には、まるで分譲中の住宅地のような更地に見えたかもしれない。でも、そこは人がいて、町だったはずの場所だ。がれきだって、誰かの家の一部だったはずだ。

わたしは懸命に、記憶のなかの町並みを思い出そうとする。交差点のそばにあった書店、その先の食堂、ビールケースを高く重ねていた近所の酒屋……みんな、どこに行ってしまったのか。祖父母の墓があった寺さえなくなったというから、町ごと消えたと言ってもいいくらい、手がかりがなかった。

景色が一変してしまうと、知っている場所にもなかなかたどり着けない。変わらないのは後ろの山だけだったから、おじ・おばの家はこの辺りかと思うところにお花を供え、お香を手向けた。定年まで勤めあげたおじが建てたばかりの家は、跡形もなく消えていて、やっと見つけたのは玄関のタイルのかけらだけだった。

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行けば会えると思っていた人たちは、もう誰もいない。津波は、町を、家を飲み込んだだけでなく、今日の連続線の上で明日につながっているという安心感をも粉々に打ち砕いた。


大災害に見舞われたあとも、困難にめげず、懸命に復興に取り組んでいる人びとがいる。いろいろな建物が増えて、ずいぶん街らしくなったと風の便りに聞いた。

でも、おじとおばの家が流された今、わたしにはもう訪ねる人がそこにいない。お寺と一緒に流された一族のお墓は、震災のあと遠い町へ移されたから、もう訪ねるきっかけもないだろう。何かが、そこで途切れてしまった。

たぶん今年も、年末には、なつかしいふるさとや温かい家族の団欒のイメージが、繰り返しメディアで流されるだろう。しかし、一方で、いろいろな事情でふるさとに帰れない人、ふるさととのつながりを失くした人、ふるさとそのものが大きく姿を変えてしまった人がいることも、わたしは覚えていたいと思う。

いとこたちと海辺で過ごした楽しい夏だけが、記憶していたい、わたしのふるさとだ。

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